私は那由多村で穏やかな時を過ごしていた。遠くの田んぼで黄金に輝く稲穂、山から降りてくる爽やかな風。鶴ちゃん、こんな素敵な場所で過ごしていたんだと思うと、鶴ちゃんが助けを求めていただなんて嘘のよう。
未知子さんに鶴ちゃんのお部屋を教えて貰った私は鶴ちゃんの部屋、閉ざされた扉をノックする。
「鶴ちゃーん、わったしだよー茉莉乃よー」
ゴンゴンゴンゴン!
何度目かのノックで扉が空いて、私は腕を掴まれ部屋の中へと引っ張られた。鶴ちゃんは黙って私の顔をじぃっと見つめ、手鏡で私の顔を映した。あれ? 私のお目々、瞳孔が真っ赤だ。兎みたい。
「食事、食べたのね!」
「え、嗚呼! とっても美味しかったよぉか〜?」
「わかった」
それだけ言った鶴ちゃんは黙って押入れの奥の壁に触れ、レバーのような物を引っ張る。すると、押し入れの天井から梯子が降りて来た。凄い、隠し部屋みたーい! 部屋の鍵を掛けた鶴ちゃんは私の手を取ってこう告げた。
「ついて来て」
「は〜い」
何だかこの村に来てから、意識がクリアになって、何も疑問に思わなくなったんだ。ほんわかしていて凄くいい気持ちの中、天井裏のような部屋へ案内された私。そこには幾つかのモニターとパソコン、端末らしきものが並んでいた。
「これは志麻ちゃんを買収して取り寄せた外部との接触手段。いい、この部屋の事は誰にも言っては駄目。うちとあなただけの秘密。秘密、好きでしょう?」
「え、あ……秘密……ヒミツ! だーぁいすき♡」
鶴ちゃんとのヒミツってだけで気分が高揚して来るのが分かる。パソコンの上に置かれた室内アンテナは宇宙の衛星へと直接繋がっており、外とのネット接続が可能なんだって。鶴ちゃん凄いな、そんな事も出来るなんて。
「でも、うちはあなたへあのメッセージを送ってはいない。唯一の友達を巻き込みたくはなかったから……」
「巻き込む? とんでもない、私は嬉しいよぉ〜鶴ちゃんに逢えて?」
「あなたは一時的に土地神であるアヤシロ様の呪縛へ取り込まれている状態。早い段階で強制的に引き剥がさなければ……あなたはきっと上役達の欲望の捌け口とされてしまう」
「ん? 何の事?」
「リノアちゃんは知らなくていい。今から言うことは、うちの部屋を出たら忘れる。いいわね?」
パン、と鶴ちゃんが手を叩くと急に瞼が重たくなって……。
「……はい、わかりました」
「今晩一時、自室の窓から屋根をつたい、温泉側の廊下へ出なさい。温泉の裏手でうちは待ってます。向かう先は村の祠、あなたは納屋の鍬で祠を壊す、いいわね?」
「はい、わかりました」
「呪縛さえ解けばあなたは元に戻る筈。もう、アヤシロ様の祟が村へ襲おうが関係ない。次の犠牲者が出る前に。あなたが上役の子を宿してしまっては戻れなくなる。うちとあなたでこの忌まわしき因習を終わらせる、いいわね」
「……いんしゅう? わかりました」
パン! と手を叩く音に、私は我に返る。あれ? 今、私は何を?
