薄暮が迫る伯爵家の屋敷に、いつになく重々しい空気が漂っていた。
レイナ・ヴェルネは、身にまとった淡い瑠璃色のドレスの裾をそっとつまみながら、深い溜息をつく。応接間の窓際に立ち、厚手のカーテンを少しだけ開くと、黄昏色の庭園が見えた。夕日を反射した噴水がきらめき、夏の名残の風が木々を優しく揺らしている。日常であれば、そんな景色に心が和むはずだった。しかし今は、まるで胸を締め付けられるような切迫感から逃れられない。
背後で、家具がきしむ音がした。振り返ると、彼女の養父であるデュラン・ヴェルネ伯爵が、重たい書類の束を机の上に積み上げているところだった。伯爵といっても、この屋敷に繁栄の面影はすでに薄い。壁の装飾はかつての輝きを失い、床に敷かれた絨毯はところどころ擦り切れている。とりわけ、当主であるデュラン伯爵の表情からは、あからさまな疲労の色が消えないでいた。
「レイナ、すまないな」
彼はそうつぶやきながら、手元の書類を一瞥する。そこに目を落とす彼の横顔には、父親としての優しさと、同時にどうしようもない無力感が混ざり合っていた。レイナが生まれも育ちも伯爵家というわけではないことは、本人だけでなく使用人たちも承知している。彼女はもともと平民出身で、幼い頃にある事情からヴェルネ家に引き取られた。正式に伯爵家の養女として迎えられたが、貴族としてふさわしい教育を受ける一方で、血筋を誇りに思えるかどうかは常に迷いがあった。
それでもレイナは、優しい養父や使用人たちに囲まれ、できる限りの感謝を示してここまで生きてきたのだ。だからこそ、彼女の胸中には養父を責める気持ちは毛頭ない。
レイナは一つ息を吐き、彼の横に立って書類に目をやる。読みもしなくても分かる。これは莫大な借金の証文や、領地内での不作続きによる収支報告――そんな厳しい現実を列挙した、負債に関する書類のはずだ。
「……もう、これしか方法がないのでしょう?」
レイナの問いに、デュラン伯爵はしばらく沈黙していた。部屋の片隅にかけられた振り子時計が、淡々と時を刻んでいく。その音がやけに大きく感じる。
「正直、他に道はない。もしこれを逃せば、我が家は破産はおろか、領地そのものを手放すことになるだろう。そして、伯爵家を支える多くの者が行き場を失う」
「分かっています」
レイナはそう短く答えた。彼女の唇はきゅっと結ばれ、瞳には覚悟が宿っている。ヴェルネ家がいま直面している厳しい現実、そして一縷(いちる)の望みとして提示された“結婚”という条件――。すべてを受け入れるしかないと、彼女は理解していた。
話によれば、その結婚相手は侯爵位を持つ男、カイゼル・アルステッド侯爵だという。アルステッド家は近年急速に勢力を拡大し、その豊かな財力と広大な領地で王国の中でも一目置かれる存在らしい。なかでも現当主であるカイゼルは、王国の重鎮たちからも恐れられるほどの切れ者であり、決して情に流されない冷徹な人物――そう噂されている。
しかし同時に、カイゼル・アルステッド侯爵には「仮面の侯爵」という異名がある。貴族たちの夜会にもほとんど姿を現さず、現しても常に左半分を仮面で覆っているという。それが顔の傷を隠すためなのか、それとも素顔を見せない主義なのか、その理由を知る者はほとんどいないようだ。諸説あるが、どれもはっきりとした真実には辿り着いていないらしい。
表舞台に立たずとも、彼の名前を知らぬ者はいない。そして、その莫大な財産と影響力をもってすれば、ヴェルネ伯爵家の破綻を救うことは容易だろう。
だが、どれだけ金銭的な救いを得られようと、問題は“仮面の侯爵”という存在そのものにある。異様ともいえる仮面の噂と、何よりその冷たい性格。もし結婚をすれば、レイナは生涯を彼の配偶者として過ごさねばならない。それは単なる“契約”であっても、婚姻関係という名目に変わりはないのだ。
レイナの胸には、不安と戸惑いが渦巻いていた。自分は本当に、その結婚を受け入れることができるのだろうか。
「明日、カイゼル侯爵がここを訪れるそうだ。……レイナ、心の準備はできているか?」
デュラン伯爵の問いかけに、レイナは一度は肯定の言葉を用意しながら、声にするのを躊躇した。まるで息が詰まるようだ。
「……はい」
しかし、ほかに選択肢はない。彼女はギリギリの声で答え、唇を噛みしめた。
