夏休み
小学6年生の夏休み、貴船様の騒ぎも落ち着いた日、僕はおじいちゃん自慢の手打ちそばを食べていた。
縁側から吹き込む夏の風に、ガラスの風鈴の
(最近、ホコラーに会いに行ってないな)
僕は少年野球に入って、毎日、小学校のグラウンドに通っていた。そして家に帰れば夏休みの宿題で頭を悩ませ、自然と貴船様の祠から足が遠のいていた。そんなことを考えぼんやりしていると、お母さんが僕の顔を見た。『ネギも食べなさい』お母さん特製の少し甘ったるい蕎麦つゆに浮かぶネギを恨めしく見ていると『大人になれないわよ』と言われ、渋々ネギを口に運んで臭みに顔をしかめた。
ドンドンドン!ドンドンドン!
その時、突然玄関の扉を叩く音が響いた。
「おい!いるんだろ!おい!」
その声を聞いたお母さんは蕎麦つゆの茶碗をテーブルに置き、おじいちゃんは蕎麦を茹でる手を止めガスレンジの火を消した。その男の人の怒鳴り声は激しく、まるで雷が天井に落ちて来たようだった。お母さんの顔色は青ざめ、おじいちゃんが『奥の座敷に行きなさい』と僕とお母さんの背中を押した。お母さんは僕の身体を抱きしめて、座敷の隅に小さく縮こまった。
「・・・ワシが行く」
おじいちゃんはエプロンを外すと玄関へ向かった。お母さんは怯え、ガタガタと震えていた。僕はその手をギュッと握った。男の人とおじいちゃんは玄関の扉越しに話をしていたけれど、おじいちゃんのあんな厳しい怒鳴り声はこれまで聞いたことがなかった。なにを言い合っているのかよく聞き取れなかったけれど、その男の人は僕の名前を叫んでいた。とうとう男の人は玄関の扉を足で蹴り始めた。古い扉の
「あいつはどこだ!賢治をよこせ!」
男の人はおじいちゃんを突き飛ばした。テーブルの上の蕎麦が畳に飛び散り、蕎麦つゆの茶碗が割れる音がした。いつの間にか僕の身体は冷たくなって、歯の噛み合わせがガタガタと鳴った。僕とお母さんは抱きしめあい、襖をじっと見た。
「ここか!」
襖が勢いよく開き、派手なシャツとサングラスを掛けた大きな男の人が座敷に入ってきた。首には金色の太いネックレスが光っていた。僕はホコラーを思い出した。男の人は毛むくじゃらの腕で僕の腕を掴むと、お母さんから引き剥がした。その力は強かったけれど、用水路に落ちた時に感じた手とは全然違い、ゾワッと気持ちが悪かった。『賢治、探したぞ』サングラスの奥の目は蛇みたいだった。『い、嫌だ』『なに言ってるんだ、おまえの父ちゃんだぞ』それを聞いた瞬間、胸が締め付けられ、(お母さんが泣いたのはこの人?)と頭がぐちゃぐちゃになった
「お母さん?」
僕はお母さんの顔を振り返った。お母さんは目を見開いて、激しく首を横に振った。そして、『あの人じゃない』と小さく呟き、怯えた目で僕を見た。
「賢治、逃げろ!」
「お、おじいちゃん!」
「逃げるんじゃ!」
おじいちゃんが真っ赤な顔でその男の人に抱きついて叫んだ。僕は無我夢中で手を振り払うと、裸足で外に飛び出した。熱いアスファルトに足が焼けそうで、涙がこぼれた。縁側からおじいちゃんとあの男の人が激しく揉み合い、茶碗が割れる音が聞こえてきた。僕は右左、どちらに逃げようかと迷ったけれど、そこでホコラーの姿が浮かんだ。
(ホコラー!ホコラー!)
僕は震える足をもつれさせて、貴船様へと向かった。それはまるでスローモーションのようで、いつもは近い距離をとても遠く感じた。息が上がる、心臓が恐怖で張り裂けそうにドクドクと脈打った。いつの間にか僕は涙を流していた。
「ホコラー!助けて!」
僕は松葉の陰に隠れるように身をかがめ、貴船様の祠の裏で息を潜めた。ホコラーはいつものようにクククと笑うことはなく、怒っているようだった。祠の扉が激しくバタンバタンと開いたり閉まったりを繰り返した。僕はホコラーに守られているような気がして、深呼吸をすると足の震えが小さくなった。
ピーポーピーポー
しばらくすると警察の車のサイレンが鳴り響いて、僕の家の近くで止まった。『なに、どうしたの!?』近所のおじさんやおばさんが家から顔を出した。あの男の人は警察に捕まったらしく、おじいちゃんとお母さんが僕を探しに来た。僕はお母さんに抱きついて声を出して泣いた。
ククク
その時、僕は貴船様が”縁切り”の神様だということを思い出した。僕は心の中で『ホコラー、あの男の人と縁が切れますように!お願いします!』と何度も唱えた。すると祠の扉がゆっくりと開いて、見えないなにかが外に這い出したような気がした。
数日後
「お母さん!あの人が!」
テレビにのニュース番組に、派手なシャツを着た男の人の写真が映し出された。アナウンサーはその事件を淡々と読み上げた。
ーーーー(49歳)さんは路上で通り魔に遭い、鋭利な物で刺され死亡しました
ニュースを見た僕は、(ホコラー、縁を切ってくれたの?)と震え、4本指の痕を見つめた。