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第2話 ホコラー

 小学3年生だった僕は、家の裏にある古びた祠が用水路の水で流されないかと心配になった。台風が近づく夕暮れ時、僕はお母さんに内緒でそっと家を抜け出した。ぱっと開いた傘は黄色いたんぽぽの花のようだった。けれどそのあと、僕は用水路に落ちて流された。


 でも、その時のことはよく覚えていない。『賢治は用水路に落ちたんじゃ・・・そんで、祠の前で見つかったんじゃ』黄色い傘はグシャグシャに折れ曲がり、用水路下流の側溝に引っ掛かっていたとおじいちゃんは言った。


(誰が助けてくれたんだろう)


 不思議な体験をした僕の手首には、4本指の赤い痕が残っている。


(普通、手で握ったら・・・5本だよね?)


 消灯時間も過ぎ、静まりかえった病院のベッドの上で、僕はパジャマの袖をめくった。看護師さんが懐中電灯を持って廊下を歩いている。白い明かりが上下左右に動いた。


(あの時、僕は)


 仄暗い病室でも赤い指の痕はクッキリと見えた。それは本当に細くて、先っぽは鳥の爪みたいにとんがっていた。


(変なの、でもホコラー大丈夫かな)


 外の雨はどんどん強くなり、僕は泥水に浸かっていた祠とプカプカと浮いていた賽銭箱を思い出し、胸がチクリと痛んだ。この暴風雨でホコラーが壊れていないか、賽銭箱が流されていないか、松の枝が折れていないかと不安になった。『でも!大丈夫だよね!』僕は自分に言い聞かせた。けれど、胸のざわめきは落ち着かなかった。


「ホコラー・・・・」


 僕は、窓の外を見ようと思い、ベッドから起き上がった。ベッドが軋んだ音で、隣で眠っていたお母さんが『ううん』と寝返りを打った。心臓がドキドキした。僕は静かに両脚を床に下ろした。ヒヤリとした感触に背中まで震え上がり、僕は慌ててスリッパを履いた。


ぐーごぉぉ ぐーごぉぉ


 耳を澄ませると、一緒の病室に入院しているおばさんたちは、いびきをかいて眠っていた。チッチッチッと、壁掛け時計の針の音が響いている。僕はゴクリと息を飲み込んで、間仕切りのカーテンをゆっくりとつかんだ。サラサラとした手触りのカーテンから顔を出して見たけれど、そこには誰もいなかった。


(よかった、みんな寝てる)


 ホッとした僕は、またゆっくりとカーテンを閉じて、音を立てないように窓へと向かった。それはとても悪いことをしているような気がして、心臓が跳ね、耳鳴りがした。窓のカーテンまでもう少しというところで、なにかが開いたり閉じたりする音が聞こえた。


(あれ?この音・・・・なんだっけ?)


 それはどこかで聞いたような懐かしい音だった。


(この音、この音って!)


 突然、僕の緊張は一気に高まり、指先が小刻みに震えた。それはどこかで聞いた、祠の扉がギシギシ震えるような音だった。病室の窓を激しい雨と風が叩き、ガラスをガタガタと鳴らしている。僕がカーテンを開けようと腕を伸ばした時、ゆらりと黒い影が揺れ、ククククと笑う声がした。


「ホコラー!?ホコラーなの!?」


 僕がカーテンを開けるとそこには、暴風雨で今にも薙ぎ倒されそうな暗い竹林が広がっているだけだった。僕は夢中で、錆びた鍵をやっとの思いで外し、窓ガラスを開けた。ものすごい勢いで風と雨粒が病室に傾れ込み、痛いくらいに顔を叩いた。あっという間に僕はびしょ濡れになった。


「ホコラー!」


 僕はホコラーの名前を叫び、雨の中をじっと見たけど、胸がドキドキして涙が出てきた。病室の中の間仕切りカーテンは羽根のように舞い上がり、寝ていたおばちゃんたちは『なに!?どうしたの!』『風が寒いよ!閉めて!』と次々にベッドで起き上がった。


「賢治、なにをしてるの!?」


 お母さんは眼鏡を掛けてベッドから飛び起きると、僕を窓から引き剥がそうとお腹に手を回した。僕はその手を振り払い、手足を忙しなく動かした。けれど僕は簡単に床へと倒れ込み、尻餅をついた。その騒ぎに、看護師さんが駆け付け、『危ないから下がっていて下さい!』と、慌てて窓ガラスを閉め鍵を掛けた。


「賢治、あなた、なにをしてるの!?寝ぼけたの!?」

「だって、ホコラーがいたんだよ?」


 お母さんは怒っていたけれど、『良かった、良かった』と涙を流して、僕を痛いくらいに抱きしめた。僕の病室は3階で、タンポポの綿毛がふわりと舞っていた。


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