静寂の中での決意
その夜、レイナは部屋の窓辺に腰かけ、月を見上げていた。壁にかけられた小さなランタンがかすかに光を放ち、彼女の淡い金色の髪を照らす。育ちこそ伯爵家であったが、平民の血を引く自分がこうして貴族の娘として過ごしている事実に、時折不思議な感慨を抱くことがある。
とはいえ、実際には伯爵家も豊かではない。領地は長年の不作と疫病の流行で荒れ、借金が嵩んだ結果、ついに返済が困難になった。このままでは多くの使用人を解雇し、屋敷も売り払わなければならなくなるだろう。伯爵家の名誉が失墜するだけでなく、領民たちの暮らしにも大打撃を与えることになる。
それを一度に救えるのが、アルステッド侯爵からの「結婚による縁組」の申し出――。突如として現れた申し出には裏があるのではないかと、レイナは疑いを拭えなかった。そもそも、なぜカイゼル・アルステッド侯爵が名もない伯爵家――しかも養女である自分をわざわざ嫁に迎えようとしているのか。その理由が分からない。
もしや何らかの政治的駆け引きなのか、それともヴェルネ伯爵家に眠る何かを狙っているのか。だが、いくら思考を巡らせても、実情は不透明なままだ。
「私には、何ができるんだろう……」
月明かりに照らされた自分の手のひらを見つめながら、レイナはそうつぶやく。ここで逃げ出したところで、行き場はない。自分を受け入れてくれたヴェルネ家を見捨てることなど、到底できるはずがなかった。
結婚という形であれ、父の助けになるのであれば、やはりやるべきなのかもしれない。たとえ心の底でどんなに不安を抱えようと、今は決断を下さねばならない時なのだ。
「父様にも、皆にも、私は恩を返さなくちゃ」
そう思うと少しだけ気が楽になった。自分に与えられた立場の中で最善を尽くす――そう心に言い聞かせたとき、部屋のドアが控えめにノックされる音がした。
「レイナお嬢様、失礼いたします」
現れたのは、彼女の侍女にしてよき友でもあるリリーだった。栗色の髪をきっちりとまとめた彼女の顔には、心配そうな色が浮かんでいる。
「少し心配で……今日はご夕食もあまり召し上がりませんでしたから」
リリーの優しい声を聞き、レイナは微笑んで「大丈夫よ」と返した。
「そう……心配かけてごめんなさい。ちょっと考え事をしていただけ」
「お嬢様……」
リリーは言葉を探すように、一度唇を閉じる。だが結局、明確な慰めの言葉が見つからないのか、すぐにまた視線を落とした。
「無理はなさらないでくださいね。今夜はよくお休みになって、明日に備えてください。何かあれば、すぐに私を呼んでくださいませ」
レイナは静かに微笑んだ。リリーの存在は、自分がこの屋敷にとって“溶け込めないよそ者”であった時代から大きな支えだった。
「ありがとう、リリー。あなたがいてくれるだけで、心強いわ」
そう返すと、リリーもまた安心したように微笑む。
レイナはしばらくリリーと他愛のない会話を交わし、彼女を部屋から送り出した後、しっかりと戸締りをしてから再び窓辺に戻った。
今夜はきっと眠れないだろう。それでも少しでも気持ちを落ち着けるため、レイナはろうそくの灯りで小さな書を開いた。本を手にしている時だけは、いくぶん心が安らぐ。いつしか夜が更け、月が雲に隠れてしまう頃、レイナはベッドへと身を沈めた。
決断の日、再来
翌日の朝、屋敷はいつになく慌ただしかった。玄関ホールや応接室の掃除、庭の手入れまで、全使用人が「カイゼル・アルステッド侯爵を迎えるため」に奔走している。ヴェルネ家にとって、大事な客人であることは間違いない。
レイナもまた、いつも以上に気合を入れて身支度を整えていた。といっても、派手に着飾るつもりはない。伯爵家の養女として、最低限の品格を示す程度のドレスと控えめな装飾品で十分だろうと考えていた。
鏡に映る自分の姿を見て、レイナはふと唇を引き結ぶ。現在十九歳。平民の家に生まれ、五歳で両親を亡くし、運よくヴェルネ家に引き取られて以来、必死に貴族としての教養を身に付けてきた。華美な振る舞いは苦手だが、それでも所作や etiquette(エチケット) はきちんと身につけてあると自負している。
それよりも問題は、この先出会う“仮面の侯爵”に、自分がどう見られるのか――そして、どのような理由で自分を求めるのか。その真意である。
