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第4話 :仮面の裏に隠された真実



1.王都の朝、訪れた宿泊先


 馬車に揺られて半日近くかけ、レイナとカイゼルは王都の門をくぐった。道の両脇には商店や屋敷が立ち並び、多くの人や馬車が行き交う。活気に満ちた王都の空気に触れるのは、レイナにとって久々のことだった。

 窓外の喧騒に目を奪われつつも、レイナは自分の胸が高鳴っているのを自覚する。せっかく王都まで来られたのだ。父・デュラン伯爵とリリーが近くにいるなら、すぐにでも会いに行きたい。しかし今はまず、セシル王女が音楽会に招いた貴族たちが宿泊する離宮に移動する必要がある。


 やがて馬車が到着したのは、王都の中心部から少し離れた場所に位置する壮麗な離宮だった。広大な敷地を石造りの塀が囲み、中には緑豊かな庭園と、大理石の柱廊を備えた優美な建物がそびえ立つ。セシル王女が「内輪の催し」と言っていたが、さすが王族が使うだけあって、その威圧感は相当なものだ。


「ここにしばらく泊まるのか……」

 レイナは馬車を降りると、思わず小さく息を飲んだ。音楽会が終わるまで数日間は、この離宮で過ごすことになるらしい。すでにアルステッド家の従者たちが先回りして、部屋の準備を整えてくれているとのこと。

 一方、カイゼルは仮面越しに離宮の門と中庭を見渡し、低い声で呟く。

「どうやら、セシルが思っていた以上に“人を集めて”いるようだな。大勢の侍従や衛兵が出入りしている……」


「王女殿下は“ごく限られたメンバー”と仰っていましたが……」

「表向きはそうだろうが、実際には政治的な要人や貴族の子息を呼んで、様々な思惑が渦巻く場になる。……油断できん」

 冷淡な口調に、レイナは胸がざわつく。せっかく音楽を楽しむための催しだというのに、王都の社交界はいつも裏に何かが隠れているのだろうか。


 使用人に導かれて、レイナとカイゼルは離宮の正面玄関をくぐる。天井の高いホールには、既に数組の貴族夫婦が談笑している姿が見えた。華麗な衣装を身に纏い、会釈を交わしながら階上へと続く階段をゆったりと上っていく。

 その光景に、レイナは一種の息苦しさを覚える。アルステッド侯爵夫人として、ここで堂々と振る舞わなければならない――契約結婚という形でも、表向きは“仮面の侯爵の正妻”なのだから。


「……行くぞ」

 カイゼルが短く声をかけ、レイナはその後を追う形でホールの奥へ進んだ。そこでは、既にセシル王女の侍従が宿泊者を案内しており、アルステッド夫妻が来たと知るや否や慌ただしく頭を下げる。

「カイゼル・アルステッド侯爵様、そして奥方様。ようこそお越しくださいました。王女殿下がお二人のお部屋を上階にご用意しております。さっそくご案内いたしますね」


 王女本人はまだ姿を見せないらしい。後日、あらためて顔合わせの場を設けるつもりだという。

 レイナはそのまま侍従の後をついて長い廊下を進み、二人分の滞在部屋に到着した。内装はきらびやかで、別々の寝室を備えた広いスイート仕様だ。カイゼルは部屋に足を踏み入れると、周囲を一瞥して静かに息を吐く。


「私はここを使う。おまえの部屋は……隣だな」

 当然のようにそう言われ、レイナも特に驚かない。アルステッド邸でも寝室は別々だし、この離宮での滞在でも“夫婦が同室”という流れにはなりそうもない。

「分かりました。……後ほど、落ち着いてからお茶でもいかがでしょう? 音楽会の予定も相談したいですし……」


 そう提案してみるが、カイゼルは仮面越しに少し目を細めただけで、答えは素っ気ない。

「……気が向けばな」

 短くそう言うと、彼はマントを脱ぎ捨て、侍従を呼んで荷物の整理を指示し始める。レイナは少し肩を落としながら、自分の部屋へと入っていった。


2.思わぬ訪問者――父との再会


 部屋に落ち着いて間もなく、レイナが窓辺に腰掛けて外の景色を眺めていると、廊下から控えめなノックの音が聞こえた。ドアを開けると、そこには見慣れた姿――侍女リリーと、そして車椅子に座った父・デュラン伯爵の姿があった。

