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第2話 :契約から始まる誓い



 ――夜が明ければ、私は“仮面の侯爵の妻”になる。

 その思いが頭を離れず、レイナは浅い眠りのまま朝を迎えた。窓の外はまだうっすらと青白い光に包まれ、王都の街並みは眠りから覚めきっていないように見える。しかし今日がどんな一日になるかを思うと、彼女の胸は早くも緊張と不安でいっぱいだった。

 今いるのは、アルステッド家が用意した「花嫁の控えの館」。広々とした部屋で一晩を明かしたレイナは、夜明け前に起き出し、朝の身支度をそわそわと始めていた。とはいえ、式の準備は大半が侍女たちの手によって行われるため、自分ですることはほとんどないに等しい。鏡の前に座り、置いてあったブラシで静かに髪を梳くだけで、部屋に微かな衣擦れの音だけが響く。


 しばらくするとノックの音がして、昨日顔を合わせたばかりの侍女――どうやらアルステッド家の者らしい――が部屋へ入ってきた。若く整った顔立ちの女性で、名をエレノアと言うらしい。

「失礼いたします、レイナ様。おはようございます。本日は結婚式当日となりますが、朝食を済まされましたら、すぐに式の支度に取りかからせていただきます」

 彼女は一礼をしながら事務的に告げる。言葉遣いに失礼はなく、丁寧だが、どこか距離を感じる態度だった。

「はい、ありがとうございます。……どうぞ、よろしくお願いいたします」

 レイナが少しぎこちなく答えると、エレノアは「かしこまりました」とうやうやしく微笑んでから退出していった。


 控えの館には、大勢の使用人や侍女が配置されているようだったが、レイナはまだ誰とも十分な会話を交わしていない。彼女自身はアルステッド家の“外”からやって来た花嫁なのだから、この空間では明らかに“よそ者”として扱われている。そのことは昨日から肌で感じていたし、これからも簡単には打ち解けられないだろうと悟っていた。


 やがて、軽い朝食を急いで取り終えると、次から次へと侍女や仕立て職人らしき人が部屋へ入ってきて、ウェディングドレスへの着替えやヘアメイクを始める。慌ただしい手際に戸惑いつつも、レイナはされるがままに身を委ねた。

「少しきついかもしれませんが、こちらのコルセットを。ドレスラインが映えますので」

「髪は上で結い上げ、後れ毛を少し垂らした方がよろしいでしょうか」

「こちらのアクセサリーがアルステッド家からのご指示です。あわせて身につけてください」


 そうした指示が飛び交い、気づけばレイナの姿は純白の豪奢なドレスに包まれていた。鏡に映る自分の姿は、まるで別人のようだ。貴族の令嬢として教養は身につけたつもりでも、ここまで華やかな衣装をまとった経験はない。

 胸元には昨夜、使者が持ってきたあの宝石の首飾り。銀色の鎖が鎖骨にしなやかに沿い、中央に配置された青い石がきらきらと光を放っている。宝石の質の高さもさることながら、デザインがどこか繊細で神秘的だった。まるで“仮面”に象徴されるアルステッド家の秘密を暗示しているようにも感じる。


 視線を下げると、コルセットで締め付けられた息苦しさがひしひしと伝わってきた。胸の奥から湧き上がる不安と相まって、頭がクラクラしそうだ。

 しかし今日は倒れるわけにはいかない。レイナは必死に気丈さを保ちながら、侍女たちの手を借りてベールをかぶった。


王都の聖堂へ


 午前中、館の外に停められた白い馬車に乗り込むと、レイナは一人きりで結婚式の会場へ向かうことになった。アルステッド侯爵は既に別の用事で先に出かけているらしい。

「どうしても一緒に行くことはできないんだろうか……」

 そう疑問を抱いても仕方がない。もともとこれは“契約結婚”だ。一緒に馬車に揺られ、語らいながら聖堂へ向かうような、ロマンティックな展開を期待するだけ無駄なのだろう。


 車窓から見える王都は、朝日を浴びてまばゆい輝きを放っていた。街道には多くの人や馬車が行き交い、どこか浮き立つような活気に満ちている。そんなにぎわいの中を、花嫁を乗せた馬車が静かに進んでいく。窓にかけられたレースのカーテン越しに外を眺めながら、レイナは自分の胸の内と向き合った。

 ――これが私の人生の大きな転機になる。だけど、どうして心がこんなに淀んでいるんだろう。

 騎士の護衛らしき一団が周囲を囲み、列をなして進む様子は、まるで王室の儀式のようにも見える。アルステッド家の威光を象徴するかのようだが、レイナの目にはどこか物々しく映った。


