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第3話 :心を開く扉を探して





1.朝の薄明に揺れる思い


 夜が明けきる前の静けさの中、レイナはぼんやりと天蓋付きのベッドに横たわっていた。もともと浅い眠りだったこともあり、早朝に目が覚めてしまうことが多くなっていたが、今日はいつも以上に気分が落ち着かない。

 ――原因は分かっている。隣の部屋には彼、カイゼル・アルステッドがいるはず。正式に夫婦となってから二週間以上が経つのに、ほとんど言葉を交わしていない。結婚式以来まともに顔を合わせることさえなく、最近は朝も夜も彼の動向を知らずに終わってしまう日が多い。

 外の空が白み始めると同時に、レイナはベッドを抜け出し、軽い羽織を引っかけて自室の窓を開けた。冷んやりした風がカーテンを揺らし、仄暗い室内に澄んだ空気を運んでくる。


「……今日こそは、ちゃんと話せるかな」

 囁くようにつぶやいた自分の声が、妙に寂しく響く。契約で結ばれた関係とはいえ、もう少し夫婦らしい会話があってもいいだろうに――と思ってしまうのは、贅沢な望みなのだろうか。

 カイゼルの態度はいつもそっけなく、必要最低限の言葉しか発してくれない。その仮面のせいで表情も読めず、正直、レイナは心細い。


 それでも、何もしないままでは何も変わらない。そう思い立ったレイナは、侍女に朝食の準備を早めてもらうよう頼むことにした。もし、ほんの少しでも彼と朝食をとれるなら――。そんなかすかな期待を抱きながら、レイナは部屋を出る。


2.すれ違いのダイニング


 プライベートダイニングの扉を開けると、そこは夜明け前にもかかわらず既にテーブルに食器がセットされていた。侍女たちが慌ただしく行き来している最中、レイナは恐る恐る問いかける。

「……あの、今日の旦那様のご予定は?」

 一人の侍女が丁寧に頭を下げて答えた。

「はい、旦那様は朝早くから執事のクライヴ様と共に、領内の視察に向かわれると聞いております。すぐに馬車でお立ちになるとか……」


 それを聞き、レイナの胸はしゅんとしぼむ。せっかく早起きしたのに、やはりタイミングが合わないのか。

「そう……分かりました。ありがとう」

 もはや一緒に食事をするどころか、姿を見かけることも難しそうだ。落胆を隠しきれないまま椅子に腰掛けると、向かい側の席には誰もいないことを改めて痛感する。豪華な調度品に囲まれたダイニングで、一人きりの朝食はいつもより一段と味気なく感じられた。


 スープを一口すすっても、レイナの心は重い。半月前、自分がアルステッド邸に嫁いできたあの日から、こうした朝を何度繰り返しているだろう。

「いっそのこと私も同行できればいいのに……」

 小さく漏らしたつぶやきは誰にも届かない。領内視察や政務に口出しする立場ではないし、もともとカイゼルに“必要とされていない”と感じる場面ばかりだ。


 こんな状態で、一体どうやって心の距離を縮めたらいいのか。あるいは、契約結婚なのだから、もはや努力して近づく必要などないと割り切るべきなのか――。レイナは混乱する頭を抱え込んだ。


3.封印された書庫への疑念


 朝食を終えたあと、レイナは何もやる気が起きず、ふらりと書庫へ足を運んだ。ここはアルステッド邸の中でもひときわ静かで、大量の蔵書が所狭しと並ぶ場所。レイナの心に不安や悩みが募るたび、知らず知らずのうちにこの部屋に足が向いてしまう。

 だが、ここ最近、レイナが最も気になっている棚には、頑丈な鎖と鍵がかけられたままだ。以前に見つけた呪術めいた記述や、カイゼルの“仮面”に繋がるかもしれない古文書があった一角――。 そこに触れようとすると、周囲の侍女たちは決まって「申し訳ございません、奥方様。旦那様の許可がないと……」と困った顔をする。