「お嬢様、そろそろ馬車が門に到着されます。お迎えの準備を」
廊下からリリーの声がし、レイナはすぐさま立ち上がった。緊張感からか、心臓が小さく高鳴っている。
階段を降りると、養父のデュラン伯爵がすでに玄関ホールで待ち構えていた。彼の表情は昨夜にも増して強張っている。
「……来るか」
彼のその一言に、レイナはただ無言で頷く。屋敷の外には高級そうな馬車が何台も止まっているのが窓から見えた。御者の手際が良く、続々と使いの者が降りている。やがて、主と思しき人物が姿を現した。
玄関扉が開かれ、まずは黒いマントを纏った男が一人、礼儀正しく頭を下げる。どうやら護衛か従者のようだ。続いて、その奥から堂々たる雰囲気を纏った細身の男がゆっくりと歩み出る。
――ああ、この人が噂の“仮面の侯爵”……。
レイナはそう直感した。黒を基調とした、質の良さそうなタキシードの胸元には、小さな金属製の装飾が施されている。顔立ちは整っているようだが、その左半分が銀色の仮面で覆われていた。頬から眼のあたりまでを隠すような、美しくも冷たい輝きを放つ仮面である。
「はじめまして、カイゼル・アルステッドと申します。突然の訪問、お許しください。ヴェルネ伯爵閣下」
彼は声を発すると、まるで舞台の俳優のように優雅に一礼をする。その仕草には嫌味のない気品がありながら、どこか鋭利な雰囲気が漂っていた。デュラン伯爵は息を呑んだようだ。
「これはこれは、アルステッド侯爵様。よくぞおいでくださいました。ようこそ、我がヴェルネ家へ」
伯爵が慌てたように頭を下げ、レイナもまた軽くスカートの裾をつまんで礼をする。
「……はじめまして。レイナ・ヴェルネと申します」
彼女が静かに名乗ると、カイゼル侯爵はちらりとレイナに視線を送り、口角をわずかに上げた。目元の表情は仮面で半分隠れているが、彼女を観察するような冷徹さがその残り半分からは感じられる。
「では、早速ですが中へ。話を続けたいと思います」
カイゼル侯爵がそう告げ、伯爵家の使用人に導かれるまま邸内へと進んでいく。その後ろ姿を追いかけながら、レイナは初めて目の当たりにする“仮面の侯爵”という存在に、奇妙な胸のざわめきを覚えていた。
仮面の侯爵の打診
応接室には、褪せた壁紙と古びた調度品が並んでいた。普段から客人を招く機会が少なくなったヴェルネ家では、ここが一番見栄えのする部屋ではあるのだが、アルステッド家の豪奢(ごうしゃ)を思えば、それはあまりに質素だ。
カイゼルは特にそのことを気に留める様子もなく、静かにソファに腰を下ろす。奥に控えている従者らしき男たちにも、無用な口出しをしないよう合図を送った。余計な混乱を避けようとする、その手際の良さが伺える。
一方、デュラン伯爵は気まずそうに椅子に腰かけ、レイナは伯爵の隣に並んだ。
「さて、アルステッド侯爵様。先日の書簡では“大切なお話”とだけございましたが……やはり、“結婚”に関するお話でしょうか」
伯爵がまず切り出す。もちろん分かっていることだが、改めて口にすることでその重みを確認しているのだ。
「ええ。既に書簡で触れましたが、私はヴェルネ伯爵家に縁組を申し込むために参りました」
カイゼルは落ち着いた声で続ける。「仮面」のせいか、どこかその声には冷たさと低さが混ざり合っていた。
「わがアルステッド家は、先祖代々王家に仕えております。しかし私の父が亡くなり、私が当主となってからは、家名を継ぐ跡継ぎの問題が浮上しましてね。そこで思案した末、縁談を探していたのです」
カイゼルはそこで一息つくと、レイナに視線を向ける。仮面の下の眼差しはどこまでも冷静で、感情を推し量るのは難しかった。
「ヴェルネ伯爵の養女であるレイナ・ヴェルネ嬢。あなたについて、多少の噂は耳にしています。平民出身でありながら、伯爵家の娘としての立ち居振る舞いや品性に優れている、と」
「……」
レイナは、まっすぐにその言葉を受け止めた。自分の出自のことを指摘されて嫌な思いを抱くかと思いきや、意外にも彼の口調には軽蔑の色が見えない。ただ事実を淡々と述べているようだった。
「私は結婚相手に、気位ばかり高くて使えない貴族の娘を望んでいない。むしろ地に足の着いた者を好む――そう思っていたところに、ヴェルネ伯爵家が財政難に苦しんでいるとの噂を聞きましてね。お互いに利益となるような関係が築けるのではないか、と考えたのです」
