「はふぅ~……」
体調不良による体のだるさと、指折り数えるのもしんどい悩み事からくる重たい溜息が、とっぷり日も暮れた夜空に溶けていった。
今日は料理担当のエリムが王都へ出かけていて不在のため、【オーパブ】を休みにしている。そのため、店内や玄関前の通りを、いつもより時間と手間をかけて掃除するのが本日の仕事だ。
スミレナさんは寝ていなさいと言ってくれたけど、何もせず一人だけ休んでいるのは、余計に心労が積もって疲れそうだったので、せめて簡単な掃き掃除だけでもしたいと言い、今は表に出て箒をかけている。
「どぅは~……」
世話になっている恩返しがしたいと思っていたのに、結局さらに恩を重ねることになってしまった。特にエリムには、ホントもうね、なんて言えばいいのやら。
そもそもだ。
転生の際に種族選択の自由が無いっていうのが間違っている。
もっとこう、適正種族を選ぶにしたって、アンケートとか取れよな。
なんでサキュバスなんだよ。つーか、なんで女なんだよ。
おかげさまで、トイレも慣れちゃいましたよ。
自分の裸を見ても何も感じなくなってきたよ。
今もメイド服着用だけど抵抗がなくなったよ。
ブラジャーだって、もう完璧につけられるよ。
それでも。
それでもだ。男たちからの視線。あれだけは慣れない。
そういう対象として見られるのが、気持ち悪くて仕方ない。
注文を取りに行くと、まず胸に目が来る。そして顔に来て、また胸に戻る。
カウンターに戻る時は、尻か足を見られている……と思う。
だけど、オレも元男だから、見てしまう気持ちはよくわかる。
でかい乳が目の前にぶらさがっていたら、男なら絶対に見てしまう。絶対にだ。
もし
それを考えると、元男だから、男らしくないからできないってのは言い訳だ。
本当に男らしいなら、スパッと割り切って前に進んで行くはずだから。
男らしさをどう捉えるのかは人それぞれだけど、オレはそういう潔さが男らしさだと思っている。決定的に、オレに欠けていることだ。
こんなことを、ぐちぐち考えている時点で男らしくない。
「はぁ……オレって
「――溜息などついて、どうかされたであるか?」
意味なく同じところを何度も箒で撫でていると、覚えのある特徴的な口調で話しかけられた。
「あ、ギリコさん、こんばんは」
「御晩である。そうか、今日は休業日であったか」
リザードマンのギリコさん。
人としてだけでなく、男らしさという点でもオレが尊敬している一人だ。
「仕事帰りですか? なんか、ずいぶんぼろぼろですね」
濃緑の鱗が土埃で白くなっており、板金装備はキズだらけ。腰に差しているのは刀かな。鞘と柄を見ただけでも、使い込まれているのがよくわかる。
「いやはや、今日は久しぶりの大仕事だったのである」
「どこへ行かれていたんです?」
「町の南へ10kmほど進んだ先に、【パラポ炭鉱】という場所があるのであるが、そこにアリが湧いたので駆除に行っていたのであるよ」
「アリ、ですか」
「【ゴリリアント】なる、一匹が1メートル近くある凶暴なアリなのである」
「でかっ! 怖っ!」
「然り。やたらと攻撃的で、動物であれば、なんでも捕食しようとする。しかも、放っておくと、炭鉱内を穴だらけにしてしまう害虫である。崩落の危険もあるので早急に駆除を、という依頼であった」
巨大アリか。見たいような、見たくないような。昆虫系はちょっとなあ。
「そのアリって、手強いんですか?」
「そうであるな。奴らはすぐに仲間を呼び寄せてしまうので、極力単体を奇襲し、救援信号を出される前に倒してしまうのが最善の戦法である。だがしかし、甲殻が非常に硬く、的確に関節部位を狙わなければ仕留められない。そして噛まれると、怪我はもちろんであるが、唾液に含まれる麻痺毒が厄介極まりない。単身で挑むのは些か以上に危険な相手である」
「パーティー必須なんですね。やっぱ女王アリみたいなのもいるんです?」
「いる。これがまた大きい。兵隊アリの三~五倍はあるのである。ほとんど動きはしないのであるが、膂力が桁違いに強く、先の麻痺毒を霧状に散布してくるため、近づくことすら容易ではない」
「うへ~、完全にボスモンスターですね。倒せたんですか?」
「苦難の末であった。何を隠そう、最後の一太刀を決めたのが
と、そこで不意に、ギリコさんが喋るのを中断してしまった。
「どうしました?」
「リーチ殿が聞き上手なので、ついつい一人で得意気に語ってしまったのである。このような野蛮な話、女人には退屈なのではないであるか?」
「全然。もっと聞かせてほしいです」
「クァッ、クァッ、やはり、リーチ殿は変わっている。このようなことを言うのは失礼に当たるかもしれないが、褒め言葉と受け取ってほしいのである。さばさばとしたリーチ殿と話していると、なんというか、親しい男の友人と話しているような気楽さを感じるのである」
さばさば? 男の友人?