「……許可を取ろうにも、肝心の旦那様がなかなか話を聞いてくれないんだけど」

 レイナは苦笑を漏らし、閲覧可能な別の棚を適当に眺め始める。歴史書や詩集、地誌など、どれも教養として読むには良質な書物だが、レイナの関心はやはり“仮面”の謎に向いてしまう。

 ――カイゼルがなぜ、常に左半分の顔を隠しているのか。どうして人との距離をあそこまで拒むのか。


 書庫を管理する年配の使用人が、そっとレイナに声をかける。

「奥方様……。何かお探しの本がございましたら、お手伝いいたしましょうか」

「ありがとう。大丈夫、ただ見てまわっているだけよ」


 そう言いながら本棚の背表紙を指先でなぞっていくと、ふと一冊、タイトルの文字が剥げ落ちそうになっている古い本を見つけた。『貴族の系譜と祝祭』――どうやら昔の王侯貴族の行事や慣習、血筋などが綴られた書物のようだ。

 ぱらりと開いてみると、挿絵の中には華やかな舞踏会や祭典の様子が描かれている。それらの隅に、ところどころ怪しげな呪術の挿話が書かれているのを発見し、レイナは密かに胸をときめかせた。


> 古き血筋に伝わる祝祭の中には、神への祈りと同時に呪詛を払う儀式があるという……

ときに、一族にまつわる“傷”を隠すための仮面が用いられることがあった……




 ――呪詛を払う儀式、仮面で隠す傷……。どこか、カイゼルの姿と重なるではないか。

 ただ、断片的な記述だけでは全貌が掴めない。レイナはもっと深く読みたいと思い、しばらくページをめくったが、特筆すべき情報には行き当たらなかった。


「……やっぱり、あの鍵付きの棚の中身でないと無理なのかしら」

 カイゼルの言葉を借りれば「私には関係のないこと」なのかもしれない。しかし、レイナはいつか、あの仮面の理由を直接問いかけられるようになりたいと願ってしまう。


4.中庭での訓練と、切ない夕刻


 書庫を出たレイナは、屋敷の中を歩き回るうちに、中庭で何やら熱心に鍛錬をしている騎士や従者たちの姿を見つけた。訓練用の剣を交え、掛け声を上げながら立ち回る彼らの姿は活気に満ちている。

 アルステッド家は軍備にも力を入れているらしく、こうした騎士の訓練場が邸内に設けられているのだ。ヴェルネ家では考えられなかった光景に、レイナは思わず足を止める。

 そこへ、一人の青年がレイナに気づき、軽く頭を下げた。クライヴ――カイゼルの秘書兼執事であり、常に行動を共にしている姿をよく見かける。


「奥方様、見学にいらしたのですか? 今は騎士たちが基礎の体術を復習しておりまして……」

 クライヴは穏やかに笑いながら、手近な椅子を勧めてくれる。レイナはそこへ腰掛け、ほどよい距離から騎士たちの動きを眺めていた。

「皆さん、とても真剣ですね。こうやって毎日訓練なさっているんですか?」

「ええ。アルステッド家の防衛力は侯爵様の指揮のもと厳しく管理されています。万が一の時に備えて、騎士や兵士たちは常に鍛錬を欠かさないのです」


 クライヴは視線を訓練に向けたまま、ふと口元に寂しそうな笑みを浮かべる。

「……侯爵様も、もとは剣技に長けた方でした。若い頃は騎士たちをリードして訓練を行われたこともあるのですが……」

 そこで言葉を切り、クライヴはレイナに視線を移す。何か言いづらいことがあるのだろうか――そんな気配を感じて、レイナはわずかに胸が騒いだ。


「カイゼル様は、もう訓練には参加されないのですか?」

「……そうですね。仮面をつけるようになってからは、ほとんどお姿を見せなくなりました。ごく稀に腕を慣らされることがあっても、人前では決してなさらない。まあ、それでも侯爵様の剣腕が衰えたとは誰も思っていませんが」