その言葉が嘘ではないのかもしれない、とレイナは思う。それでも、なぜ数多いる貴族の中から“ヴェルネ家の養女”を選んだのかは、依然はっきりしない。表向きは「互いに利益がある」と称しているが、もしかしたら彼はもっと別の意図を持っているのかもしれない。
デュラン伯爵は申し訳なさそうに頭を下げる。
「侯爵様には、私どもの事情をくみ取っていただき、感謝の念に堪えません。もしレイナとの縁組によって、我が家をお助けいただけるのであれば……」
その言い回しからして、もはやヴェルネ家には断るという選択肢が残されていないことを痛感させられる。レイナもそれを承知しているからこそ、今ここにいるのだ。
「ですが、私は一つ確認したいことがございます」
カイゼルは伯爵に向けていた視線をわずかに外し、レイナに向き直った。
「あなた自身の意志です。あなたは、私との縁組をどう思っているのか――それを聞かせていただきたい」
レイナは少しの戸惑いを覚える。この場にいる誰もが“選択の余地はない”と考えている。実際、彼女が首を縦に振らなければ、ヴェルネ家は破滅の一途をたどる。
それでもカイゼルは、いま自分に「どう思うか」と質問を投げかけている。
「……わたくしは――」
どう答えればいいのだろう。彼にとっては、この結婚は単なる取引の一つなのかもしれない。それならば、こちらも「助けていただけるならありがたい」と素直に言えばいいのだろうか。
しかし、レイナは視線を逸らさず、まっすぐカイゼルを見つめることを選んだ。
「わたくしは、ヴェルネ家に恩があります。この家がなければ、私はとうの昔に野垂れ死にしていたかもしれません。もし、この結婚で家が救われるのなら――私は、身を捧げる覚悟があります」
静かながらもはっきりとした声で言い切るレイナに、カイゼルは一瞬、目を細めたように見えた。仮面で大半が隠れているため表情の変化は読み取りにくいが、少なくとも嫌悪や嘲笑ではなく、興味をそそられたような雰囲気だった。
「ふむ。……その覚悟があれば十分だ。私にとっては、あなたの身分より、あなたという人間がどのように人生を生きてきたのかが重要だ。そういう点では、あなたは興味深い」
興味深い、という言葉に、レイナは不思議な感触を抱く。彼が自分に対して何を考えているのか、まだ掴めない。
「では、決まりだな」
カイゼルはそう言うと、従者に一枚の書類を取り出させた。羊皮紙には何やら細かい条文が書かれており、いかにも法的拘束力を伴う契約書のようである。
「これが私とヴェルネ家が交わす正式な契約書だ。内容は大まかに言えば、私がヴェルネ伯爵家の借金を肩代わりし、さらに今後の資金援助を行う。その代わりに、レイナ・ヴェルネ嬢を私の正妻として迎え、婚姻によってアルステッド家の一員とする――以上となる」
あまりに端的で、無機質な言い回しだ。まるでビジネスの契約を交わすかのよう。レイナは胸に重苦しいものを感じたが、それでも「そういうものだ」と納得するしかない。
「もし問題がなければ、今ここで署名をしていただきたい。そして、近々にも式の準備に入ろう」
カイゼルの従者がテーブルの上に契約書を広げ、伯爵とレイナの前に差し出した。デュラン伯爵は目を通すと、わずかにため息をつきながら、しかし嬉しそうな顔でペンを走らせる。続いてレイナにもサインを求められる。彼女の手は、微かに震えていた。
「……これでいいのでしょうか」
レイナが最後の一筆を入れ、封印のための印を押す。カイゼルが書類を手に取り確認すると、満足そうに頷いた。
「ええ、これで正式に“契約”が成立しました。伯爵、そしてレイナ・ヴェルネ嬢、よろしく頼みます」
ただそれだけを告げると、カイゼルは再び優雅に一礼する。その仮面は、やはりどこか冷たく、彼の真意をすべて隠しているようにレイナには思えた。
愛ではなく契約
契約が成立してしまえば、あとは手際良く物事が進んでいく。アルステッド侯爵の配下の者たちは手筈を整え、結婚式の日取りや場所、衣装など、あらゆる段取りを迅速に進めるとのことだった。ヴェルネ家側はただ同意を示すだけである。資金援助については、契約締結後すぐにでも一部が実行され、ヴェルネ伯爵家は当面の危機を免れることになる。