「リリー! ……父様……!」

 レイナは思わず声を上げ、急いで扉の外に出る。デュラン伯爵は顔色こそ少し青白いものの、こうして自ら王都まで足を運べるだけの体力は残っているようだ。


「レイナ……久しいな。体は大丈夫か? アルステッド家で辛い思いはしていないか……?」

 父の問いに、レイナは目頭が熱くなる。いろいろと悩みはあるが、“辛い”と返してしまえば父を余計に心配させるだろう。

「父様……。私なら元気よ。そちらこそ、無理をしないで。お体は……」


「ありがとう……。医師の許可を得て、リリーと共に少しだけ外出をしている。今日はセシル王女殿下から、領地運営に関する会合へお呼びがかかってな。この離宮に来る必要があったんだ。……それで、レイナにも会えるかもしれないと思って、リリーに頼んで探してもらったんだよ」

 そう言って微笑む父の姿は懐かしく、レイナは涙をこらえきれなくなりそうだった。どれほど心配をかけてきたか分からない。自分をアルステッド家に嫁がせた責任感を、父はずっと背負っているに違いない。


「父様……ありがとう。私も会いたかった。リリーも……ごめんね、なかなか連絡できなくて」

 リリーははにかんだように微笑む。

「お嬢様、いいえ、レイナ様……。お元気そうで何よりです。伯爵様もレイナ様にお会いできて大層喜んでおりますよ。私も安心しました」


 廊下で長話をするのも人目があるため、レイナは二人を部屋へ招き入れた。気遣いのある侍女が手際よく紅茶を運んできてくれる。静かな室内で改めて顔を合わせると、家族の温もりが胸に込み上げてきて、レイナはしばし言葉を失った。


「さあさあ、レイナ……。色々と話したいことがあるだろう。アルステッド侯爵は一緒ではないのか?」

 父の質問に、レイナは少し困惑する。

「父様……あの、カイゼル様は今お休みになっているかもしれません。まだ落ち着いてご挨拶できる状態では……」


「そうか……。いや、無理にとは言わんよ。ただ……」

 デュラン伯爵は言いにくそうに視線を下げる。どうやらレイナの夫婦関係を気遣っているようだった。

 察したリリーが口を開く。

「レイナ様、伯爵様はいつもお嬢様のことを気にかけていらっしゃるんです。アルステッド侯爵様とは上手くいっているのか、無理をしていないか、私にも何度もお話しされていて……」


 レイナは微笑んだ。確かに、問題は山積みだ。カイゼルの仮面、契約結婚の冷たい距離、呪いめいた秘密――。

 でも、今この場で父とリリーに心配を募らせるような話をするよりは、「大丈夫。何とか頑張っている」と伝えるのが得策だろう。レイナは努めて明るい声で答える。

「私、大丈夫よ。契約結婚って形にはなったけど、この家でそれなりに落ち着いた暮らしをしてる。カイゼル様も……忙しい方だから、あまり一緒にはいられないけれど、私をないがしろにしているわけじゃないし」


 少なくとも、危険があれば守りに来てくれたこともある。夜の街で迷った時も、馬に乗って探しに来てくれた――と、思い出すと胸が温かくなる。

 父とリリーは安堵したように表情を緩めた。

「そうか……。それならいいんだが……。もし何かあったら、遠慮なく戻っておいで。アルステッド家との契約は大切だが、おまえが心を壊してまで続ける必要はない。私たちはおまえの幸せを願っているんだよ、レイナ」


「父様……ありがとう」

 その言葉がどれほど心強いか、レイナは痛いほど感じる。アルステッド家で何が起こっても、ヴェルネ家は自分を迎え入れてくれる。たとえ血の繋がりがなくても、ここが本当の家族なのだ。


 そんな穏やかなひとときを過ごしていると、突然、廊下の方から硬質な足音が近づいてきた。ノックもないまま扉が開かれ、現れたのは――カイゼルの侍従役であるクライヴだった。

「失礼いたします。……あ、これはヴェルネ伯爵様。お揃いでしたか」

 クライヴはレイナたちに会釈すると、すぐに少し焦った面持ちでレイナへ視線を向ける。


「奥方様、旦那様が急ぎ外出されるとのことで、お連れする騎士の人数を確認なさっているのですが……レイナ様もご同行なさるのかどうか、今すぐ返事が欲しいと仰っておりまして」

「え……いま、ですか? 急ですね」

「ええ、どうやらセシル王女殿下からの呼び出しがあったらしく、予定より早めに離宮を出たいとのことで……」


 急な話に、レイナは戸惑う。できればまだ父とリリーとゆっくり話をしたいが、カイゼルが「同行するのか」と尋ねているなら、ここで無視するのもまずい。

「父様、すみません。少しだけ、カイゼル様のところへ行ってきます」

「うむ。構わんよ。私も長くは滞在できんから、リリーと一足先に出よう。また改めて会おう」


 そう言って父は車椅子を自力で動かし、リリーに手伝われながら部屋を出ていく。レイナは後ろ姿に名残惜しさを感じながらも、クライヴと共にカイゼルのもとへ向かった。


3.セシル王女からの呼び出し


 カイゼルの部屋では、彼が仮面をつけたまま侍従たちに指示を出していた。王女の元へ向かうために必要な書類や供を用意させているらしい。レイナが現れると、彼はちらりと見やって短く言う。

