朝のホームルーム前。
香は、まだ誰もいない教室の掃除をしていた。
――毎朝一番に登校し、誰にも頼まれずに窓を拭き、チョークの粉を落とし、机の位置をミリ単位で揃える。
それはもう、習慣であり、儀式でもあり……そして、彼女なりの“好き”の伝え方だった。
(だってご主人様――蒼馬様が、気持ちよく授業を受けてくださるように)
もちろん、彼は「ご主人様」なんて呼ばれることに毎回ツッコミを入れてくるし、先生たちからも「制服違反です」と注意される。
でも香は、それでも変えようとはしなかった。
(私が“普通の生徒”になったら、きっと見てもらえなくなる)
それが、彼女の小さな不安だった。
ある日の放課後。
香は廊下を歩いている蒼馬に声をかけた。
「本日も、給湯室より冷水を運んで参りました。飲まれますか?」
「なんで俺が“執事喫茶のゲスト”みたいな扱い受けてんの?」
「では、飲まれませんか?」
「いや、飲むけど……」
受け取った水は冷たくて、ほのかにレモンの香りがした。
たぶん、彼女なりに調整して入れてくれたのだろう。
「ありがとな、香」
その一言に、香は一瞬だけまばたきし、頬を赤らめる。
「……もったいなきお言葉。ですが、私はまだまだ未熟です。礼など、早すぎます」
「謙遜が行きすぎてて、もはや心配だよ」
蒼馬が歩き出すと、香も慌てて後を追った。
「ご主人様!」
「違う! もうその呼び方やめよう!」
「では、“蒼馬様”?」
「様もいらない!」
「……では、蒼馬……くん」
その瞬間、彼女の顔は真っ赤になった。
「今の記録、録音しておくべきだったな」
「し、しないでくださいませぇっ!」
廊下に響く、香の慌てた声。その後ろを、笑いながら歩く蒼馬の姿。
いつもの光景。だけど――それは、香にとって特別な一日だった。
その夜、香は自室の机に向かって、日記帳にペンを走らせる。
「本日、初めて“蒼馬くん”と呼びました。
緊張で足が震えましたが、これも“進歩”というのでしょうか。
明日も、ご主人様――じゃなくて、蒼馬くんに笑ってもらえるように努力します。
……まだ、理由は言えませんが。
いつか必ず、ちゃんと伝えます」
ページを閉じ、静かに電気を消す。
“メイド服”の転校生は、不器用なまま、少しずつ心の距離を詰めていた。