 やがて馬車は王都の中心部にある“大聖堂”に到着する。尖塔の高い屋根が晴れわたる空に向かってそびえ立ち、白亜の壁面が荘厳な雰囲気を醸している。王都で最も格式の高い聖堂であり、貴族や王族の結婚式が盛大に執り行われる場所だ。

 扉が開くと、既にアルステッド家や王族関係者と思しき多くの来賓が参列しているのが見えた。彩り豊かな衣装に身を包んだ貴婦人たちと、煌びやかな勲章を胸につけた男性貴族たち。その中に、レイナが知る顔はほとんどいない。


 馬車を降りると、式の進行を担当する司祭らしき人物がレイナに近寄ってきた。

「お待ちしておりました、レイナ・ヴェルネ様。本日はあなたとカイゼル・アルステッド侯爵の結婚式をこの聖堂で執り行います。どうぞ、奥の控室へお進みください」

 そう告げられ、レイナは司祭に従って聖堂の内部へと足を踏み入れた。高い天井、ステンドグラスに差し込む陽光――その美しさに圧倒されながらも、彼女の心には別の重みがのしかかる。


花嫁の控室にて


 聖堂の奥には、花嫁が準備を整えるための控室がいくつもある。その一室に通されたレイナは、緊張で手の震えが止まらないのを意識しながら、鏡の前で最後の身支度を確認した。すでにドレスもヴェールも問題なく整えられている。髪型も崩れてはいない。

 扉の外から人のざわめきが微かに伝わってくる。きっと来賓たちが席に着き始め、式の開始を待っているのだろう。

「……」

 レイナはひとり、その鏡の中の自分に問いかける。


 ――私は本当に、これでいいの?

 けれど、答えは出てこない。もう後戻りはできないのだ。王族から貴族まで、大勢の人々がこの“契約”の結婚を見届けようとしている。いまさら逃げ出すなど、できるはずもない。

 そのとき、コンコン、と控室の扉がノックされる音がした。レイナが「はい」と返すと、扉の隙間から現れたのは侍女ではなく、ひとりの若い男性だった。体つきは細身で、きりりとした顔立ち。黒いスーツを着こなし、胸にはアルステッド家の紋章をあしらったバッジを付けている。


「失礼します。突然申し訳ございません。私、アルステッド侯爵に仕えるクライヴと申します。侯爵の秘書兼執事のような立場で、日頃から主の身辺をお世話しています」

 そう名乗る彼は、メガネの奥に賢そうな瞳を宿していた。

「クライヴ様……。あの、何かご用でしょうか」

 レイナが尋ねると、クライヴは穏やかな微笑みを浮かべて答える。

「いえ、奥方――いえ、まだ式前ですから、レイナ様とお呼びすべきでしょうか。緊張されているだろうと思い、お声がけに参りました。普段、侯爵はあまりこうした場でも優しい言葉をかける性格ではないもので……ご不安なことがあれば、遠慮なく私に仰ってください」


 思いがけない言葉に、レイナは少し驚いた。アルステッド侯爵の周囲には、彼の冷徹さをそのまま体現しているような従者ばかりだと思っていたからだ。しかしクライヴは、こうして彼女を気遣う言葉をかけてくれる。

「ありがとうございます。お心遣い、嬉しいです。でも……私は大丈夫です。今日は無事に式を終えなければ、という思いでいっぱいなので」

「そうですか。……レイナ様、もし私などで力になれることがあれば、お申し付けください。主のことは私が最も近くで仕えておりますので、何かとお役に立てるかと」


 そう言うと、クライヴは軽く頭を下げる。どうやら彼は、“仮面の侯爵”という主人を深く尊敬し、その内面をも理解しているように見える。

 レイナは、先刻カイゼルが控えの館に来たときのことを思い返す。何かを言いかけて、結局言わずに出ていった姿。普段は見ることのできない素顔を守る仮面の裏に、隠された事情があるのではないか――その疑念は募るばかりだ。


 しかし、今は式の直前。深く立ち入った話をするタイミングではないし、その勇気もない。レイナは小さく頷いて、「はい、ありがとうございます」とだけ返した。

 クライヴはそれを聞くと「どうかご気分を害されませんように」と言い置き、退出していった。


式の始まり――冷たくも厳粛な時間


 やがて司祭が控室へと迎えに来る。レイナはドレスの裾を少し持ち上げながら廊下を進み、聖堂の本堂へと通された。

 パイプオルガンの厳かな演奏が鳴り響き、正面に続く長いヴァージンロードの向こうには、神に祈りを捧げるための祭壇が据えられている。そこに立つのは司祭と、そして――カイゼル・アルステッド侯爵。