「来たか。おまえはどうする? 一緒に行くか。それともここで待つか」

「王女殿下の呼び出しでしたら……私もご挨拶したほうがいいかと思いますが」


 そう答えると、カイゼルはわずかに鼻を鳴らす。

「セシルが私を呼んでいるのは、公務の一環だ。領地の財務に関する協議があるらしい。おまえが行くなら、ただの同行者としてだ。特に口を出さなくていい」

「……分かりました」


 淡々とした口調だが、レイナはこの機会を逃したくないとも思った。セシル王女はカイゼルに近い立場であり、仮面の過去について何か知っているかもしれない。直接聞く勇気はないが、彼女の言動からヒントを得られるかもしれない――。

「それでは、ご同行させてください」

 そう申し出ると、カイゼルは「好きにしろ」と一言だけ返し、早速出発の準備を急かす。


 離宮から王宮へは馬車でさほど遠くない。王都の大通りを越えれば、立派な城壁が見えてくる。だが、セシル王女は王宮の奥に広がる庭園に滞在しており、そこまでたどり着くには車を降りて短い徒歩も必要らしかった。

 レイナが珍しい花々や噴水のある庭園を眺めながら進んでいると、カイゼルが隣で小さくつぶやく。

「……あまりきょろきょろするな。王族の庭園は警備が厳重だ。余所見をして怪しまれたら面倒だ」


 まるで子どもをいさめるような口調に、レイナは口をとがらせる。

「分かっています。少し見ていただけです……」

 すると、カイゼルは視線を正面に向けたまま、かすかに苦笑めいた息を吐いた。

「……まあいい。ここまで来たのなら、セシルとの話が終わった後、おまえの用事に付き合ってやることもできる。ヴェルネ伯爵と会いたいなら、その時でもいい」


 思わぬ提案にレイナの胸は弾む。今までは拒絶されることが多かったが、今回は随分譲歩してくれているように感じる。

「ありがとうございます。……正直、父は先ほど離宮まで来てくれましたけど、あまり話せなくて。体調が万全じゃないので、機会があるうちにもう少し会いたいんです」

「そうか。……では協議が終わるのを待て。セシルが時間を取らせるかもしれんが……」


 仮面の奥に隠された半顔には、どんな表情が浮かんでいるのだろう。レイナはその問いが頭をもたげつつも、黙って足を進めた。


4.王女との対面――財政協議の裏側


 広い庭園の先にある小さな離れを訪れると、セシル王女が数名の貴族たちと書類を広げている姿があった。ドレス姿ではなく、動きやすい簡素な衣装に身を包み、髪もゆるくまとめている。

「カイゼル、待っていたわ。いらしてちょうだい」

 王女はアルステッド夫妻に気づくと、目を細めて微笑む。レイナをちらりと見たあと、すぐにカイゼルへ視線を戻す。

「ヴェルネ領の今後の方針について、相談に乗ってもらいたいの。先日から伯爵様ともお話しているんだけれど、やはりアルステッド家の財政力とノウハウが必要で……」


「……聞いている。私がすべき事は何だ?」

 カイゼルが簡潔に問い返すと、セシル王女は周囲の貴族たちに合図し、彼らは一礼してから離れの部屋を出ていった。どうやら、本当に限られたメンバーしかいない状況で協議を続けたいらしい。

「細かい資料は伯爵様から既に受け取っているでしょう? 私としては、アルステッド侯爵から資金援助を受ける形でも構わないし、その代わりヴェルネ領の一部再開発を進めたいの。そこに王室も関与して、共同事業のような形で……」


 セシル王女は矢継ぎ早に構想を語るが、レイナは話の内容に少し驚いた。ヴェルネ伯爵家は確かに財政難に陥っていたが、そこに王女が手を差し伸べ、それをカイゼルが支援する形になるとは――。

 話を聞く限り、それは“ヴェルネ伯爵家の救済”というより、“王女の新政策”の一環として利用されているようにも見える。


「アルステッド家の領地や経営方針は、常に革新的よね。だからこそ、あなたに協力してほしいの。……どうかしら? カイゼル、あなたならわかってくれると思ったんだけれど」