 仮面――やはりそこが大きな境目らしい。レイナは思わず問いただしたくなる。いつから彼は仮面をつけるようになったのか、それはどうしてなのか――。

 だが、ここで深く追及するのは躊躇われた。クライヴ自身がどこまで知っているかも分からないし、使用人に個人的な事情を詮索するのも憚られる。


「……あの、クライヴ様。この家では、私がカイゼル様に積極的に話しかけると嫌がられるんでしょうか……」

 意を決して、レイナはこれまでに感じてきたモヤモヤを口に出してみた。クライヴは一瞬驚いたように目を瞬かせる。

「嫌がられる、ということはないと思いますよ。侯爵様は人との馴れ合いを求めないお方ですが、奥方様が“妻”として言葉をかける分には問題ないかと。ただ……」


「ただ?」

「ただ、もし奥方様が“仮面の理由”に踏み込みすぎると、さすがにあまり良い反応は得られないかもしれません。侯爵様のあの姿には、色々と経緯がありますから」


 やはり、そこに大きな壁があるのだ。レイナはなんとも言えない切なさを覚えながら、それでも笑顔を作った。

「ありがとうございます。……少し安心しました。私、下手に刺激するのが怖くて、最近ずっと距離を置いていたので」

 クライヴは申し訳なさそうに首を振る。

「奥方様が自ら働きかけることを、侯爵様が拒絶なさるとは思いません。むしろ、どこかで心の隙間を埋めてくれる相手を求めているのかもしれない――私はそう考えております」


 意外な言葉。レイナは思わず胸が高鳴る。カイゼルが“心の隙間”を抱えている――その表現は、まるで仮面の下の苦しみを暗示するように聞こえた。

「……そう、なんですね」

「ですが、その隙間に踏み込むには相応の覚悟が必要かもしれません。侯爵様は長らく、誰にも心を開かずに過ごしてこられたのですから」


 そう言うクライヴの言葉は優しさに満ちていた。レイナは彼に向かって、はっきりとした声で答える。

「私、諦めません。どんな形の結婚であっても、私はカイゼル様の妻ですから……。何もせずに諦めるなんて、したくないんです」


 クライヴは微笑み、軽く一礼してから訓練場へ戻っていく。レイナはその背中を見届けながら、かすかな決意を胸に抱いた。――「契約結婚だから」と言い訳して、何もせず立ち止まるのはやめよう。あの仮面の下にある真実を、自分の手で少しずつ解きほぐしてみせるのだ、と。


 夕方、訓練を終えた従者たちは皆食事の支度や後片付けに追われている。レイナも自室へ戻り、温かな湯に浸かりながら明日のことを考える。果たしていつ、カイゼルが帰ってくるか分からないが、もしかすると夜遅くにでも帰宅するかもしれない。そうしたら――せめて一言でも言葉を交わしたい。

 そんな思いを巡らせながら、レイナは窓の外に広がる夕焼けを見つめた。橙色に染まる空は美しく、それでもどこか切なかった。


5.再会の夜:彼の一喝


 その夜、レイナは半ば眠りかけていたが、玄関ホールから賑やかな足音が聞こえて飛び起きた。時計を見ると、夜もかなり更けている。音の調子からして、どうやらカイゼルが帰宅したらしい。

