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スピンオフ:属性の彼女たち side.香「お仕えする理由、まだ言えません」(00)

 朝のホームルーム前。

 香は、まだ誰もいない教室の掃除をしていた。


 ――毎朝一番に登校し、誰にも頼まれずに窓を拭き、チョークの粉を落とし、机の位置をミリ単位で揃える。

 それはもう、習慣であり、儀式でもあり……そして、彼女なりの“好き”の伝え方だった。


(だってご主人様――蒼馬様が、気持ちよく授業を受けてくださるように)


 もちろん、彼は「ご主人様」なんて呼ばれることに毎回ツッコミを入れてくるし、先生たちからも「制服違反です」と注意される。

 でも香は、それでも変えようとはしなかった。


(私が“普通の生徒”になったら、きっと見てもらえなくなる)


 それが、彼女の小さな不安だった。


 ある日の放課後。

 香は廊下を歩いている蒼馬に声をかけた。


「本日も、給湯室より冷水を運んで参りました。飲まれますか?」


「なんで俺が“執事喫茶のゲスト”みたいな扱い受けてんの?」


「では、飲まれませんか?」


「いや、飲むけど……」


 受け取った水は冷たくて、ほのかにレモンの香りがした。

 たぶん、彼女なりに調整して入れてくれたのだろう。


「ありがとな、香」


 その一言に、香は一瞬だけまばたきし、頬を赤らめる。


「……もったいなきお言葉。ですが、私はまだまだ未熟です。礼など、早すぎます」


「謙遜が行きすぎてて、もはや心配だよ」


 蒼馬が歩き出すと、香も慌てて後を追った。


「ご主人様!」


「違う! もうその呼び方やめよう!」


「では、“蒼馬様”?」


「様もいらない!」


「……では、蒼馬……くん」


 その瞬間、彼女の顔は真っ赤になった。


「今の記録、録音しておくべきだったな」


「し、しないでくださいませぇっ!」


 廊下に響く、香の慌てた声。その後ろを、笑いながら歩く蒼馬の姿。

 いつもの光景。だけど――それは、香にとって特別な一日だった。


 その夜、香は自室の机に向かって、日記帳にペンを走らせる。


「本日、初めて“蒼馬くん”と呼びました。

 緊張で足が震えましたが、これも“進歩”というのでしょうか。

 明日も、ご主人様――じゃなくて、蒼馬くんに笑ってもらえるように努力します。

 ……まだ、理由は言えませんが。

 いつか必ず、ちゃんと伝えます」


 ページを閉じ、静かに電気を消す。

“メイド服”の転校生は、不器用なまま、少しずつ心の距離を詰めていた。

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