「…………ギリコさん」
「う、やはり、気を悪くさせてしまったであるか?」
「ちょっと右手を開いて、適当な高さに上げてもらえますか?」
「こ、こうであるか?」
顔の高さに上げられたギリコさんの右手目掛けて、オレは自分の右手をぶつけ、パチィィン! と軽快な音を打ち鳴らした。
「今のはなんであるか?」
「気にしないでください。嬉しかったんで」
「嬉しかった……であるか。本当に変わっているであるな」
オレが単純なのかな。
さっきまでの暗い気分が、ギリコさんの一言で綺麗さっぱり晴れてしまった。
「やっぱ、ギリコさんはいいなあ」
あ、口に出しちゃった。
「何がであるか?」
「あー、えーと……ですね、その、ギリコさんは、他の男性客と違って、真っ直ぐオレの目だけを見て喋ってくれるんで」
「目以外にどこを――ああ、なるほど。そういうことであるか。クァッ、クァッ、そう言われてしまっては、小生はこの先、絶対に視線を下げられないであるな」
こんな風に冗談っぽく笑い飛ばしてくれるってことは、ギリコさんにはやましい気持ちが一切無いってことなんだろう。さすがはオレの尊敬する人だ。
「スミレナ殿は店の中であるか?」
「はい。ミノコ――例の動物と一緒に、新しいお酒の開発を頑張っています」
「おお、酒の新メニュー。それは楽しみであるな」
「んー、どうでしょう。女性向けのお酒みたいですよ」
「であるか。では今度、火酒を使った物もお願いしたいと伝えてほしいのである」
「わかりました。もしかして、今日も店に寄ろうとしてくれていました?」
「いや、たまたま通りがかっただけであるよ」
「そうですか。明日は普通に営業しますから。またいらしてください」
「了解したのである。――と、そういえば昨日、この町の領主と一悶着あったのだとか? 同行したパーティーメンバーの一人が、そんなことを言っていた気がするのである。結果も詳細に聞き及んでいるが」
気がする。なのに詳細にって。
嘘の下手な人だな。店に寄るつもりがなかったのは本当でも、通りがかったのは偶然じゃなく、心配して様子を見に来てくれたんだろう。
「オレも昨日初めて領主を見たんですけど、思っていた以上に嫌な野郎でしたよ。スミレナさんが口でボコボコにヘコましていたんで、スッキリはしました」
完勝だった。そう言っているにもかかわらず、ギリコさんの表情には影がある。
「リザードマンである小生も、領主に不自由を強いられている身。腹に据えかねているところもある。ただ、小生のような根無し草とは違って、スミレナ殿には守る店と家族がある。あまり刺激しない方が賢明なのである」
「でも、スミレナさんは、やられたらやり返す性格ですよね」
「基本、倍返しであるな。それで懲りるような相手であればよかったのであるが。スミレナ殿には味方が多い。相手が誰でも、まず押し負けることはないであろう」
「じゃあ、何が心配なんですか?」
「いつでも味方が傍にいるとは限らないのである。どれだけ頼もしいと言っても、スミレナ殿は女人。力づくで来られたら一溜まりもないのである。【オーパブ】には大人の男がいない。小生は、それが少し気がかりである」
「一応、男は一人いますよ」
「エリム少年であるか。ん、んーむ……今後に期待であるな」
だってよ。頑張れ、エリム。
「幸い、相手には立場もあり、表立って強硬策は取れない様子。そのため、
弱み。そう言われて、オレはすぐに自分の存在がそれに当たることを自覚した。
「相手は曲がりなりにも権力者。一度向こうが優勢になってしまえば、なし崩し的に全てを奪われることとて考えられる。敵につけ入る隙を与えてはならない。小生がとやかく言わずとも、リーチ殿なら、この意味がわかっているであろう?」
「……はい」
「何度も言うようであるが、弱みを見せてはいけない。隠しておきたいことがあるのであれば、重々気をつけるのである」
ギリコさんは多分、オレが保護指定種族じゃないってだけでなく、魔物指定されていることにも薄々気づいている。だからここまで念を押すんだろう。
肝に銘じるくらいじゃダメだ。
死に物狂いで隠し通さないと。
そう自分自身に固く決意した、その直後だった。
「――こんばんはぁ」
ねっとりと絡みつく、着信拒否したくなるような声が背後からかけられた。
昨日の今日だ。忘れもしない。
「うぅん、静かないい夜ですねぇ」
ザブチン・カストール領主。
下品な服装と香水とヘアースタイルは相変わらずだ。
「……今日は店を開いていませんよ?」
「はぁい、存じ上げていますよぉ」
あれだけスミレナさんにヘコまされたのに、なんだってそんな楽しげなんだ?
まさかこいつ、Mな人種か?
「金色の髪。緋色の瞳。あとはまあ、大きな胸。アナタの証言と一致しますねぇ」
そう言って、カストール領主が自分の後ろに控えている従者に目をやった。
オレもその視線を追った。
どうやら、昨日見た従者とは違うようだ。
事故にでも遭ったのか、右腕は包帯で吊られており、首にもコルセットのような物を巻いている。満身創痍に見えるけど、そんな状態で従者が務ま――
血の気が引いた。
「
「ええ、間違いありません」
ニヤニヤとした笑みを張りつけてそこに立っていたのは、かつて【ルブブの森】で出会い、オレをサキュバスだと知って襲ってきた冒険者だった。