夏休みのあの事件から数年、僕の父親らしき人物が通り魔に遭って亡くなったことは、我が家でタブーだった。僕もあえて尋ねなかったし、母は笑顔で料理を作り、おじいちゃんは静かに蕎麦を打ち、僕らは貴船様をそっと避ける日々だった。
(ホコラーに会いに行こうかな)
高校3年生の夏、教室の窓から見える青空の下、僕はあの日のホコラーを思い出しながら教科書のページをぼんやりとめくっていた。ホコラーの縁切りは僕らを守ったけど、殺人事件という重さに胸がざわつき、(本当に良かったのか)と夜中に考えることがあった。タンポポの綿毛がカーテンの風に揺れ、遠くからクククとホコラーの笑い声が聞こえたような気がした。
(大きくなった僕を見て、ホコラーは驚くかな)
僕は財布に5円玉を入れ、黄色い菊の花束を買った。用水路の道を上流に向かって歩くと、会いたい気持ちと畏れが交互に押し寄せた。ホコラーの存在は超常現象だと僕は気付いた。現に今、貴船様に近付くにつれ、手首の4本指の痕がチクチク疼き、『鳥の爪みたい・・・通り魔の刃物と関係ある?』と考えると、背筋がゾッとした。
(僕のことを、覚えているかな・・・忘れちゃったかな)
僕は貴船様の赤い鳥居の前に立った。相変わらず松の木が濃い影を落とし、涼しい風が汗ばむ首筋をなでた。僕はハンカチで首筋を流れる汗を拭いて深呼吸をした。サラサラと流れる用水の流れに、虹色の千羽鶴が映えて美しかった。ただ、僕の目線だけが高くなって、貴船様は変わらず厳かな雰囲気に包まれていた。祠の前でしゃがみ、枯れた花を黄色い菊に取り替え、『ただいま』と心で呟いた。その黄色は、あの日の黄色いタンポポの花を思わせた。
(新しくしたんだ)
賽銭箱は新しいものが置かれていた。真新しい賽銭箱に5円玉をソッと投げ入れた。乾いた音が箱の中で響いた。村の人たちが貴船様を守っていると思い、嬉しかった。僕は祠の前で手を合わせると(ただいま、ホコラー・・・あの時はありがとう)と小さく呟いた。するとクククと笑い声が聞こえ、確かに祠の扉が静かに開いた。それはまるで『おかえり』と言っているような気がした。
「ホコラー、クッキーを持って来たよ。一緒に食べよう」
扉は静かに閉まった。僕は祠の隣に腰掛けるとクッキーを半分に割った。ククク・・・僕は、ホコラーが覚えていてくれたことが嬉しかった。(あれ、なんだろう?)ふと見ると、赤い鳥居の向こうに立て看板があった。回り込んで見た僕は後頭部を殴られたような衝撃を覚えた。
「リゾート計画、なんだよこれ・・・観光客が増えたから?」
その看板には、リゾートホテルを建設する計画で、貴船様は村の外れに移転すると書かれていた。僕は唇を噛み、握り拳を作った。
(ホコラー、今度は僕がホコラーを守るよ)
祠の扉がカタカタと揺れた。