 黒のタキシードに身を包んだ彼は、いつも通り左半分を銀色の仮面で覆っていた。その姿は、まるで彫刻のように整った右側の顔を強調するかのように際立たせ、同時に全体の雰囲気を不気味に見せている。


 椅子席には大勢の来賓が着席しており、静かにレイナの入場を見守っている。華やかな衣装をまとった貴婦人たちの表情には好奇の色が浮かんでいたし、威厳ある貴族の男性たちの視線はまるでレイナを品定めしているかのようだ。

 中には王家の紋章を身につけた人影もあり、その中でもひときわ華やかなドレスを着た女性が目にとまった。遠目にも分かる程の高貴な美貌を持つその女性は、じっとレイナを見つめている。あれがセシル王女――カイゼルの幼馴染で、彼に想いを寄せていると噂される人物かもしれない。


 レイナは胸が苦しくなりながらも、ゆっくりと歩を進める。音楽が響く中、周囲の視線を一身に浴びるのは落ち着かないものだが、まるで機械仕掛けの人形のように足を運ぶしかない。

 祭壇の前で立ち止まると、司祭が書物を開き、神聖なる儀式の文言を朗々と読み上げ始めた。祝福の言葉、結婚の意義、そして新郎新婦への戒め――すべてが通り一遍の内容であるはずなのに、レイナの心は嵐のように乱れていた。


 やがて司祭は二人の指輪の交換を促す。カイゼルは従者から受け取った指輪を、レイナの薬指にそっとはめ込んだ。そのとき、カイゼルの指先がわずかにレイナの手に触れ、彼女は一瞬呼吸が詰まる。

 しかし、彼の表情は仮面に隠されて読めない。視線を合わせても、そこに感情の揺れは感じられなかった。


 続いてレイナも、司祭に手渡された指輪を彼の指へはめる。それはつるりとした白金製の指輪で、仮面と同じく無機質な輝きを放っているかのように思えた。

 ――結婚指輪。これから先、私はこの男の妻として生きていく。

 その事実を指先で確かめながら、レイナは胸の奥で恐れに似た気持ちが広がるのを感じた。


「では……互いに誓いの言葉を述べなさい」

 司祭が促す。アルステッド侯爵が先に口を開いた。

「私は、カイゼル・アルステッド。レイナ・ヴェルネを正式な妻として迎え、健やかなるときも、病めるときも、これを支え、守ることを……誓います」

 彼の声は低く、厳粛だった。だが、その奥には確固たる感情の手応えがまるでない。単なる“義務”として言葉を発しているだけに思える。


 続いてレイナの番となる。彼女は喉を乾かしながら、震える声で誓いの文言をなぞった。

「私は、レイナ・ヴェルネ。カイゼル・アルステッド侯爵を夫として迎え……その生涯を共に歩むことを、誓います」

 心がこもっているのか、自分でも分からない。心よりも大きな声で、はっきりと誓えたのが唯一の救いだった。


「よろしい。神の御前において、汝らは正式に夫婦となった。ここに、祝福の証として……誓いの口づけを交わしなさい」

 司祭がそう言うと、祭壇の周囲が一瞬静まり返った。レイナは息を呑む。

 ――誓いの口づけ。形だけの結婚でも、これは避けては通れない儀式。

 思わず目を伏せようとしたが、カイゼルは顔を近づけてくる様子もない。どうするのだろう、と困惑していると、彼は仮面の右側――まだ見えている方の頬を少しだけレイナに寄せた。


 そして、口づけというよりは頬に軽く触れる程度の接触。彼の唇がレイナの頬をかすめ、ほんの一瞬、それで終わりだった。

 拍手が沸き起こり、パイプオルガンが高らかに奏で始める。会場は祝福の空気に包まれているのだろうが、レイナの胸には冷たい風が吹き抜けた。


祝宴の虚飾


 式が終わると、来賓たちを集めてのささやかなレセプション――といっても、かなり豪勢な祝宴――が同じ聖堂の庭園で催された。立食形式で、美しい飾り付けのテーブルに様々な料理や酒が並んでいる。

 新郎新婦として、レイナとカイゼルは祝辞を受けながら各所を回る。もちろん、カイゼルはずっと仮面を外さない。そんな異様な姿に物珍しそうな視線が集まっていたが、王族や貴族たちは口には出さない。ただ、心の中では何を思っているか分からない。