 レイナはガウンを羽織り、急ぎ部屋を出る。寝静まる屋敷の廊下を駆けていくと、カイゼルの秘書クライヴがちょうど彼の外套を受け取っているところに行き当たった。


「お帰りなさいませ、カイゼル様……!」

 思わずそう声をかけると、カイゼルは足を止め、仮面越しにレイナを見やる。室内の灯りを受けて、その銀色の面は鈍く光っている。

「……こんな時間まで起きていたのか。早く寝ていろと言っただろう」


 まるで叱責するような口調だが、その裏にあるのは心配なのか苛立ちなのか判別がつかない。レイナはしかし、勇気を出して近づく。

「すみません。けれど、カイゼル様と少しでもお話がしたくて……。お疲れでしたら、せめて明日の予定だけでも……」


 そこまで言いかけた瞬間、カイゼルの声がびりびりと空気を震わせるほど強く響いた。

「余計な気遣いはするな。私の予定など、おまえには関係あるまい。……寝る前にわざわざここまで出てくる暇があるなら、もっと他にすることがあるだろう」


 バッサリと切り捨てるような台詞に、レイナの胸は痛んだ。でも、ここで引いてしまっては同じだと思い、再度口を開く。

「あなたの予定を知りたいのは、妻として当たり前のことです。私が“あなたの力になる”ことなどないかもしれませんが、それでも――」


「やめろ」

 カイゼルは鋭い声で遮り、急にレイナの手首を掴んだ。その力強さに思わず息を呑む。銀色の仮面の奥、見える片方の瞳が怒りに燃えているようにも見えた。

「おまえは……私に関わらなくていい。契約結婚だと、何度も言っているはずだ。それ以上、私の領分に踏み込むな」


 突き放すようなその言葉に、レイナの瞳から涙がこぼれそうになる。“私の領分に踏み込むな”――これはもう完全な拒絶だ。あまりにも悲しくて、言葉も出てこない。

 カイゼルは手首を離すと、背を向けて二階への階段を上がっていく。その足取りにはわずかな疲労も感じられたが、レイナには追うことができなかった。


6.封印された“呪術”――深まる謎


 翌朝、いつものようにレイナが目を覚ますと、カイゼルは既に屋敷を出ていた。クライヴに尋ねても「まだしばらく旦那様はご多忙ゆえ、お会いになれる機会は少ないでしょう」と申し訳なさそうな返事が返ってくる。

 ――これでは、何のための夫婦なのか。深い虚しさを抱えたまま、レイナはまた書庫へと足が向いていた。どうせ直接話せないのであれば、少しでも彼の背景を探り、仮面の理由を知る手掛かりを探すしかない。


 ところが、その書庫にはさらに警戒が強められていた。あの鍵のかかった棚の前には従者が配置され、誰も近づけないようにしている。

「……どうして、そこまで徹底して封印するんだろう」

 呟くレイナに、見張りの従者は一言、「旦那様のご命令です」とだけ述べ、それ以上は何も言わない。


 カイゼルが帰宅するたびに“私の領分に踏み込むな”という態度を取る。古文書も鍵で封じてしまう。まるで、あらゆる手段で自分から“秘密”を隠そうとしているようだ――。

 レイナは悔しさと切なさに胸を締め付けられながら、書庫を後にする。ほんのわずかに垣間見えた「心の隙間」がどこかにあるはずなのに、それは何重もの鎖で固く閉ざされている。


7.侍女リリーからの手紙――救いの光


 書庫を出て自室へ戻る途中、レイナは侍女から「お手紙が届いております」と声をかけられた。差出人はヴェルネ伯爵家――そう聞いて、真っ先にリリーの顔が思い浮かぶ。

 慌てて受け取って封を開くと、案の定、リリーからの手紙だった。結婚式以来、頻繁にはやり取りできていなかったが、彼女はレイナをいつも心配して便りを送ってくれる。


> レイナお嬢様、アルステッド邸での日々はいかがでしょうか。

お嬢様がお心を痛めていないか、いつも気がかりです。もしお時間があるなら、王都にいらした際にでも少しお会いできれば……。

それと、伯爵様もお嬢様のことをとても案じておられます。今回、王都に用事があるとのことで、数日後に私もお供して参りますので、タイミングが合いましたらお話させてくださいね。




 懐かしい筆跡に、レイナの心は一気に和む。“レイナお嬢様”という呼び方が、むしろ今はこそばゆいほど愛おしい。

「父様も、まだ体調は不安定と聞いていたけど……少しずつ動けるようになったのかな」

 こうして心配してくれる家族や友人がいるというだけで、レイナは救われる気がした。カイゼルに拒絶され、屋敷中から仮面の秘密を隠されていても、どうにか踏ん張れる支えになる。


 ――そうだ、リリーが王都へ来るなら、何とか外出の許可を得て会いに行きたい。

 だが、以前にも勝手に外出してカイゼルの怒りを買った前科がある。今度はちゃんと「彼の言葉」をもらってから外出しよう。いつ話せるか分からないが、少なくとも侍従のクライヴに相談してみようと思い立つ。