応接室で一通りの話し合いが終わると、カイゼルは最後にレイナへ言葉を残した。
「レイナ・ヴェルネ嬢。あなたにはいずれアルステッドの屋敷に来てもらうことになる。結婚式をするのは王都にある聖堂だが、式までの日々は私の管理下に置かれることを忘れないでほしい」
管理下――その言い回しの響きに、レイナは少しだけ身震いした。しかし、彼はあくまで仕事のように淡々と語るだけだ。
「分かりました。お受けいたします」
その返答に、カイゼルは小さく頷き、すぐに応接室から退出した。彼がいなくなった後も、しばらく部屋には緊張の余韻が残ったままで、デュラン伯爵もレイナも言葉を発せずにいた。
やがて、馬車が去る音が遠ざかり、屋敷が静けさを取り戻すと、デュラン伯爵は深い呼吸をついてからレイナの肩に手を置いた。
「レイナ……すまない。おまえをこんな形で縛りつけてしまうようなことになって」
「いいんです、父様。私もこの家の一員として、責任を果たしたいと思ってますから」
そう言うレイナの目は穏やかで、デュラン伯爵はほろりと涙を浮かべそうになった。彼女の優しさと健気さを知っているからこそ、申し訳ない気持ちが募るのだ。
結婚式の準備――そして不安
契約が正式に交わされ、アルステッド侯爵から最初の資金援助が行われると、ヴェルネ家は一時的とはいえ潤いを取り戻していった。これまで滞っていた使用人の給料や領地の再建費用が支払われ、屋敷にも安堵の空気が流れ始める。
レイナ自身も、アルステッド家との結婚式に向けて、急ピッチでドレスやアクセサリーを用意することになった。もっとも、ぜいたくな品々はアルステッド家からも提供されるとのことで、レイナは自分の趣味や好みを反映することはほとんどできそうにない。それでも、ウエディングドレスは人生の一大イベントである結婚式を象徴する衣装だ。レイナの胸には、どうしようもない落ち着かなさがあった。
「お嬢様、こちらのヴェールなどはいかがでしょう? お顔立ちにもよく合うかと存じますが……」
侍女のリリーがレースのヴェールを広げて見せる。その美しい手触りに、レイナは素直に感嘆の声を漏らした。
「すごく綺麗。私にはもったいないくらい……」
「そんなことはありません。お嬢様はお綺麗ですし、きっとこのヴェールも映えますよ。ほら、さっそく合わせてみましょう」
リリーが楽しそうに動く様子を見ると、レイナは少しだけ気が紛れた。結婚という重大事を前に、リリーにとっては自分が晴れやかな場を迎えることが嬉しいのだろう。レイナが今抱えているのは、不安や恐れが大部分を占めているが、それをリリーにぶつけるわけにはいかない。
ヴェールを頭にかぶせてもらい、鏡を見ると、白く柔らかなレースの奥に自分の瞳が映る。まるで生まれ変わったような、少し幻想的な気分にさせられた。しかし、同時に“これは本当に幸せな結婚なのだろうか”という疑問が胸を刺す。契約結婚――愛ではなく、互いの利益のためのもの。
もともとレイナは、恋愛に対して強い憧れを抱いていたわけではない。平民出身という出自や、自分よりも高貴な生まれの女性たちが華々しく舞踏会で相手を探す姿をどこか別世界のものとして見ていた。しかし、結婚となれば別だ。いつかは――もしかしたら本当に愛を育める相手と、平穏であたたかな家庭を築きたい、という淡い夢がなかったわけではない。
それがまさか、このような形で決まってしまうなんて。
「リリー、ありがとう。今日はもう休んで大丈夫よ」
「はい、お嬢様。お疲れではございませんか?」
「ええ、少し休みたいの。大丈夫だから」
リリーが一礼して部屋を出ていくと、レイナは鏡の前で立ち尽くしたまま、しばらくヴェール姿の自分を見つめ続けた。
侯爵からの贈り物
その日の午後、レイナが一人で応接間にいると、アルステッド家からの使者がやって来た。美しい金色の箱を抱えており、「カイゼル・アルステッド侯爵からの贈り物」と言う。
レイナは恐る恐る箱の蓋を開けた。すると、中からは繊細な細工が施された首飾りが姿を現す。銀のチェーンに小さな青い宝石が連なり、中心部には月のような白金色の飾りが光を受けて輝いていた。
「……とても、綺麗」