「アルステッド侯爵、おめでとうございます。まことにおめでたい」

「美しいお嫁さんでいらっしゃる。どちらの名家のご令嬢かと思えば……へえ、ヴェルネ家。なるほど」

 口々に発せられる祝福は、表面的には華やかでも、裏に何か含みがあるようにも思えた。特に「ヴェルネ家」という名前が出るたびに、相手の表情が微妙に変わるのが分かる。財政難で知られた名門伯爵家が、急にアルステッド家と縁を結ぶ。果たしてどういう思惑があるのか、皆探りたがっているのだ。


 一方でレイナは、カイゼルの隣に立ちながら、緊張したまま言葉も少なめに笑みを浮かべていた。どこかで自分が見世物になっている感覚があり、落ち着かない。

 そうこうしていると、一人の女性が悠然と歩み寄ってくる。光沢のある淡いブルーのドレスに身を包み、褐色の髪をエレガントに結い上げたその姿は、王族にふさわしい気高さを漂わせていた。おそらく――いや、間違いなくセシル王女だ。


「カイゼル、結婚おめでとう。私からも祝福を贈るわ」

 彼女はそう言って優雅に微笑み、カイゼルの仮面がある方へ視線を向ける。名前を呼び捨てにするあたり、やはり深い間柄であることがうかがわれる。

「ありがとう、セシル王女殿下。わざわざお運びいただき光栄です」

 カイゼルは淡々と返す。だが、セシル王女の瞳には微かに失望の色が宿っているように見えた。


 王女は続けて、レイナに向き直る。

「あなたが、レイナ・ヴェルネ? 初めまして。私はセシル・ラウラ・ドラグーン。この王国の王女よ」

 その声には、どこか鋭い探るような響きがあった。レイナは慌ててスカートの裾をつまみ、深く礼をする。

「は、初めまして、王女殿下。お目にかかれて光栄に存じます。私は――」

「ええ、ヴェルネ家の養女だということは聞いているわ。なかなか面白い結婚式だったわね。カイゼルがこんなに急いで花嫁を迎えるなんて、私も驚いたのよ」


 言葉は一見礼儀正しいが、含みがあるのは明白だ。レイナは何と返せばいいのか分からず、戸惑ってしまう。

「セシル、あまり無粋な口を出すなよ」

 カイゼルがそう低く言うと、王女はわざとらしく肩をすくめる。

「無粋だなんてひどいわ。私はただ、新郎新婦にお祝いを述べたいだけ。それとも……私がいると困ることでもあるのかしら?」


 そのやり取りから、二人の間に特別な感情や歴史があるのがひしひしと伝わる。セシル王女の瞳には、複雑な感情が交錯していた。やがて彼女は嘆息のように息をついて、レイナを一瞥する。

「……まあいいわ。レイナ・ヴェルネ、あなたがカイゼルの妻としてこれからどのように振る舞うのか、私も楽しみに拝見させてもらうわ。カイゼルがその仮面を外す日が来るのかどうか――興味があるの」

 皮肉とも挑発とも取れる言葉を残して、セシル王女は足早にその場を去っていった。


 周囲には何人かの貴族が目を丸くして立ち尽くしている。王女の明らかな含みを帯びた態度に驚いたのか、それとも彼女の“カイゼルの仮面”への言及に動揺したのか。レイナはその場に立ち尽くしていたが、カイゼルはまるで何事もなかったかのように次の来賓へ挨拶に向かおうと歩き始める。


「……行くぞ、レイナ」

 一瞬もこちらに視線を向けず、冷たく言い放つ彼に、レイナは「はい」と答えるしかなかった。胸の奥にズキリと痛むものを感じながら、彼の後を追う。


新たなる“居場所”――アルステッド邸


 祝宴が終わると、次は“嫁入り”の儀式として、花嫁が夫の家へ迎え入れられることになる。もっとも、既に契約で取り決められている通り、レイナが移り住む先はアルステッド家の本邸だ。ヴェルネ伯爵家は財政難から十分な送迎の準備ができず、結局はアルステッド家の馬車でそのまま邸へ向かう段取りになっていた。

 夕暮れ時、聖堂を出る際に名残を惜しむ声はほとんどなかった。ヴェルネ家から参列したのは養父のデュラン伯爵と数名の使用人だけだが、その伯爵たちも長旅が難しい体調を考慮して、夜のうちに先に領地へ戻ることになったのだ。レイナは父と別れの挨拶を交わし、涙をこらえながら馬車へ乗り込む。