8.小さなきっかけ――一通の招待状


 レイナがそう決意を固めた矢先、さらに別の知らせが舞い込んだ。今度は王城から届けられたものらしく、豪奢な紋章が封蝋に押されている。

 差出人は――セシル王女。以前、盛大な夜会を催したあの王女だ。彼女はカイゼルの幼馴染であり、何かと“仮面”に興味を持っているらしい。


 手紙にはこう書かれていた。


> 先日の夜会では、ご夫妻にご出席いただきありがとうございました。特にレイナ様のドレス姿は大変好評で、私も嬉しい限りです。

さて、近々、王都の離宮で小規模な音楽会を開く予定です。アルステッド侯爵と奥方様にご足労願えれば幸い。今回はごく限られたメンバーをお招きする内輪の催しですので、ご都合が合えばぜひ。




 ――また王女主催の行事。しかし、今回は「ごく限られたメンバーを招く内輪の催し」というから、大規模な夜会とは違うらしい。

 レイナは複雑な思いに駆られる。セシル王女はカイゼルに対して特別な感情を持っているようで、以前の夜会でも彼に挑発めいた態度を取っていた。そんな彼女が再び二人を招くなんて、何を企んでいるのか分からない。


 とはいえ、公の手紙だ。断るわけにもいかないだろう。どうするかはカイゼルの判断になるが――ふと、レイナは思いつく。もしこれを機に王都へ行けるなら、リリーや父と会うチャンスが増すかもしれない。

「……彼が一緒に行ってくれるとは限らないけど」

 前回の夜会でも“仕方なく”出席したような態度だったし、あまり気乗りしないだろう。しかし、セシル王女という存在がカイゼルにとってどういう意味を持つのか、レイナはまだよく知らない。そこにも何か秘密があるのかもしれない――そんな勘ぐりさえ浮かぶ。


9.夫婦の口論と微かな変化


 結局、その日の深夜、カイゼルはいつもより早めに屋敷へ戻ってきたらしい。レイナはベッドでうとうとしていたが、廊下の物音に気づき、急いでガウンを羽織って扉を開ける。

 案の定、彼は長いマントを翻して部屋の前を通り過ぎようとしていた。レイナは意を決して声をかける。


「カイゼル様、少しよろしいでしょうか」

 彼はちらりとこちらを振り返るが、その表情――いや、仮面の奥――には相変わらず感情が見えない。

「……こんな時間に何だ。今日はもう疲れている。あとにしてくれ」


「そうは言っても、大事なお話なんです。セシル王女殿下から音楽会のご招待状が届いています。それと……私は王都に出向いた際、少しだけ父に会う時間をいただきたいのですが」

 レイナはできるだけはっきりと頼む。ここで曖昧にしてはまた“後でいい”と先延ばしにされるのが目に見えているからだ。


 一方、カイゼルはげんなりしたように息を吐く。

「音楽会……まったく、セシルも懲りないな。前回の夜会で十分だろうに」

 言い放つ口調には苛立ちが混じっている。しかし、“参加しない”とは即答しないあたり、やはり王女の誘いを簡単には断れないのだろう。


 レイナはすかさず畳み掛ける。

「それで、いかがなさいますか。王女殿下のご招待をお断りになるなら、それはそれで構いません。ですが、もし行かれるのであれば、私も同行してよろしいでしょうか? 父とリリーも王都に来ていると聞きましたし……私は一目会いたいんです」


「……勝手だな。おまえはそうして、私に断れない状況を作るのが上手い」

 冷ややかな声。だが、レイナは臆せず返す。

「勝手でも、私はあなたの妻です。行動を制限される理由があるなら納得します。でも、何も言わずに“関わるな”では理解できません」


 カイゼルがぐっと言葉を詰まらせるのがわかった。今までなら、ここで「黙れ」と突き放されたかもしれない。しかし今は違う。彼は少しの間沈黙し、それから仮面の下で小さく舌打ちした。