 セシル王女は甘い声でカイゼルに語りかけるが、カイゼルは仮面を外さぬまま、静かにテーブルの地図を見下ろしている。

「……悪い話ではない。ただ、ヴェルネ家を安易に巻き込みすぎるのはどうかと思う。領主であるデュラン伯爵自身が本当に望んでいるのか、それを確かめたい」


「伯爵様の意思なら、もう確認済みよ。もちろん多少は不安もあるでしょうけど、伯爵家が破綻するよりはマシでしょうし……。それに、レイナさんもアルステッド家に嫁いでいることで、両家の関係は良好になっているはずだわ」

 セシル王女がにっこりと微笑み、レイナへ向き直る。

「ねえ、そうでしょう? レイナさん……いまは“アルステッド侯爵夫人”だったわね。あなたも、ご実家であるヴェルネ伯爵家の立て直しを願っているはず。私たちの共同事業に賛成してくれるわよね?」


 不意に話を振られ、レイナは戸惑う。確かに父の負担を減らせるなら嬉しい。けれど、セシル王女がそこまで踏み込んでくるのには、何か別の思惑があるようにも感じられる。

 ちらりとカイゼルを盗み見る。彼は仮面の下で沈黙を守っている。おそらくレイナに自由に答えさせたいのだろう。

「私も、父の負担が軽くなるなら賛成です。……ただ、あまり大規模な再開発によって、領民の方々が突然の変化に苦しむようなことは避けたいです。王女殿下のお力でうまく調整していただけるのでしょうか」


 レイナなりに精一杯の言葉を選んだつもりだったが、セシル王女はクスッと笑う。

「領民が苦しむかどうかは、私だけではなく、あなたの夫の力にもかかっているわね。カイゼルが手腕を振るえば、領民を円滑に説得できるでしょう。……ねえ、あなた方は“契約結婚”だって噂されているけれど、それがどうなのか、私には分からないわ」


 まるで核心を突くかのような言葉に、レイナの胸が冷える。セシル王女はあえて“契約結婚”という言葉を口にし、レイナを探るような視線を送ってくるのだ。

「けれど、アルステッド家の正妻として、あなたが夫をよく支えてくれるなら、私としてもこれほど心強いことはないのよ。……あの仮面の侯爵が、いつか仮面を外して公の場に出てきてくれたら、どんなに素敵でしょうね」


 明らかに挑発するかのような調子に、レイナは言葉を失う。セシル王女はかつてカイゼルと特別な関係にあったのかもしれない――その疑念が頭をもたげ、心がざわつく。

 一方、カイゼルはあえて言葉を返さず、地図と書類を淡々と確認している。セシル王女の口振りからして、これ以上の会話は無意味と判断したのかもしれない。


 やがてカイゼルは首を上げ、低い声でまとめに入る。

「……まあいい。今回の協議内容は理解した。アルステッド家としては前向きに検討する。私が戻り次第、あらためて具体案を提示しよう。その段階でヴェルネ伯爵ともきちんと話を進めていく」

「ええ、もちろん。楽しみに待っているわ。それで、音楽会当日にはまた別のお話もできればと思うの。……あなたたち夫婦がどんな風に登場してくれるか、今から胸が高鳴るわね」


 セシル王女はうっとりと微笑んでみせるが、その裏側には何かしら含みが感じられる。彼女はカイゼルに媚びているようで、同時にレイナを観察しているようにも思えた。

 ――この人は、カイゼルの“仮面”に関する秘密をどれほど知っているのだろう。もし直接尋ねたら、どんな反応を示すのか。


 そんな思いが駆け巡る中、協議はあっさりと終わりを告げた。セシル王女は近くに仕える側近を呼び戻し、また別の予定へ移るらしい。部屋から退出しようとするカイゼルとレイナへ、王女は最後にもう一度言葉をかける。