「父様、またお手紙を書きます。必ず……またお会いしましょう」

「うむ……レイナ、本当にすまない。どうか身体に気をつけて……」

 デュラン伯爵の痛ましげな表情を最後に、レイナの馬車は出発した。


 隣に座るカイゼルは仮面をつけたまま、無言でいる。レイナもどう言葉をかけていいか分からず、車窓に視線を落とした。重苦しい沈黙が二人の間に横たわっている。

 数十分ほど馬車に揺られたあと、王都の郊外に差し掛かると、壮麗な門のある邸宅が見えてきた。立派な石造りの塀がずっと続き、その先には美しく手入れされた庭園が広がっている。まるで小さな城のようだ――いや、城と呼んでも差し支えないほどの大きさかもしれない。

 ここがアルステッド邸。これからはこの場所がレイナの新しい住まいとなる。


 馬車が門をくぐり敷地内へ入ると、中庭には多くの使用人が整列して出迎えていた。執事や侍女、庭師、料理人など、その人数はヴェルネ家の規模を遥かに上回っている。まざまざと見せつけられる“侯爵家”という圧倒的な力。

 馬車が停止し、扉が開かれた。カイゼルが先に降りて手を差し伸べ、レイナがその手を借りて外へ出る。

「アルステッド侯爵様、奥方様、お帰りなさいませ」

 一斉に頭を下げる使用人たちの列に、レイナは思わず息を呑む。ここまで大勢に迎えられるのは初めての経験だ。


「これより、レイナがアルステッド家の正妻となる。皆、彼女を敬い、仕えるように」

 カイゼルが低い声で言う。その声には容赦のない威圧感がある。使用人たちは「かしこまりました」と整然と返事をし、レイナの前へ小さく会釈をする。

 レイナも慌てて軽く礼を返しながら、「どうぞよろしくお願いいたします」と声をかけるが、彼らの反応は素っ気ない。もちろん無礼ではないが、どこか冷ややかさを感じる。


邸内の案内と新たな部屋


 執事のひとりが先頭に立ち、レイナとカイゼルを邸内へ誘導していく。まるで迷路のように広い廊下を歩きながら、彼は主要な部屋の位置などを説明していった。大広間や書斎、応接室、舞踏室など、とても一度には覚えきれないほどの部屋がある。

 途中、カイゼルは自分の私室のドアの前を通り過ぎたが、特に何も言わず先へ進んだ。仮面のままの横顔には疲労も感情も見られない。レイナは心の中で溜息をつく。新婚初夜だと言うのに、まるで仕事の延長のような扱いだ。もっとも、こちらも“愛のない結婚”と理解している以上、親密なやり取りを期待してはいない。


 やがて広い階段を上がり、邸の奥まった一角に案内される。

「こちらが奥方様のお部屋になります。今後はここをプライベートルームとしてお使いいただきますので、ご不便などございましたら何なりとお申し付けください」

 執事が扉を開くと、そこにはまるで一軒の屋敷のように広い空間が広がっていた。寝室、書斎、そして小さなサロンまで備わっている。調度品はどれも高価そうで、窓からは邸の庭が一望できるようになっていた。


「……こんなに広い部屋が私一人のものになるんですか」

 レイナは思わずそう呟く。ヴェルネ家の屋敷にいたときでさえ、これほど豪華な部屋を与えられたことはない。

「もちろんです。アルステッド侯爵家の正妻として、これくらいは当たり前の待遇かと」

 執事は当然という風に答えるが、レイナにとっては見合わないほどの贅沢に感じられた。


 そのとき、カイゼルが執事の後ろから一歩前へ出る。

「今日はもう遅い。おまえは部屋で休むといい。……私との話はまた後日改めてする」

 冷たくそれだけ言い残すと、カイゼルは踵を返して廊下を去ろうとする。レイナは思わず彼を呼び止めたい気持ちに駆られたが、咄嗟に言葉が出ない。


「お、おやすみなさいませ……」

 それだけをかろうじて呟くと、カイゼルは一瞬振り返りもしなかった。彼の背中には仮面と同じ冷たさが宿っているように見えて、レイナは胸の奥が締めつけられる。

 式を挙げたというのに、二人で話をする時間さえ与えられないのだ。いや、もともと形式的な契約結婚なのだから、初夜を共に過ごすという発想がそもそも幻想なのかもしれない。


