目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第28話 千切れるかと思った

 腹もほどよく満ちている昼下がり。

 本日より、晴れて勤労デビューすることになったオレは、十八時の開店に備えてスミレナさんから接客マニュアルを教わっていた。


 アルバイト経験すらないオレが役に立てるのか心配だったが、とんでもない。仕事はいくらでもあった。酒場【オーパブ】では、それこそ猫どころか、サキュバスの手も借りたいほど人手が足りていない状況だったのだ。

 姉と弟の二人だけでは、全てのサービスを完璧に提供するのは現実的に無理。

 そのため注文取りは、客にバーカウンターの前まで足を運んでもらって行う。

 そして食器の片づけは、基本、セルフサービスだった。

 もっとも、食器は所定の場所にさげるだけで、洗うところまでする必要はない。洗い物やテーブルの清掃は、酒担当のスミレナさんと、料理担当のエリムが、各自手の空いた時間を見つけて行っていたそうだ。

 向こうの世界でいうところの、ファーストフード店のようなスタイルだ。


 そこで、オレに求められる仕事は単純明快。

 オレが注文を取り、客が帰れば食器をさげてテーブルを清掃する。これだけだ。

 だけとはいえ、この仕事をしっかりとこなせば、店としてのサービスは向上するし、スミレナさんとエリムの負担も格段に減らすことができる。はっきりと店への貢献が期待できる分、勤労意欲もめきめきと湧き上がってきた。


「頑張ってね。でも気を張りすぎる必要はないわ。二、三日は、これまでどおりのセルフサービスも続けるから。常連客は、そのあたり配慮してくれると思うし」

「ありがとうございます。それでも仕事に慣れるまでは、スミレナさんとエリムに迷惑をかけてしまうと思います」

「うふふ。今日一日頑張れたら、お姉さんが、ご褒美にイイコトしてあげる」


 ぷるんと瑞々しい唇に人差し指を当てたスミレナさんが、語尾にハートマークが付いていそうな艶めかしい声で言った。その仕草に、ドキッ、と心臓が跳ねる。


「ご、ご褒美なんて。お世話になっている以上、オレが店を手伝うのは当たり前のことです。気を遣わないでください」


 しどろもどろになって返すが、頭の中では「イイコトって何かな? 何かな?」と、そればかりが巡っている。こちとら心は純朴な少年なので、年上のお姉さんにそんなことを言われてしまっては、逆に仕事に支障をきたすことになりかねない。煩悩よ去れ。


「わかったわ。ご褒美は一旦保留しておくわね」

「そうしてください。与えられた仕事を完璧にこなせるようになるまでは、厳しい指導をお願いします」

「承知したわ。もし仕事で失敗した時は、バツとしてリーチちゃんにイケナイコトをしちゃうから、そのつもりでね」


 あれ、おかしいな。真逆のことを言われてるのに、訪れる結果は変わらない気がするぞ。

 仕事とは別の緊張に見舞われていると、エリムが「悪フザケもほどほどにしなよ」と語調を強く、スミレナさんをたしなめた。


「悪フザケ? これは姉から義妹いもうとへ向ける飽くなき愛情表現よ?」

「リーチさんは困っているじゃないか。いくら姉さんでも、リーチさんをオモチャにするような真似は許さないからね」

「いつになく強気じゃないの。どう許さないのかしら?」

「今までのように、やられっぱなしではいないってことだよ」


 攻撃的に言ったエリムがカウンターの向こうで長袖をまくり、ほっそりとした腕を出した。


「ふ、二人とも、やめましょうよ。さっき和解したばかりなのに」

「リーチさん、止めないでください。遅かれ早かれ、僕はいつか、この人を超えなくちゃならないんです。それが……今なんだッ!」

「姉であるアタシを超えようだなんて、後悔するわよ?」

「しない。僕はリーチさんのためなら、どんな困難にだって立ち向かえる」

「馬鹿な弟ね。でも、その度胸だけは買ってあげる」


 バーカウンターを挟み、二人の睨み合いが火花を散らす。

 この姉弟喧嘩は、もうオレには止められない。両者の間でぴりぴりとした空気が流れる中、スミレナさんが、ラムネの空き瓶のような物を一つ手に取った。まさか、あれで殴る気か!?