「音楽会の前日には簡単なリハーサルもあるの。お二人にもぜひご参加いただけると助かるわ。ふふ、楽しみにしているから」


5.王都の街へ――父と再び会うために


 セシル王女との対面を終え、王宮の庭を抜けたところで、カイゼルが「おまえの用は済んだのか」と問いかける。

「いえ……まだきちんと父と話せていないんです。もしよろしければ、今からヴェルネ伯爵の滞在先へ行っても……?」

 恐る恐る尋ねると、カイゼルは仮面の下で少し考え込むようだったが、やがて面倒くさそうにうなずいた。


「……分かった。私にも多少は時間がある。だが、あまり長引かせるなよ。音楽会の準備もあるし、今日は他にも会うべき貴族がいる」

「ありがとうございます! すぐに済ませますので……!」


 レイナは素直に喜び、クライヴを通じて父の宿泊先を確認する。どうやら王都の中でも静かな高級宿を借りているようで、そこまで馬車で移動することになった。

 馬車の中では、カイゼルとほとんど会話がない。だが、さっきのセシル王女とのやり取りを思い返すと、どうしても口を開きたくなる。


「……先ほどの話、ヴェルネ領の再開発って、けっこう大掛かりなんですね。父は本当に了承しているのか、私も少し心配で……」

 レイナが切り出すと、カイゼルは外の景色を見たまま答える。

「合意したとはいえ、無理強いではないだろう。だがセシルは、ああ見えて王族としての権力を巧みに使う。それが領主にとっては“断りにくい誘い”になり得るのも事実だ。……まあ、最終的には私が落としどころを探る」


「そう、なんですね。……私もできることがあれば協力したいです。父にも話を聞いてみます」

「勝手に事をややこしくするなよ。余計な口を挟むなら、ちゃんと報告してからにしろ」

 いつものように釘を刺され、レイナは苦笑する。


 そんなやり取りをしているうちに、馬車は父の宿泊先である小さなホテルの前に到着した。重厚な扉と清潔な門構えが印象的で、リリーが気を利かせて手配してくれたのだろう。

「ここだな。……私は馬車で待つ。終わったらすぐに戻ってこい」

「え? カイゼル様は、一緒に降りてはいただけないんですか……?」


 レイナが身を乗り出して問いかけると、カイゼルは面倒くさそうに首を振る。

「伯爵に会う用はない。……そちらもさほど長くならないだろう? 私はここで待っている」

 言葉尻には冷たさがにじむが、レイナにとっては馬車を降りる許可を得られただけでも大きな前進だ。


「分かりました。……では、少し行ってまいります」

 そう答え、レイナは急いで馬車を降りる。門前に立っている門番に伯爵の名を告げると、宿の主人がすぐに対応してくれた。どうやらデュラン伯爵は奥まった特別室にいるようだ。


6.父の秘密――苦悩を背負う伯爵


 案内された部屋の扉をノックすると、すぐにリリーが出迎えてくれた。中へ入ると、父は車椅子で窓辺に座って外を眺めていた。その背中には、どこか哀愁が漂う。

「父様、失礼します。先ほどは離宮であまりお話できなくて……」

 そう言いながら近づくと、デュラン伯爵は振り向いて微笑む。


「レイナ……。よく来てくれたな。アルステッド侯爵は一緒ではないのか?」

「はい、馬車で待ってくれています。父様とゆっくりお話しする時間を作ってくださって……」

 その言葉に、父は意外そうに目を瞬かせる。

「ふむ、あのアルステッド侯爵が……。そうか。なるほど、レイナ、おまえは彼にとってきっと大切な存在になり始めているのかもしれんな」


「そ、そうでしょうか……? あまり実感はないんですけど……」

 レイナは頬を染めながら答える。確かに、以前よりは多少融通を利かせてくれるようになったが、まだまだ“契約”と割り切られている面も大きい気がする。

 デュラン伯爵は苦笑しつつ、ゆっくりと深呼吸をした。

「ところで、レイナ……。セシル王女が提案しているヴェルネ領の再開発計画について、私はそれなりに前向きに捉えているんだ。これまで領地の財政難を苦にしながら、なすすべがなかったからな……。ただ、正直なところ不安もある」


 伯爵は自嘲気味に笑みを浮かべた。

「王女殿下の力を借りるというのは、つまり王族の都合で領地が大きく変わってしまう可能性もあるということ。私はそれが領民にとって本当に良いのか、見極めたいんだ。……だが、私の病もあって、長く動き回るのは難しい」


「父様……。私が何かできればいいのですが……」

「うむ。おまえがアルステッド侯爵と協力してくれるなら、心強い。あの男は財政や経営にかけては天才的な才覚を持っていると聞くし……」

 そう語るデュラン伯爵の言葉の端々から、深い疲労と迷いが感じられる。少し呼吸も苦しそうだ。リリーが心配そうに水を差し出すと、伯爵は「すまん」と謝りながら一口飲んだ。


 レイナは思わず胸が締め付けられる。伯爵家のために自分が嫁いだはずだが、父はまだ健康面でも苦労していて、領地の将来にも不安を抱えている。

 ――自分は本当に役立っているのだろうか。契約結婚の形だけで満足して、何もできていないのでは。


 伯爵はそんなレイナの心情を見透かしたように、優しく微笑む。

「レイナ、おまえが私たちを救ってくれたことは確かだ。アルステッド家からの支援があってこそ、今のヴェルネ伯爵家はなんとか持ちこたえている。それだけでも十分恩を返してくれているんだ……。だから、あまり自分を責めるな」