広すぎる寝室での孤独


 執事と侍女たちに部屋の使い方や簡単な案内を受けたあと、レイナは一人きりで寝室に戻った。部屋に入ると静寂が訪れる。

 ぼんやりと部屋を見回すと、高価な調度品がまるで見知らぬ世界を形成している。ふかふかの絨毯に大きな羽毛布団のベッド、繊細なレースのカーテン――どれもが立派で心惹かれるはずの品々なのに、レイナの心はなぜか重い。

 ここが自分の部屋なのだ。今後、この空間で暮らしていく。それはつまり、アルステッド家の人間としての人生が本格的に始まったということ。


 ウェディングドレスはとうに脱ぎ捨て、侍女が用意した薄手のナイトガウンを身に着けていたが、コルセットを外して解放された身体はまだ緊張が解けていない。レイナはため息まじりに鏡の前に立ち、自分の姿をまじまじと見つめる。

 左手薬指には新しい指輪が輝いている。たった今、カイゼルと交換した結婚指輪だ。けれど、その輝きはどこか虚ろに感じる。愛の証というよりは、まさに“契約”を刻む印のよう。


「……はぁ」

 重い息を吐き出し、レイナはベッドの端に腰を下ろす。寝室が広すぎて、返って落ち着かない。誰もいない。話し相手も、甘えられる人もいない。

 ――こんなに大きな屋敷に大勢の使用人がいるのに、私は独りぼっち。

 そう思うと、急に心細さがこみ上げてきた。


 リリーはここにいない。父様もいない。幼いころから辛いときは、いつも誰かがそばにいてくれたのに。

 それでも、これが現実だ。自分で選んだ道……いや、“選ばざるを得なかった道”。ヴェルネ家を救うために結婚を受け入れた以上、この孤独を嘆いてばかりはいられない。

「私……ちゃんとやっていけるのかな」

 つい零れ落ちた声は、誰にも届かず、部屋の空気に溶けていった。


新たな朝――無関心な夫


 翌朝。まだ薄暗い早朝、レイナは侍女たちに起こされ、朝食の用意があると告げられた。

「お食事は奥方様用のプライベートダイニングにご用意しております。旦那様は先に執務室へ行かれましたので、本日はそれぞれ別々にお召し上がりいただくことになるかと……」

 淡々とした侍女の言葉に、レイナは思わず言葉を失う。夫婦になったというのに、どうしてこうも互いに顔を合わせないのだろう。


 もともと一般家庭のような夫婦生活を期待していたわけではないが、ここまで徹底して“別”なのだと痛感させられると、さすがに落ち込んでしまう。契約結婚だと頭では理解していても、まだ心が割り切れていないのかもしれない。

 ナイトガウンから朝用のドレスへ着替えさせられたレイナは、言われるがままプライベートダイニングと呼ばれる部屋へ案内された。そこには豪華な食器に盛られた朝食がきちんとセッティングされているが、一人で食卓に向かうのはどうにも味気ない。


 スープに口をつけ、焼き立てのパンをかじる。味は抜群のはずなのに、レイナは喉を通すたびに胸が詰まりそうになる。

 ――カイゼルはどこで何をしているのだろう。仮面をつけたまま、執務室で書類でも見ているのか。

 こんなに広い屋敷で同居しているはずなのに、彼の姿はどこにも感じられない。昨夜も、いつ彼が寝室に入ったのか、あるいは別の部屋に泊まったのかすら分からない。


 食後、どう過ごせばいいのか分からないまま、侍女たちに部屋へ戻される。何をしていてもいいというが、広い屋敷の中で勝手に行動することを咎められはしないのか、不安になる。

「奥方様、ご覧になりたいお部屋や場所がありましたら、私どもがご案内いたしますが……」

「……そうね。もし可能でしたら、アルステッド邸の図書室を見せてもらえるかしら?」


 特にやることもない中で、レイナはふと思い出したのだ。ヴェルネ家で育っていたころ、彼女は読書が好きで、よく書庫にこもって物語や歴史書を読み漁っていた。新しい環境でも、同じように本の世界に浸れれば少しは気が紛れるかもしれない。

「かしこまりました。では、すぐに支度をいたします」

 侍女がそう言って退出すると、レイナはほっと胸をなで下ろした。本に囲まれた空間であれば、多少は孤独から逃れられるだろうか。


広大な書庫と残された疑問


 エレノアという名の侍女が案内してくれた書庫は、邸宅の中でも古い一角に位置しており、外からは目立たないような場所だった。扉を開けると、天井までびっしりと本が詰まった棚が並び、中央には閲覧用のテーブルと椅子がいくつか置かれている。少しばかり埃っぽい匂いが鼻を刺激した。

