「君、ちょっとだけでいいから、普通にしてくれないか?」
隣の席に着いた香に、蒼馬は小声でそう囁いた。
香は両手を膝に揃え、背筋をピンと伸ばしたまま、申し訳なさそうに首を傾ける。
「普通、とは……掃除も、食事の用意も、校内案内もすべて引き受けるという意味でよろしいのでしょうか?」
「いや、全然違う」
返答が斜め上すぎて頭が痛くなりそうだった。香の言葉に過剰な丁寧さはあるが、悪意はない。その目はまっすぐに、彼を信じきっている。
(なぜ、俺なんだ)
蒼馬は心の中で小さく呟いた。
――一時間目は国語。隣の席の香は、授業中も姿勢を崩さず、板書を取る手元も驚くほど整っていた。問題は、その合間合間に挟まる謎の一言。
「この漢字、お使いになりますか? よろしければ清書いたします」
「お飲み物はいかがでしょう、学習のお供に……この校則には反しない範囲で」
「お昼のご予定は、お弁当でございますか? それとも、お外に狩りに――失礼いたしました、買いに行かれますか?」
その度に、周囲のクラスメイトたちは笑いをこらえ、あるいは露骨に耳をそばだてていた。
「蒼馬の横だけ異世界みたいになってんだけど!」
「お弁当持ってこなくてよかった~。香さん、私の分もお願いできます?」
昼休み、クラス女子たちの興味が爆発した。香はまったく悪びれず、誇らしげに胸を張る。
「はい、ご主人様が望まれれば、喜んで。お弁当も、お洗濯も、交渉事も、刺客の処理も、なにもかも――」
「それ最後の一個、完全に物騒だからな!?」
蒼馬はついツッコミを入れてしまう。
だが香はほんのりと笑みを浮かべて、テーブルの上で手を組む。
「私は、この身をもって、お仕えする覚悟で来ました。ここに来た理由は……まだ、秘密でございますけれども」
「隠すくらいなら、最初から言わなきゃいいのに……」
――その時だった。教室の後方ドアがバタン、と勢いよく開いた。
「香っ! あなた、また勝手な行動を……!」
現れたのは、セミロングの髪を揺らす一人の女子生徒。タイトなスカートにストッキング、赤い腕章が光っていた。
「生徒会……長?」
「香澄さん。ごきげんよう。任務は完遂しております。新しいご主人様との接触も、問題ございません」
「勝手に“任務”扱いしないでくださいっ!」
香澄は、明らかに怒っているのに、なぜか語尾だけやけに甘ったるい。しかも怒っている相手は……香だけじゃない。蒼馬も、睨まれていた。
「……蒼馬くん? あの子に変なこと、してないでしょうね」
「俺が被害者だよ!?」
香澄はふんっと鼻を鳴らすと、スカートを翻して去っていった。
「……あの人も、ちょっと特殊?」
「はい、たぶん“ああいう性質”なのだと思います。甘えたがりで、でも強く見せたくて……だから、つい、誰かに八つ当たりしてしまうんです。とくに、好きな人に」
「好きな……って、なんで知ってんの?」
「ご主人様の近辺の情報は、全て把握しております。必要であれば、盗聴器の設置場所もお伝えいたします」
「怖すぎるわ!」
つづく(End 第1章完)