「父様……」

 目頭が熱くなり、言葉が出ない。代わりに、父はふと何かを思い出したように話を変えた。

「それと、レイナ……。一つ、おまえに伝えたいことがある。実は、数日前にギルバート伯爵が私のもとを訪ねてきたんだ」


 ギルバート伯爵――レイナをしつこく求婚し、アルステッド家に嫁いだことを快く思っていない男。以前にも王都の夜会で絡んでこられた嫌な思い出がある。

「ギルバート伯爵が、父様のところへ……? 何の用でしょう……」

 レイナが顔をしかめると、父は眉をひそめながら続ける。


「どうやら、アルステッド家からの資金援助をあてにして、彼もまた自身の事業を拡大したいらしい。……だが、それには私が王女やアルステッド侯爵に“口添え”しろと言うんだよ。馬鹿げた話だが、断ると脅しに近い言葉をかけてきてな……」


「脅し……?」

「ああ。言葉こそ穏やかだが、“アルステッド家を利用するなら今が好機だ。利用し損ねれば、あなた方は共倒れだ”などと、よく分からない言い方をしていた。……何を企んでいるのか分からんが、不気味でな」


 レイナの胸に嫌な予感が走る。ギルバート伯爵は財政難だと聞いていたが、ここまで執着してくるとは相当追い詰められているのかもしれない。

「私が王都の夜会で会った時も、似たようなことを言われました。もし仮面の侯爵に飽きられたら、自分のもとへ戻ってこい……なんて、侮辱的なことを……」


 父は顔を曇らせ、車椅子の手すりをぎゅっと握りしめる。

「いずれにせよ、気をつけてくれ、レイナ。あの男は何をしでかすか分からない。伯爵家やアルステッド家に損害を与えるような謀を巡らせていてもおかしくないからな……」


「分かりました。……私も注意しておきます」

 そう返しながら、レイナはなお一層不安を覚える。仮面の侯爵・カイゼルと、何か大きな衝突が起きないといいのだけれど。


7.馬車での密約――夕暮れへ向かう帰路


 父と十分な会話を済ませた後、レイナは急ぎ馬車へ戻った。カイゼルは仮面越しにこちらを見ることもなく、「やっと終わったか」という素振りで短く呟くと、すぐに出発の合図を出す。

 王都の街並みは夕暮れ色に染まり始め、石畳を行く人々の影が長く伸びていた。馬車は離宮へ帰るルートをゆったりと進む。窓越しに見える赤みがかった空を見つめながら、レイナは思いきって話を切り出した。


「……カイゼル様、ひとつお伝えしておきたいことがあります。実は、父のところへギルバート伯爵が来たそうで……。何やら怪しい動きをしているらしく、私たちを利用しようとしているかもしれません」

 カイゼルは視線を外に向けたまま静かに答える。

「ギルバートか。聞いたことがある。何度も借金を繰り返しながら、他人の家に取り入って利益を得ようとする守銭奴だと……。おまえは以前、あの男に婚約を迫られたと言っていたな」


「ええ。……結局断ったのですけれど、まだ未練があるのか、私を嘲るような言動もあって……。父様も脅迫めいたことを言われたと……」

「そうか。ならば、何かしらの手を打つ必要があるかもしれんな。……まあ、あの程度の男なら放っておいても勝手に自滅するとは思うが」


 淡々としたカイゼルの言葉に、レイナは少しだけホッとする。確かにアルステッド侯爵家の財力や権力を考えれば、ギルバートのような小物が容易に手出しできる相手ではないのかもしれない。

 とはいえ、油断は禁物だ。彼はしつこさと狡猾さを兼ね備えている。レイナは苦い思いを抱えながらも、カイゼルに思い切って感謝の言葉をかける。


「……いろいろと、お忙しいのにありがとうございます。父との面会を許してくださったり、私の話を聞いてくださったり……」

 すると、カイゼルは仮面越しにちらりとレイナを見やる。窓ガラスに映る仮面の半顔が、ゆらりと揺れたように感じられた。

「……礼を言われる筋合いはない。おまえの行動が結果的にアルステッド家を利する可能性もあるのだからな。……契約上、困ることはないだろう」


 またしても素っ気ない返事。けれど、以前のように「余計なことをするな」「私の領分に踏み込むな」という拒絶ではない。レイナは小さな違いを感じて、心が温かくなる。

 馬車は夕闇の迫る王都の通りをゆっくりと抜け、やがて離宮に戻った。玄関前で待ち構えていた侍従たちが二人を出迎える。


8.事件の始まり――封印が解かれる気配


 離宮の自室に戻ったレイナは、疲れた体をソファに沈ませ、ぼんやりと頭を整理する。セシル王女との協議、父との再会、ギルバート伯爵の不穏な動き――まるで、いくつもの糸が絡み合うように彼女を取り巻いている。