「……分かった。音楽会には出ることにする。セシルがどんな画策をしていようと、放っておくわけにはいかないからな。それに、おまえも同行して構わない」


「ありがとうございます……!」

 レイナは思わず声を弾ませる。カイゼルは顔を背けて素っ気なく続けた。

「ただし、無断でどこへ行くのもやめろ。王都で行方をくらまされては、私の立場がなくなる」


「大丈夫です。今度はきちんと相談します。リリーや父に会いたいときは、あなたかクライヴ様に申し出ますので……」

 そう伝えると、カイゼルはわずかに頷き、深くため息をついた。

「いちいち面倒をかけるなよ。……疲れているから、もう休む。いいな」


「はい。……ごゆっくりお休みになってください」

 ほとんど強引に幕が引かれた会話だったが、レイナには妙な達成感があった。カイゼルが完全に拒絶するのではなく、一応こちらの要望を聞き入れてくれたのだ。

 苛立ちを隠しもしない態度ながら、いつもよりほんの少しだけ――“会話”になった気がする。レイナはドアが閉じられた廊下に立ち尽くしながら、胸にじんわりと温かなものが広がるのを感じた。


10.旅立ちの日――王都へ向かう馬車の中で


 音楽会への出席が決まると、アルステッド家は慌ただしく準備に取りかかった。といっても、実務を進めるのは使用人や侍従たちが中心で、レイナはドレスの仕立てや化粧品の選定など、最低限の装いを整えるだけで精一杯だった。

 出発の当日、普段は別々の馬車で移動するカイゼルだが、今回は「同行せよ」と言われ、レイナは彼の乗る馬車へ同乗することになった。

 朝も早くから、屋敷の門前に馬車と護衛の騎士たちが待ち構える。カイゼルは黒いマントを纏い、仮面をつけたまま馬車へ乗り込むと、レイナに対してわずかに手を差し伸べた。


「乗れ」

 短い言葉だけれど、今までなら無言で先に馬車に入っていた。レイナはドキリとしながらも、その手を借りて馬車のステップを踏む。

 馬車の中は広く、柔らかなシートが並んでいるが、カイゼルは窓辺に背を預け、外を見つめるように座っている。レイナが向かいの座席に腰を下ろしてもしばらく言葉はない。


 やがて車輪が動き出し、馬車が揺れ始めた。沈黙が重いが、レイナは何とか会話の糸口を探そうとする。

「……今日は、王都までどれくらいかかるでしょう。前に行ったときは、かなりの渋滞があって大変でしたが……」


「そうだな。今回は護衛の騎士もいるし、できる限り早く到着するつもりだ。半日ほどかかる見込みだが」

 その答えはつっけんどんではあるが、レイナの問いに真面目に答えてくれたこと自体が少し嬉しい。


「そうなんですね。私、久しぶりに父とリリーに会えそうで……楽しみです。あなたのお許しがないまま行動はしませんので、後ほどでも相談させてくださいね」

 そう付け加えると、カイゼルは微かに眉をひそめたように見えた。

「……勝手に動かなければ、好きにしろ。私もそこまで厳しく拘束するつもりはない」


「ありがとうございます。……私、あなたに“負担”をかけたくないんです。契約結婚とはいえ、できるだけ、あなたの名誉を傷つけるような行動はとりたくないから……」

 レイナの言葉に、カイゼルの肩がかすかに動いた。仮面があるせいで表情は読めないが、何かを考えているのかもしれない。

 しばらくの沈黙の後、彼はぽつりと呟く。

「……おまえは不思議な女だ。普通なら、とっくに私に愛想を尽かしているだろうに」


「え?」

「いや、何でもない」

 そう言って再び窓の外へ視線を戻すカイゼルの横顔を見つめ、レイナの胸には小さな灯がともる。これまで彼からは“突き放す言葉”ばかりを聞かされてきたが、いまの呟きには彼自身の“戸惑い”が含まれているように感じられた。


 ――もしかすると、彼もまた完璧な“冷たさ”を貫いているわけではないのかもしれない。

 そう思うと、レイナは窓の外の風景がいつもより明るく見えた。道を照らす陽光が柔らかく馬車の中へ差し込み、仮面の銀色を淡く輝かせている。

 これまで感じてきた心の闇とすれ違いは確かに大きい。だけれど、少しずつ、ほんの少しずつでいい――彼の心に近づき、仮面の奥で揺れる苦しみに触れたい。レイナはそう願わずにはいられなかった。







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