僕にはお父さんがいない。幼稚園の頃から、父の日の似顔絵はおじいちゃんの顔を描いていた。僕が住んでいるこの古い和風家屋は、おじいちゃんの家だ。お母さんは小さな僕を抱いて、障子がカタカタ鳴るこの家に引っ越して来た。
「ねぇお母さん」
「なに?」
月明かりが障子を照らす静かな夜、絵本を閉じたお母さんがタオルケットを掛け直してくれた。ウトウトしながら、父の日の似顔絵を思い出し、そっと聞いた。
「僕のお父さんはどこにいるの?」
お母さんの指先がピクっと震え、手の動きが止まった。僕が不思議そうに見上げると、電気スタンドの灯りに浮かび上がったお母さんの顔は悲しそうだった。僕は聞いてはいけないことに触れてしまったのだと胸がチクリと痛み、布団から飛び起きてお母さんに抱きついていた。すると、お母さんは僕の頭に顔を埋めて『ごめんね、ごめんね』と謝った。いつも笑顔のお母さんが泣いていることに驚いた僕は身動きが取れなかった。
「けんちゃん、ごめんね」
「うん、大丈夫だよ?お母さん、泣かないで」
僕はお母さんの背中に腕を伸ばすと、大きな背中をギュッと抱きしめた。窓ガラスがカタカタと風に揺れ、障子に黒い影が揺らめいたような気がした。
あれから3年、僕はおじいちゃんと毎日のように貴船様にお参りし、台風の思い出やホコラーの笑いを胸に秘めてきた。そして小学6年生の進級式を迎えた。それまで僕は、毎日のようにおじいちゃんと5円玉を持ってホコラーにお参りに行った。
お供えの花が枯れていれば、おじいちゃんが準備した黄色い菊の花束と、僕はタンポポの花を花立に活けた。手を合わせる時、おじいちゃんは『賢治を助けて下さってありがとうございます』と小さく呟いていた。僕も手を合わせて『ホコラー、助けてくれてありがとう』と心の中でお辞儀をした。
ククク
祠の扉が一瞬音を立て、おじいちゃんは目を丸くして驚いた。
「賢治、今のはなんじゃ?」
おじいちゃんは祠をじっと見た。
「風じゃない?」
「そ、そうか・・・祠の戸が動いたような気がしたんじゃが」
「風だよ、風」
僕は、ホコラーのことは、『どうせ誰も信じてくれないだろう』と考えるようになっていた。それで、大人や友達には内緒にすることにした。けれど僕の手首には、茶色くなった4本指の痕が残っている。そっとそれに触れるたび、僕は『本当は誰が助けてくれたんだろう』と不思議で、あの時、ホコラーと目が合った気がした。
「ねぇ、おじいちゃん」
ある日僕は、おじいちゃんに『ホコラーと一緒に写真を撮って欲しい』とお願いした。いつも一緒にいたいと思った。するとおじいちゃんは怖い顔になって僕の両肩を握った。
「賢治、貴船様で写真を撮っちゃ駄目だ」
「どうして?」
「貴船様を、家に連れて来ちゃ駄目だ、昔・・・」
「昔、なに?」
「なんでもない」
最近、貴船様が”縁結びのスポット10選”として全国誌で紹介され、大勢の観光客が村を訪れるようになっていた。用水路の道路は車のタイヤの跡が沢山ついて、カップルたちはVサインをして記念写真を撮っていた。『ああ、まただ!』マナーの悪い観光客は、貴船様の鳥居にゴミを捨てた。そのたびに近所のおばちゃんは苦々しい顔をした。『あの人たちにはよくないことが起こるよ』そう言ってゴミを袋に拾っていた。
(僕には優しいのに)
おじいちゃんもおばちゃんも、貴船様を怖いものだと言っていた。3年間、雨の日もホコラーに5円玉を供え、クククと笑う音を聞くたび、友達だと思っていた。ホコラーは僕の友達なのに、全然怖くないのに不思議だった。