 殴殺再開を予感して戦慄を覚えるが、不意にスミレナさんが表情を和らげた。


「人生は出会いで決まる、という言葉があるわ。リーチちゃんとの出会いはエリムにとって、自分の人生を左右するほどに大きなものだったのね」

「運命的なものを感じたよ」

「そんな運命の女の子と一つ屋根の下で暮らすことになるだなんて、もしかしたら、ここから甘酸っぱい青春ラブストーリーが始まるかもしれないわね」

「か、可能性は、無きにしも非ずだと思っているよ」


 え、ゼロだろ?


「昨日、衝撃の出会いを経験したエリムが自分の部屋に戻った後、どんな気持ちで胸の高鳴る夜を過ごしていたのか、アタシには手に取るようにわかるわ」


 慈しむような声。オレはてっきり、スミレナさんがエリムの心意気を認めたのだと思った。

 だけど、それは大きな間違いだった。


「その時の様子を、臨場感たっぷりでお届けするわね」


 スミレナさんが、すぅーっと大きく息を吸い込み、空き瓶を口に近づけた。


「さあ白熱してまいりました同棲生活一日目の夜! ご存じミクロティンティンの手綱を握っているのは、弱冠16歳のエリム・オーパブ選手だ! ちょっと前の方が詰まっているか!? 苦しい! 苦しいが、ミクロティンティン、外からじわじわと追い上げていく! ゴールはもう見えているぞ! エリム選手もラストスパートをかけた! 先頭ではトウメイナシズクが粘りを見せている! 来るか来るか来るか並んだ並んだ並んだ! エリム選手さらに加速! 来た来た来た来たああああ! ミクロティンティン抜けたあああああ! そのままゴオォォォォル! 勝ち時計は3分41秒! 速い! いくらなんでも速すぎるぞミクロティンティン! 衝撃の末脚で一気に抜けました!」


 この世界にも競馬みたいなものがあるのかな。

 それよりも、時間……適当に言っただけですよね? 本気で計ってたりしませんよね?

 スミレナさんによる怒涛の実況が終わる頃には、エリムは灰と化していた。


「いやー、まさか初日からという見方もありましたが、そんな予想を裏切るまさかのまさか。エリム選手、見事に白星をつけてくれました。ついでにパンツにも白いものがついているかもしれませんね。この結果をどう見ますか? 解説のリーチ・ホールラインさん」

「こっちに振らないでください」

「悪いわね。姉として、そう簡単に弟に遅れを取るわけにはいかないの。真面目は長所であるのだけど、エリムはなんというか、堅いのよね。可愛げが足りないの。硬いのは寝起きだけにしておきなさいな」


 容赦無ぇ……。

 この人だけは絶対敵に回すまい。

 オレは密かにそう誓った。





「仕事の内容はひととおり教えられたし、リーチちゃん、お買い物に行きましょうか」

「オレも行くんですか?」

「もちろんよ。リーチちゃんの下着を買いに行くんだから」

「そういや、そんな話をしてましたね……。スミレナさんにお任せするというのは?」

「アタシに任せていいの? すんごいキワドイのとか買ってきちゃうわよ?」

「そ、それは困ります。というか、絶対に必要ですか? 下はまあ、穿いていないと変態扱いされますし、必要ですけど。上……ブラジャーは別に、なくてもいいんじゃないかなって思うんです。重ね着すれば、浮いたり透けたりすることもないですし」


 女になった自分より、男だった頃の外見イメージの方が強く残っているせいで、どうしたって男の自分がブラジャーをつけている変質者を思い浮かべてしまう。


「リーチちゃん、ちょっとお店の中を壁沿いに、ぐるっと一周走ってみなさい」

「え、なんでです?」

「いいから。とりあえず、滑らないようにだけ気をつけて、全力で走ってみて」


 あー、はいはい、なるほど。スミレナさんの言いたいことがわかった。

 オレ知ってますよ。巨乳は走ると痛いとかいうやつでしょ?