 そこに、コンコンとノックが響き、クライヴが顔を出した。

「奥方様、お疲れのところ失礼いたします。少しお耳に入れておきたいことが……」


 クライヴは部屋に入り、扉を閉めてから小声で切り出す。

「実は、先ほど王女殿下の側近と話をしたのですが、どうも“アルステッド家にまつわる古文書”について言及があったようで……。離宮の書庫に、私たちが閲覧しているのではないかと探りを入れてきたのです」


「アルステッド家にまつわる古文書……! もしかして、あの呪いの書物……?」

「私も真意は掴みきれていませんが、殿下が何らかの形で“封印された文献”を探している可能性があります。旦那様が保管しているそれらについて、すでに王女殿下は把握しているのかもしれません」


 レイナは息を飲む。アルステッド邸の書庫に厳重に鍵がかけられていた“呪術”や“仮面”に関わる文献。セシル王女がそれを求めているとすれば、カイゼルの“仮面”の秘密に繋がる何かを手中に収めようとしているのでは――そんな疑念が膨らむ。

「……どうして王女殿下がそんなものを探しているのかしら。カイゼル様の弱みを握ろうとしているのかな……」


 クライヴは難しい表情で言葉を選ぶ。

「王女殿下のお考えは分かりかねますが、少なくとも旦那様と王女殿下が旧知であることは確か。もしかしたら、昔から“仮面”にまつわる因縁を知っていて、それをどうにかして解き明かしたいのかもしれません。……あるいは、殿下が“呪術”そのものに興味を持っている可能性も否定できません」


 ますます混迷を深める状況に、レイナは不安を抑えきれない。契約結婚とはいえ、自分はアルステッド家の一員だ。もしセシル王女がカイゼルを追いつめるような行動に出れば、レイナ自身も巻き込まれるに違いない。

「……クライヴ様、ありがとうございます。私がこれ以上、軽率に動いてしまうと危ないかもしれないですね」

「ええ、旦那様がお怒りになるだけでなく、王女殿下の目を引いてしまう恐れがあります。どうかお気をつけください。私もできる範囲で情報を探ってみますが……」


 クライヴはそう言って一礼し、退室した。

 レイナはベッドに倒れ込むように腰かけ、重たい溜息をつく。――セシル王女、ギルバート伯爵、ヴェルネ領の再建、そして仮面の秘密……。まるでいくつもの糸が絡み合い、大きな網の目を作っているかのよう。

 その中央に立つカイゼルが、いつか全ての鎖を解き放つ日が来るのだろうか。レイナは疲れ切った頭でそう思い巡らせながら、部屋の灯を落とし静かに目を閉じた。


9.宵闇に仮面が揺れる――二人の葛藤


 夜更け、レイナが微睡んでいると、廊下からかすかな物音が聞こえて目が覚めた。こんな夜遅くに誰かが動いているのだろうか。ドアを開けてみると、そこにはカイゼルの姿――仮面をつけたままの彼が廊下の奥へ歩いていくところだった。