「かなり古い書物も多いですし、あまり手入れが行き届いていない部分もございます。何かお探しの本がありましたら私がお取りいたしますわ」

 エレノアは控えめにそう言うが、レイナは「大丈夫よ、自分で見て回りたいの」と返す。

「そう……では、ご自由に」


 侍女が遠巻きに待機するのを尻目に、レイナは興味のある棚を軽く眺めてみる。魔法理論や古代史、詩集や地誌など、種類は多岐にわたっている。アルステッド家の歴史資料らしきものもあるが、レイナにはその内容が難しそうに思えた。

 しばらく本棚を探索していると、一冊だけ背表紙が傷んだ古びた日記のような本が目に留まる。題名はなく、表紙にはアルステッド家の紋章が半分消えかけた状態で刻まれていた。

 ――アルステッド家の紋章。もしかして、先代当主が何かを書き残したものかもしれない。


 レイナがその本を手にとってページを開くと、急に埃が舞い上がり、彼女は思わず咳き込んだ。あわてて侍女が駆け寄ろうとするが、レイナは手で制して「平気よ」と微笑み返す。ページをめくると、薄い文字が手書きで綴られていた。読み進めてみると、どうやらこれは先々代か先代の当主が日常を記録した日記のようだった。

 そこには領地経営の苦労や、当時の政治情勢が断片的に記されているが、ある時期を境に、筆跡が乱れ、異様な焦燥を感じさせる記述が増えていた。


> ……あの《呪い》は我が家系につきまとうのか。どうしても打ち破る術はないのか……。

これでは息子を、人々に顔を見せられぬ身に追い込むことになるやもしれぬ……。




 呪い。顔を見せられぬ身。思わず、レイナの中で“仮面の侯爵”という存在が頭をよぎる。

 ――まさか、カイゼルの仮面は単なる外傷を隠すためじゃなく、何か家系にまつわる“呪い”と関係があるの……?


 ぞくりと、背筋が寒くなる。さらにページをめくろうとした瞬間、背後から控えめな咳払いが聞こえた。

「レイナ様……。大変申し訳ございませんが、こちらの書物は当主関係者以外の閲覧が許されておりません。もしお手に取られます場合は、旦那様の許可が必要となりますが……」

 侍女のエレノアが、やや強張った表情で告げる。


「そ、そうなの……ごめんなさい、つい気になって」

 レイナは慌てて本を閉じ、棚に戻した。エレノアは申し訳なさそうに微笑みながらも、どこか警戒の色を滲ませている。その態度からして、この日記には“触れてはいけない”何かがあるのだろうと察せられた。

 ――あれは、カイゼルの仮面の秘密につながる可能性がある。だけど、今はまだ深入りすべきではないかもしれない。


 レイナはそう思い、仕方なく別の無難な本を取り出して閲覧スペースに腰を下ろした。侍女が戻っていくのを横目に見ながら、心は落ち着かないままだ。

 “呪い”という言葉に、どうしても胸がざわつく。カイゼルは仮面で顔を隠している――その理由を、レイナは内心気になっていた。夜会や公の場でも常に仮面をつけているというのは異様だし、先夜に控えの館へ現れたときも、決して仮面を外そうとはしなかった。

 何か重大な秘密があるのではないか。そう思うたびに、レイナは彼の冷たい態度の裏に悲しみや苦しみがあるのではないか、と妙な胸騒ぎを覚える。


すれ違う二人


 それから数日が経ったが、レイナはカイゼルとほとんど顔を合わせることがなかった。たまに食事の時間帯が重なったかと思えば、彼は急な用事を理由にすぐに席を外してしまう。あるいは書斎に籠りきりで、一切外に出てこない日もある。

 もともと“契約結婚”である以上、夫婦としての触れ合いを求めるのは筋違いかもしれない。だが、まったく言葉を交わすことすらできない現状に、レイナは次第に疲弊していった。

 屋敷の使用人たちも、レイナに対してあくまで礼儀正しく接してはくれるものの、どこか一線を画している印象を拭えない。彼女がこの家の“真の主人”として認められるには、まだまだ時間がかかるのだろう。


 そんなある夜、レイナは一人で庭園を散策していた。月の光が白く浮かび上がる花壇を照らし、涼やかな風が髪をさらっていく。昼間の暑さが嘘のように静かな夜の空気を吸い込むと、少しだけ気が落ち着く気がした。