宝石の価値など分からないレイナが見ても、これは相当高価な品だと直感できる。何より、その造形がどこか幻想的で、見る者の心を捉えて離さない。彼がなぜこれを贈ってきたのか――考えてもきりがないが、結婚を控えた相手への贈答品というには、あまりにも実用性を超えた豪華さだった。
使用人がそっと声をかける。
「お嬢様、早速おつけになられますか?」
「いえ、まだいいわ。これは……結婚式の時につけるのがいいかもしれない」
レイナはそう言って、再び箱を丁寧に閉じた。アルステッド侯爵のこの行為を、純粋な心遣いと受け取っていいのだろうか。それとも、またしても“契約”の一部として、その存在を示すための象徴なのか。
レイナの胸には、複雑な思いが交錯する。
仮面の奥にある心
そうこうしているうちに、結婚式当日が近づいてきた。ヴェルネ家では、デュラン伯爵をはじめ使用人たちが総出で落ち着かない様子を見せているが、なにしろ式が行われるのは王都にある聖堂だ。ほとんどの準備はアルステッド家が取り仕切るため、ヴェルネ家がすることは少ない。
しかし、レイナにはその「何もできない」ことが余計に心を乱す要因だった。自分がなぜ嫁ぐのか、どういう気持ちで嫁ぐのかを、何度も何度も問いかけては、自らを納得させようとしている。
ある夜、レイナは眠れず、ひっそりと屋敷の裏庭に出てみた。ここはレイナが幼い頃から好きな場所で、小さな花壇があり、夜になると月の光が静かに照らす、隠れた癒やしの空間である。
星がちらほらと瞬く夜空を見上げ、レイナはひとりそっと息を吐く。まるで積み上げた思いを星屑に紛れさせるかのように。
「アルステッド侯爵は、どんな人なんだろう」
初めて会ったあの日、仮面の下から見える鋭い眼差しと、隠された素顔が妙に気にかかった。冷たく感じる反面、何かを守っているようにも見えた。あの仮面の奥には、どんな心が隠れているのだろうか。
怯えてばかりでも仕方がない。契約とはいえ、結婚して共に暮らす相手なのだから。いずれは彼の心を多少なりとも理解できる時が来るのだろうか――レイナはそう思いを巡らせた。
結婚式前夜――父からの言葉
ついに結婚式の前日、レイナは支度を整え終えた後、父であるデュラン伯爵の部屋を訪れた。部屋の扉を軽くノックすると、「入りなさい」と弱々しい声が返ってくる。
部屋に足を踏み入れると、書類に埋もれた机の前で、デュラン伯爵が疲れた表情を浮かべていた。肩を小刻みに震わせ、あまり体調が良くないようにも見える。
「父様、失礼します。今日はゆっくり休んでくださいね。明日は王都に向かうのですから」
レイナがそう言うと、デュラン伯爵は微笑むが、その瞳にはどこか哀しみが滲んでいた。
「レイナ……。すべておまえに背負わせて、本当にすまないと思っている。おまえを、もっと幸せにしてやりたかったよ」
レイナは首を振る。確かにこの結婚は突拍子もない形ではあったが、ヴェルネ家で育ったこと自体に後悔はない。
「私こそ、感謝しています。平民の私をここまで育ててくださったんですもの。もしこの結婚で父様と家の皆が救われるなら、私はそれで構いません」
そう言いつつも、胸の奥にこみ上げる不安を隠しきれない。デュラン伯爵は娘の気持ちを察しているのか、そっと彼女の手を握りしめた。
「レイナ、おまえは本当に優しい子だ。……きっと、どんなことがあっても大丈夫だ。私は信じている。もしアルステッド侯爵が冷たい男だとしても、おまえの優しさが彼の心を溶かす時が来るかもしれない」
溶かす、か――。レイナはその言葉を繰り返す。
そうなればいいが、果たしてそこまでの努力や時が、これから先の二人の間に存在するのだろうか。契約で始まる結婚に、“愛”という芽が育つ保証はない。それでも、父の励ましの言葉はありがたかった。少なくとも、レイナが自分の意志で“何かを変えよう”と努力する勇気を与えてくれるから。
「ありがとう、父様。……私、がんばります」
レイナがそう言うと、デュラン伯爵は彼女の手を放し、やや照れたように視線を逸らした。
「うむ。明日は早いから、夜更かしするんじゃないぞ」
式当日の朝――旅立ち
結婚式当日の朝は、夏の終わりを感じさせる爽やかな風が吹いていた。レイナは屋敷の門前で荷物をまとめ、すでに用意されている馬車に乗り込む準備をしている。王都までは一日近くかかる道のりだが、アルステッド家が用意した馬車は快適そうだ。