 論より証拠ってわけですか。スミレナさんは、オレに巨乳のデメリットを体感させて、ブラジャーの必要性を教えようとしているんだろう。


 でも、これは逆にチャンスだ。

 多少痛かろうが、平気な振りをしてやればいい。そうして、オレにはブラジャーなんて必要ないと言い、諦めてもらえばいいんだ。


「構いませんよ。そんなことしても、オレの意見は変わらないと思いますけどね」


 酒場の入り口まで移動したオレは、野球のベースランを想定して、反時計回りに走ることにした。重心を前に傾け、右足を引き、左足を前に出す。


「それじゃ、行きますよ」


 巨乳は走ると痛い、か。

 これねえ、前々から、ちょっと大げさだと思ってたんだよな。

 だって、人間は跳んだり走ったり、さらには泳いだりもする生き物だぞ?

 その人間の体についている物が、そこまで邪魔になるはずがないじゃないか。

 ふ、と不敵な笑みを零し、オレは壁に右肩を擦らせるようにして走り出した。





「どうだった?」

「…………ち、千切れるかと思った」


 言われたとおりに店内を一周したオレは、目尻いっぱいに涙を溜め、自分の胸を抱き締めるようにしてうずくまっていた。何これ……ワケがわからないよ。

 最初の一歩で、自分の意見に疑問を覚えた。

 十歩も走ると、自分が間違っていたと痛感した。

 半周ほどした頃には、世界中の胸の大きな女性に謝っていた。

 走り切った後はもう、ただひたすら痛かったとしか思えなくなっていた。


「無理すると、胸を支えている靭帯が切れるわよ。しかもこの靭帯、一度切れたら二度と再生しないの。それを防ぐためのブラジャーでもあるのよ」


 痛い。辛い。巨乳怖い……。

 こんなの全然いいもんじゃない。これ、片方でどれくらいの重さよ?

 確実にkg単位だろ。そんな重量が、上下に揺れる度にドシドシと胸部を叩いてくるせいで、走っている間、満足に呼吸することさえままならなかった。


「これでわかったでしょう。ブラジャー、買いに行きましょうね?」

「…………はい」


 泣く泣く、オレはそう答えるしかなかった。


「そうと決まれば、早速行きましょうか。エリム、留守番をお願いね」

「エリムは連れて行かないんですか?」

「女性下着を買いに行くのよ? 男性は居心地が悪いでしょう?」

「いや、エリムも連れて行きましょう! 別に下着の意見が欲しいとか、そういうつもりじゃないんです! ただ傍にいてくれるだけでいいんです!」

「リーチさん……そこまで僕を頼りに……」


 頼りっていうか、道連れ――もとい、居心地の悪さを共有してくれる人間がいてほしいんだ。店員さんも間違いなく女性だろうし、完全にアウェーへと飛び込んでいくようなものだ。


「リーチちゃん、残念だけど、エリムは今、動ける状態じゃないの」

「開店準備に忙しいからですか?」

「よかったわね、エリム。カウンターで見えなくて」

「ね、姉さん、しーっ!」


 スミレナさんがそんなことを言い、エリムが異様なほど慌てた。


「男が固くなるのは、寝起きだけではないということね。だけど、こればっかりはエリムを責められないわ。だって、ばいんばいんに揺れていたもの。あんまりにも眼福だったから、アタシなんて、つい手を合わせて拝んじゃったわ」


 ああ、そういうこと……。男って、どうしようもないよな。

 だけど、それでも思う。女性の胸を、ただほくほくと眺めていられた男に戻りたい。

 巨乳の苦労を垣間見たオレは、心の底からそう思った。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?