翌日――。
放課後の図書室は、図書委員の柔らかな「お静かに」の声と、ページをめくる音だけが空気を支配していた。
蒼馬は、昨日絃葉から借りた本を抱えて、意を決してその空間に足を踏み入れた。
「ここ、空いてる?」
彼女は、窓際の席で既に読み耽っていたが、静かに頷いた。
「ええ。席は空いてるわ。でも、心までは空けてないから」
「それ、座る前に言われるとちょっと緊張するんだけど……」
椅子を引いて座ると、絃葉が本を閉じて、こちらをじっと見つめてくる。
「……読んだ?」
「ああ。最後まで」
「感想は?」
「なんていうか、読んでて……痛かった。主人公の気持ちが、ひたすら自分に刺さってくる感じ」
「ふうん。それ、嫌だった?」
「いや……逆に、少し楽になったかもしれない」
絃葉の目が、一瞬見開かれた気がした。
「そう。なら、よかったわ」
彼女は再び本を開こうとしたが、ページをめくる手が止まった。
「実はね、あの本、私の父が書いたの」
「……え?」
「筆名だけどね。昔は売れてたの。でも……ある時から、何も書けなくなった」
彼女は視線を本に落としながら、続ける。
「感情を押し殺すようにして生きてる父を見てると……時々、怖くなるの。ああ、私もそうなるのかなって。感動しないふりをして、誰とも向き合えなくなって……ただ、文章だけを盾にして生きるような」
「でも、あの本を選んで俺に貸してくれたのは、絃葉だろ?」
「……そうね。あなたはたぶん、正面から人の言葉を受け止める人だと思った。拒絶してないもの、誰かの痛みを」
静かな口調。でも、確かに“言葉”として、蒼馬に届いた。
「ありがとう。……たぶん俺、読んでよかったよ」
「感想が“読んでよかった”って、それ感動した映画のエンドロールじゃない。もうちょっと捻りなさいよ」
思わず笑ってしまった。
そして、絃葉もまた、小さく笑った。目元がふわっと緩んで、初めて“普通の女の子”らしい表情を見せた。
「……こんなふうに笑うの、久しぶりかも」
ぽつりと、呟く。
「それ、俺のおかげ?」
「どうかしら。あなた、“成果は自分だけのものにしたい”タイプなんでしょう? じゃあ、あげない」
「意地悪だな……」
「文学少女は、意地悪なぐらいがちょうどいいの」
外の空が、ゆっくりと夕焼けに染まり始めていた。
その淡い光に包まれた絃葉の横顔は、まるでさっき読んだ本の最後の一文のように、強く胸に残った。
つづく(End 第2章完)