「……今朝のことだけどさ、俺、まだ夢見てたんじゃないかな」
昼休み、屋上のベンチに座りながら、蒼馬は小さく呟いた。
一緒にいた颯太が、無言でコンビニおにぎりを頬張りながら首を横に振る。
「現実だったよ。メイドが出てきて、生徒会長が発火寸前で、あと“盗聴器の設置場所リスト”って何だよ、普通」
「俺が聞きたいわ」
屋上には風が吹き抜け、遠くで吹奏楽部のチューニング音がかすかに聞こえた。こうしていると、なんでもない高校生活に見えるのに――。
「それより、あの子の話、聞いた?」
颯太が、不意にトーンを落とした。
「隣の席の、あの……名前、なんだっけ。静かすぎて印象薄いっていうか」
「絃葉だよ。川越絃葉」
「ああ、それそれ。なんか、“病弱”とか“文学少女”とか言われてるけど、あの子、どうもそれだけじゃないらしい」
「なにそれ、都市伝説かよ」
蒼馬は苦笑しつつ、階段を降りていった――。
放課後、教室に戻ると、絃葉はいつもの席で、文庫本を読んでいた。窓際の光に照らされるその横顔は、まるで一枚の静物画のように整っていた。
「……また、本?」
声をかけると、絃葉はゆっくりと本から視線を上げた。
「ええ。あなたの声量、ちょうど一文ぶん、文字を読み飛ばしました」
「ごめん、それは……なんか悪い気がしてきた」
「謝る必要はないわ。読書に集中できないのは、私の意志の弱さのせい」
蒼馬は、少し困ったように笑った。
(やっぱり、ちょっと面倒なタイプかも)
彼女の喋り方は決して冷たくはない。ただ、すべてを見透かしたような淡々とした調子が、なんとも言えず距離を感じさせた。
「ところで。さっき、あなた、香さんに“ご主人様”って呼ばれてたけど……まさか、本気でそういう関係なの?」
「やめてくれ。なんでそういう風に広まってんだよ……!」
「面白いからじゃないかしら?」
「それを言うな」
蒼馬が顔を覆うと、絃葉はほんの少し、唇の端を持ち上げたように見えた。
笑った――のかもしれない。いや、気のせいかもしれない。とにかく、表情の変化が絶妙にわかりづらい。
「あなた、読書は好き?」
「……正直、苦手だ。眠くなる」
「正直でよろしい。眠くなるような内容は、大体、書き手のせいよ」
その発言には、妙な説得力があった。
「でも、“この一文を読むために数百ページをめくる価値があった”と思える本に出会ったことがある?」
「……いや、たぶん、ない」
「なら、私が貸してあげるわ。ちょっと毒が強いけど、心に刺さるやつ。……そういうのが好きそうに、見えるから」
絃葉は、机の中から一冊の薄い本を差し出した。表紙には、一輪の白い花と、無題のタイトル。
「……ありがとう。読むよ」
「読むだけじゃダメ。感想、きかせて」
その目は、じっと蒼馬を見ていた。
(この子……こんなに強い目をするんだ)
ダウナーで無口で、文学少女。
でも、何かを本気で伝えようとしてくるこの目だけは、思っていたよりずっと熱かった。
つづく(01)>>