「お嬢様、本当に行ってしまわれるんですね……」
リリーが涙混じりの声で言う。レイナは彼女の両肩に手を置き、ぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫。私、きっとまた帰ってくるから。アルステッド家の人間になっても、ヴェルネ家のことを忘れたりはしないわ」
「はい……お嬢様、どうかお幸せに」
周囲の使用人たちも、感極まった様子で見送りに集まっている。彼らにとっても、レイナは愛すべき存在だった。平民出身だからこそ、使用人たちとの距離が近く、気さくに接してくれたからだ。
最後に、デュラン伯爵がやって来て、レイナにそっとハンカチを手渡す。
「これは私が昔、亡くなった母親から貰ったものだ。おまえが大変なとき、これを見て踏ん張ってくれればと思ってな」
白いハンカチには小さな刺繍が施されており、レイナは受け取ると感動で胸がいっぱいになった。
「ありがとう、父様。必ず大事にします」
そうしてレイナは馬車に乗り込み、窓から外を見やる。ヴェルネ家の人々が涙ぐむ姿が視界に広がると、彼女の胸にも悲しみと不安が混ざり合った感情が波のように押し寄せた。それでも、今は前を向くしかない。
――こうして、レイナ・ヴェルネは“仮面の侯爵”カイゼル・アルステッドのもとへと向かう道に足を踏み出したのだ。愛でも恋でもない、ただの契約。しかし、その先に何が待ち受けているのかを、レイナはまだ知らない。
今はただ、馬車の揺れに身を委ねながら、行く先に広がる自分の運命に想いを馳せるしかなかった。
仮面の下の冷徹さ
王都へと近づくにつれ、レイナは窓の外に広がる活気に驚いた。多くの馬車や人々が行き交い、露店や商店の賑わいが目に飛び込んでくる。ヴェルネ家の領地とは比べものにならないほどの繁栄ぶりだ。
やがて馬車は王都の一角にある高級住宅街へと入り、途中でアルステッド家の邸宅を遠目に見ることができた。その壮大な造りに思わず息を呑む。まるで小さな城のようで、手入れの行き届いた庭園や噴水が目を楽しませている。
しかし今回、レイナが立ち寄ることになるのはアルステッド邸ではなく、式に先立って用意された“花嫁の控えの館”だった。結婚式が終わって正式に嫁入りが成立するまでは、アルステッド邸ではなく別の離れで過ごすように――そう指示を受けていたのである。
館の玄関で待っていたのは、アルステッド侯爵の秘書だという男で、細身のメガネをかけ、やや神経質そうな印象を与える。レイナは馬車を降り、軽く挨拶をした。
「本日より、こちらでしばらくお世話になります。レイナ・ヴェルネと申します」
「はい、承っております。お嬢様のお部屋は二階をご用意しております。何かご不便なことがあれば、私どもにお申し付けください」
そう言いつつ、男は事務的な態度で淡々と館の中を案内してくれた。途中、この館で働く使用人たちとも顔合わせをするが、皆どこかよそよそしい。やはり、カイゼルの“契約”によって迎えられた花嫁という扱いなのだろう。彼らの視線には、好奇の色が混じっているような気がした。
案内された部屋は広く、調度品も立派で、ヴェルネ家の屋敷とは比べものにならないほど贅沢だった。大きな窓からは王都の街並みが見下ろせ、夜になれば美しい夜景を眺められることだろう。
だが、レイナの胸には圧迫感がのしかかる。この広い部屋に、一人きり。まるで、未来を見通せない暗闇の中に取り残されたようだ。
夕方になってもカイゼルの姿はなく、彼からの使いもやってこなかった。翌日の朝までに結婚式の最終確認をすると聞いていたが、それがいつ、どのように行われるのか、レイナには知らされていない。
レイナはベッドの端に腰掛け、なんともいえない孤独を感じた。思えば、ヴェルネ家ではいつもリリーや使用人たちが側にいてくれたし、父の励ましを受けながら生活してきた。ここではすべてが初めてで、そして一人だ。
夜の訪問者
その夜、レイナが部屋のランプを灯して書き物をしていると、突然扉がノックされた。誰だろうと思いながら、レイナが扉を開けると――そこに立っていたのは、仮面をつけたままのカイゼル・アルステッド侯爵だった。
「……こ、侯爵様」
思わぬ訪問に驚きつつ、レイナは慌てて礼をする。カイゼルはちらりと部屋の中を見渡し、何も言わずに静かに入ってきた。