「カイゼル様……?」

 思わず声をかけると、カイゼルは振り返る。一瞬、居心地悪そうな雰囲気が漂うが、彼は足を止め、レイナを見据える。


「起こしたか。悪いな。少し離宮の外の空気を吸いに行くだけだ」

「こんな夜中に、ですか? ……私も一緒に行ってはいけませんか」


 以前なら、こんな問いに「余計なことをするな」と一蹴されたかもしれない。だがカイゼルは逡巡した末、「勝手にしろ」と小さく呟く。

 それはレイナにとって十分な許可の合図だった。すぐに上着を羽織り、足をそろえてカイゼルの後を追う。


 離宮の玄関から中庭へ抜けると、夜の風が冷たく頬をかすめる。月は雲に隠れ、薄明かりがわずかに石畳を照らすだけ。二人の足音が静かに響く。

「……少し眠れなかったのですか?」

 レイナが恐る恐る尋ねると、カイゼルは仮面の下で口を動かす。


「まあな。……王都に来ると、どうも気が休まらん。セシルやほかの貴族に囲まれるのは慣れているが、誰もが私の“仮面”をどうこうと言うからな」

 苦い笑みを含んだ言葉に、レイナははっとする。いつもは冷徹な態度しか見せないカイゼルが、珍しく本音を漏らしているようにも感じられた。

「王女殿下も、あなたの仮面に執着しているように見えました。……ずっと、外さないんですか」


「……外すわけにはいかない。この顔を見せるわけにもいかないし、見せたいと思わない」

 その声音は鋭い拒絶の響きを帯びる。それ以上踏み込めば、きっとまた突き放されるだろう――そう思いつつも、レイナは勇気を振り絞る。


「私には……。いつか見せてもらえないんでしょうか。あなたがどんな過去を抱えていても、私は拒絶しない。私は……あなたの妻ですから」

 そう言うと、カイゼルは一瞬動きを止め、仮面を通してレイナをじっと見つめる。月明かりがほんのり差し込んで、銀色の面が妖しく光る。


「……何度も言ったはずだ。私に関わるな、と。契約で繋がっているだけだということを忘れるな」

「忘れてなんかいません。でも、契約ってただの形式でしょう? 実際には、あなたは私を助けてくれたり、私のために譲歩してくれたりもする。そんな姿を見たら、ほうっておけません」


 その言葉に、カイゼルは掴みかかるようにレイナの手首を握りしめた。痛みが走るほどの強さだが、不思議とレイナは恐怖を感じない。彼の息遣いが聞こえるほど近い距離で、仮面がこちらを向いている。

「……甘ったれるな。おまえが私の中に踏み込むほど、深い闇を見ることになる。……それでもいいのか」


「はい。私、あなたがどんな闇を抱えていても、見届けたい。もしあなたが傷ついているなら、少しでもその痛みを和らげたいんです」

 レイナの瞳には決意が宿る。思えば、これまで怯えたり距離を置いたりしてきたけれど、今は正面からぶつかるしかないと感じている。

 カイゼルはしばし無言で、仮面の奥からレイナを見つめていた。握りしめた手の力が徐々に緩み、やがて彼はそっとその手を放す。


「……やはり、おまえは不思議な女だ。私を拒絶するのが普通だろうに」

 低く呟くその声には、ほんの少しだけ寂しさが滲んでいた。レイナはそっと微笑む。

「拒絶する理由がありません。あなたは私の契約の夫で、大切な存在になり始めているから」


 風が吹き抜け、沈黙が二人を包む。遠くで衛兵の足音が聞こえ、思わずレイナはカイゼルの表情を探ろうと身を乗り出すが、仮面のせいで何も分からない。

 やがて、カイゼルは大きく息を吐き、レイナの肩を軽く押し返す。

「……分かった。だが、今は何も語れない。……時間が来れば、いつかは」


 それだけ言うと、カイゼルは踵を返して中庭の奥へと歩き去る。レイナはその背中を見送りながら、胸が熱くなるのを感じた。彼は確かに“今は語れない”と言った。つまり、“いつか語る時が来る”かもしれないのだ。

 真実がどれほど重く暗いものであっても、レイナは逃げずに向き合う覚悟を固める。たとえ“仮面の侯爵”の闇が深くとも、そこに少しの光を差し込めるのなら――自分がそれを支えたい。


10.新たなる幕開けの足音


 翌朝、レイナは目覚めると、昨夜の会話を夢のように思い返す。あの人は確かに“いつかは”と約束してくれた。もちろん、確約ではないし、彼の中にはきっと激しい葛藤があるのだろう。

 それでも、レイナは一歩踏み出した気がした。もはや後戻りはできない。仮面の奥の闇を知ることは、アルステッド家の呪術や秘密にも踏み込むことになるかもしれない。それでも、カイゼルと歩む未来を信じたい――。


 そんな思いを抱きながら、レイナは離宮の窓を開ける。差し込む朝陽が眩しく、王都の空が広く見える。今日は音楽会のリハーサルがあるとかで、また人が行き交って賑わうだろう。

 ――ギルバート伯爵の不穏な動き、セシル王女が探る仮面の秘密、ヴェルネ領の再開発計画、そして封じられた“呪い”の文献……。何もかもが絡み合いながらも、レイナは確かにカイゼルとの距離を少しずつ縮めはじめている。

 残された日々で、どんな試練が訪れるのかは分からない。けれど、レイナはもう弱気にはならないと誓った。彼が仮面を外す時が来るなら、その瞬間を隣で見届けるのは自分――。


 朝の空気を吸い込み、レイナは部屋を出る準備を始める。外では、騎士たちの声や楽師たちの調べが混じり合い、新たな騒動の予感を漂わせていた。

 ――これから先、アルステッド家とヴェルネ伯爵家、そして王族と“仮面”を巡る運命がどう動こうとも、レイナは真実を知り、カイゼルと心を通わせたいと願っている。

 その想いを胸に、彼女は離宮の廊下へと足を踏み出すのだった。






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