「リノアちゃん、ごめんね。巻き込んでしまって。でもうちを心配して来てくれた事、感謝します。ありがとう……本当にありがとう」
「え? 鶴ちゃん? え?」
鶴ちゃんに不意に抱き締められ、困惑する私だったが、彼女は泣いているようで。私はそのまま彼女の背中へと腕を回した。
やがて、そっと身体を離した鶴ちゃんは、私の目を見てこう言った。
「もし、上役の誰かに夜一緒に過ごすよう誘われたら、頭痛いとか理由をつけて断りなさい。あなたは丁重に扱えとゆき婆ちゃんへ言われてる筈。上役も無理矢理は出来ないだろうから」
「出来ないって……何の話?」
「リノアちゃんは知らなくていいの。あんまりご飯食べないでね。特にあのジュースは駄目。分かった?」
「え、うん。分かった」
鶴ちゃんとの再会の歓びを堪能した私は愉悦に満ちた表情のまま、私の部屋へと戻る。メイドさんに案内された露天風呂はとーーっても広くて凄く気持ちよかった。男性と女性のお風呂の間は高い竹の仕切りで仕切られていて、一人で暖かいお湯を堪能した私。そいえば何か仕切りの一部に穴が空いてる箇所あったので、今度未知子さんへ言っておこう。
村の上役の人達と一緒に今日も晩御飯を食べたけど、何故か昨日出されたフルーツジュースが血の色に見えちゃって、それだけは飲めなかった。上役の人に一緒に月を観に行かないか? って誘われたけど、気分が悪かったので今日はお部屋で休むようにした。優しいゆき婆ちゃんは『まだまだ時間はある。ゆっくり休ませておやり』と私の体調を気遣ってくれた。
★
静寂の中……外で虫の声が鳴いている。眠っていた筈の私は、何故か虫のさざめきに目を覚ました。どうしてだろう。外の風に当たりたくなって徐に部屋の窓を開けた。何かに導かれるようにして窓から屋根の上へ降りて、そのまま露天風呂のある場所へと飛び降りる。
露天風呂を覆う壁
この日は満月。月灯りを頼りに森を抜けた先は、以前、郵便屋さんの志麻さんと通り過ぎた、鳥居があった階段の丁度中腹あたりだった。残りの階段を上り終えると、両端の灯篭へ火が灯っており、その先に小さな祠があった。えっと、確か、土地神様であるアヤシロ様を祀っているんだって誰かが説明してくれたような……。未知子さんだっけ?
「綺麗な祠……」
「そうね。では、リノアちゃん。ホコラヲコワシナサイ!」
「はい……分かりました」
私が祠へ向けて鍬を振り上げたその時だった。
「させんぞ! 茉莉乃よ、目を覚ませ!」
「え? ん? あれ? 私……どうして……あ、ゆき婆ちゃん」
階段を上り終えた場所にゆき婆ちゃんが立っており、何やら大幣らしきものを手に持っていた。私の視界を遮るようにして両手を広げたのは鶴ちゃんだ。
「悪しき因習の根源、
「儂を誰じゃと思っておる。志麻を手懐けたつもりだったんじゃろうが、奴は儂には逆らえん」
ゆき婆ちゃんが大幣を振った瞬間、激しい風が巻き起こり、森の木々が揺れた。しかし、鶴ちゃんが数珠を持った手を月へ向けて掲げた瞬間、風は私たちを吹き飛ばす事無く渦を成して上空へと舞い上がる。
「リノア! 早く! うちとあなたの秘密、忘れたの? ホコラヲコワセ」
「え? 秘密……ヒミツの約束♡鶴ちゃん……好き♡ ワタシハ、ホコラを……コワス!」
「やめろぉおおおおおお!」
ゆきお婆ちゃんの叫声を合図に、私は思い切り鍬を振り下ろす。木製の祠が崩れる。何度も何度も鍬を振り下ろし、祠は原型を保つことが出来ず、崩れていく……。そして、祠のあった場所で何か、渦巻くどす黒い空気が蠢いたかと思うと、私の口から汚泥のような何かが飛び出し、宙に浮かぶ〝蠢く闇〟と混ざり合った。そして、私はだんだんと意識がはっきりして来て……。
「え? あれ? 私……何をやってるの?」
「やったわ……これで忌まわしき因習の歴史は終焉を迎える」
「あれ? 鶴ちゃん、私……何してたんだっけ?」
「あなたのお陰よ、リノア……いや、茉莉乃ちゃん。ありが……」
鶴ちゃんがお礼らしき言葉を言おうとしていた矢先だった。私の眼前にあったどす黒い何かが空中で蠢き、鶴ちゃんの身体へ吸い込まれていったんだ。
「かはっ! そんな……」
「え? 鶴ちゃん……鶴ちゃん! 大丈夫!?」
一瞬カクンと首を擡げた鶴ちゃんだったが、やがてゆっくりと顔を上げた。そして、ミルク色の頬を黄昏色に染め、恍惚そうな表情で確かに私へこう言った。
『嗚呼……逢いたかったわ。わたしよ、ひかり』
「え?」