「本当にこのままでいいのかな……」

 呟いた言葉は夜の闇に溶けて、誰の耳にも届かない。


 この家に来てから、結婚してから――レイナはひたすら手探りの日々を送っている。言われるままに部屋に閉じこもっていても仕方がないと、最近は屋敷の中を自分で歩き回り、使用人たちと簡単な会話を試みたりもしているが、みな仕事の合間とあってゆっくり話す暇などない。

 ――もしかして、私が“仮面の侯爵”の妻だというだけで、恐れられているのかもしれない。


 カイゼルの評判は冷酷無比だという話を聞いたことがある。財力と影響力で多くの者を従わせ、その一方で彼に逆らう者には容赦しないとも。そんな主の妻である自分と、あまり親しくなりたくない――そう思う使用人もいるのではないか。


 そう考えていると、ふと庭園の奥、植え込みの陰から人影が見えた。月明かりに照らされるその後ろ姿には見覚えがある。

「……カイゼル様?」

 思わず呼びかけると、男はゆっくりと振り返った。やはり彼だ。左半分の仮面は、夜の闇に溶け込むように淡く光っている。


 まさかこんな場所で会うとは思っておらず、レイナは少しだけ動揺する。

「こんばんは、カイゼル様。……こんなところで何を?」

 カイゼルは視線を向けるが、すぐにそっぽを向いた。

「……気晴らしだ。おまえこそ、こんな夜更けに庭を歩き回っているとは珍しいな」

「ええ、少し気が詰まって……。お邪魔なら戻ります」


 そう言うと、カイゼルは急に表情を曇らせて「いや」と小さく呟いた。

「……いや、構わない。おまえが好きにすることだ」

 その一言に、レイナは思わず胸が高鳴った。彼がこんなふうに“好きにしていい”と許可を与えてくれることなど、初めてかもしれない。

「ありがとうございます。でも、少しお話してもよろしいですか……?」


 勇気を出して尋ねるが、カイゼルは足元の芝生を見つめたまま、即答しない。沈黙が苦しく感じられる。断られるだろうか――そう思ったとき、彼はわずかに首を横に振った。

「……何を話すというのだ。話すことなど……ないだろう」

 その声には、自嘲めいた響きが混じっているように感じた。


「でも、私たちは夫婦になったのに、ほとんど言葉を交わしていません。私はあなたのことを何も知らないし……せめて、普通の会話くらいはしたいんです。あなたが嫌でなければ……」

 そう言ってレイナが遠慮がちに伺うと、カイゼルは仮面の奥で静かに息をついたように見えた。

「……普通の夫婦ではないと、何度も言ったはずだ。おまえが私のことを知る必要などない」


 レイナの胸に痛みが走る。分かっている、それは分かっているのに、それでも話をしたいと願ってしまうのはなぜだろう。

「そう……ですね。でも、私は少しでもアルステッド家のことや、あなたのことを理解して、ここで上手くやっていきたいと思っています。お役に立ちたいんです。このまま何も知らず、ただ黙って暮らすのは――」


 その言葉を言い切る前に、カイゼルが鋭い声で遮った。

「おまえが“私のため”などと言うな。そんなことを願っても、何も変わりはしない」

 冷たい拒絶の響きに、レイナは息を呑む。いつもどおりの冷徹さ。しかし、まるでその裏に何か必死に隠しているようにも見える。


 しばしの沈黙が流れた後、カイゼルは踵を返し、レイナに背を向けた。

「今夜はもう部屋に戻れ。……おまえが私の領分に踏み込む必要はない。そういう契約だ」

 その一言を残し、彼は早足で庭園の奥へ消えていく。レイナは追いかけることができず、その場に立ち尽くした。


 夫であるはずなのに、心の壁は高く、分厚い。あらためて痛感させられた。“契約結婚”とはこういうものなのだろうか。まるで自分が孤独な牢獄に閉じ込められているような気さえしてくる。

 しかし、先日見かけた日記の“呪い”を示唆するような記述が、どうしても頭から離れない。カイゼルの仮面、そして彼の冷たい態度には、きっと理由があるはずだ――。


 レイナは胸に小さく拳を握りしめる。自分が何かできることはないのか。このまま何も知らず、何も分からずに過ごしていたら、いつまでも“契約上の妻”のままだ。

 いつか彼が心を開いてくれる日は来るのか。いや、それ以前に、彼が隠している秘密とは何なのか。

 庭園に吹く夜風は冷たく、レイナの身体を震えさせる。光の届かない場所で抱える仮面の侯爵の闇が、少しずつレイナを飲み込もうとしているのかもしれない――そんな不安が、胸の奥で大きくなっていく。



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