「勝手に失礼する。時間が遅いのは承知だが、確認しておきたいことがあってな」
そう言って部屋の中央まで進むと、彼は振り返り、まるで家具を眺めるかのようにレイナを見つめる。その瞳には、相変わらず何の感情も映らないように見えた。
「明日は結婚式だ。私から一つだけ言っておこう。……これは愛のための結婚ではない。契約による結婚だ。私が君に何かを望むとすれば、それはただ“役割を果たすこと”だけだ」
厳粛な口調に、レイナは息を呑んだ。改めて突き付けられる、その現実。愛など求めるべきではない――そんな彼の言葉が突き刺さる。
「分かりました。私も、そのつもりでおります」
震えそうになる声を抑えながら、レイナはきっぱりと答えた。
カイゼルは仮面の奥からじっとレイナを見据える。彼の眼が細まったかどうかも、仮面のせいで分からない。ただ、緊張感だけが部屋を包み込んでいた。
「君が私の正妻になるからには、アルステッド家の名にふさわしい振る舞いをしてもらう。もしそれができなければ……」
そこまで言いかけ、カイゼルは言葉を切る。そして、軽く息をついて続けた。
「……いや、何でもない。余計なことは言わないでおこう」
レイナは唇を噛んだ。脅迫めいた台詞が続くのかと思いきや、カイゼルは途中で止めた。彼の中で何か迷いがあったのかもしれない。仮面に隠された表情を想像してみるが、やはり何も掴めない。
「失礼した。明日は朝早いから、早めに休んでおけ」
そう言って踵を返そうとするカイゼルに、レイナは思い切って問いかけた。
「あの、侯爵様……一つ、お聞きしてよろしいでしょうか」
「……何だ」
その声に険しさはなかったが、警戒しているようにも感じる。レイナは意を決して口を開く。
「なぜ、私を選んだのですか。本当にただ“契約”として、使いやすいからですか?」
その問いに、カイゼルはほんのわずかに眉を動かしたように見えた。だが、すぐに平静な声で応じる。
「それを今聞いてどうする。明日には結婚式だ。君が知りたいと思う理由は分かるが、答える必要はないだろう」
冷たい言い回し。しかしそこには、どこか言葉を飲み込んでいるような雰囲気があった。
「君が気にすべきは、アルステッド家の正妻として立派に立ち回ること。そしてヴェルネ家にも利益をもたらすこと――それだけだ。…夜分遅くに失礼した」
そう言い残すと、カイゼルはすぐさま部屋を出て行った。戸が閉まった後、レイナは立ち尽くしたまましばらくその場を動けなかった。
幕開けの予感
――やはり、仮面の侯爵という男は容易に心を開いてはくれない。ましてやこちらが抱える不安を取り除いてくれるわけでもない。
契約。愛のない結婚。
明日から始まる人生を思うと、レイナの胸には恐れと孤独が増していく。しかし、もう後戻りはできない。何があっても、彼女はアルステッド家の“正妻”としての道を歩むしかないのだ。
それが甘く儚(はかな)い恋に繋がるのか、それとも心を傷つけ合うだけの関係なのか。今のレイナには知る由もない。
窓の外を見ると、夜の闇が街を包み込み、遠くの塔の上には月が浮かんでいる。レイナは重たいまぶたを閉じ、ベッドに身を投げ出した。頭が混乱して眠れそうにないが、体力だけでも温存しておかなくては。
明日、レイナは初めてウェディングドレスを身に纏い、王都の聖堂へ向かう。そこには華やかな式典と、仮面の侯爵――カイゼル・アルステッドが待っている。儀式的なキスや、婚姻の宣誓を交わすことになるのだろうが、それがどれほど空虚なものに感じられるのかを想像すると、寂しさで胸が押しつぶされそうになる。
けれど、レイナは目を閉じたまま、次第に呼吸を落ち着かせていく。自分で選んだ道だ。悲しみや不安があっても、全力で務めを果たそう。そうやって心に言い聞かせるほかに道はない。
――こうして、契約結婚を目前に控えた夜がゆっくりと更けていく。
夜が明ければ、レイナは“仮面の侯爵の妻”となる。その運命に何が待ち受けていようと、もう逃げ道はないのだ。
部屋のランプが揺らぎ、微かな風がカーテンを揺らす。外には月の光が淡くさしている。レイナはその光に包まれながら、いつかこの苦しさが報われる日が来ることを――ほんの少しだけ願いつつ、孤独な夜に身を沈めていった。
-