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第5話 雫石ひかり

 私の名前を鶴ちゃん……の姿をした何かが呼んだ瞬間、彼女を覆っていた仄暗く黒い怨念のようなものが一瞬だけ和らいだ気がした。


「ひかり……誰?」

「そうよね、思い出せないわよね。わたしがそうしたんだから」


 ひかりと名乗った鶴ちゃんの掌が私の頬を撫でる。怨念のような悍ましさはそこにはない。しかし、壊れた祠の後からは未だ黒胡麻のような無数の粒子が渦巻いている。気を抜くと意識ごと持っていかれそうな重たい空気に私は唇を噛み締める。


「あゝ、アヤシロ様ぁあああ! 怒りを! 怒りをお鎮めくだされぇえええ、かしさしななな、かしさしななな、可視沙鎮那那那かしさしなななぁあああ!」


 石畳の上へ大幣を落とし、膝から崩れ落ちていたゆき婆ちゃんは、両手を擦り合わせたまま激しく身体を揺らしていた。


 何やらまじないの呪文のようなものを唱えていたゆき婆ちゃんだったが、鶴ちゃんひかりさん?がゆき婆ちゃんを一蹴する。


「感動の再会を邪魔しないでくれる?」

「はっ! アヤシロ様では……ないのか?」


「ふふふ、わたしはアヤシロ様よ? アヤシロ様の依代となった魂――雫石ひかり……と名乗れば分かるかしら?」

「なっ! まさか! 禁忌を冒したお主は贄となった筈……」

「神を前に、言葉遣いには気をつけてね?」

「ぎぃやぁが」


 ゆき婆ちゃんの身体が階段横の灯籠まで吹き飛ばされ、灯籠が折れてしまう。折れた灯籠から火が漏れ、小枝に移る火がパチパチ音を立てた。


「あなたは……雫石……志麻さんの……」

「そう。雫石志麻はわたしの母。何も覚えてないのね。じゃあ、わたしが思い出させてあげる」


 私の頬に触れたまま、鶴ちゃんの額が私の額へ重なる。刹那、辺りは真っ白な世界に包まれ、今まで見ていた景色が変化していった。



「今日から叔父さんの家で、お世話になるのよ」

「よう来たな。茉莉乃ちゃん大きくなったのぅ」

「……よろしくお願いします」


 お母さんの服の裾を掴んだまま、当時、小学校一年生だった私は遠縁の叔父さんへ挨拶した。


 この頃、父の借金と暴力から逃げるようにして離婚した私の母――加藤真里香かとうまりかは、遠縁の親戚が暮らすという那由多村へ逃げて来ていた。


 スーパーもコンビニもない、何もない田舎の村。元々住んでいた場所も地方だったけれど、此処まで何もない場所は初めてで驚いたのを憶えている。


 今思うと電車を何本も乗り継いで、一体どうやって此処へ来たのかも分からなかった。


 その日、遠縁の叔父さんが村自慢の豪華な食事を出してくれたけれど、父親の暴力によるトラウマと長距離移動の疲れからか、その日はそのまま眠ってしまったんだ。


 雫石ひかり、ひかりちゃんとの出逢いは、この翌日だった。最初は恥ずかしかった私だったけど、叔父さんの隣の家に住んでいたひかりちゃんとは同じ歳という事もあり意気投合した。


 そして、その数日後から……お母さんが可笑しくなった。いつもはしない派手な化粧に若い頃に着ていたというドレスのような胸元の開いた服を着て、何だか蕩けたような表情で、お母さんは私にこう言った。


「茉莉乃、今日からひかりちゃんと学校へ行くのよ? お母さんは、村の村長さんの所へお引越しの挨拶に行くから、今日帰りは遅くなるわ。ご飯、適当に食べててね」

「え? えっと……うん」


 玄関のチャイムが鳴って、ひかりちゃんが迎えに来る。一緒に学校へ登校している時に、ひかりちゃんは私に話してくれた。


「茉莉乃ちゃんもしかして。初めてここに来た日。ご飯食べなかった?」

「え? どうして知ってるの?」


「そう……。茉莉乃ちゃん、今ならまだ帰れる。茉莉乃ちゃんは此処に居てはだめ!」


 小学校一年生とは思えないはっきりとした口調に私は子供ながらに驚いた。


 学校へ通うようになってから、この村がおかしい……という事実が、少しずつ私の脳裏に過るようになっていた。


 お母さんはどんどんおかしくなっていく。


 時々同級生が減っていく。同級生がにえ? のおやくめをはたしたって先生が言うとみんな拍手をしていた。笑顔で拍手をしないと先生に怪しまれるからって、私とひかりちゃんも真似をした。


 じゃあ、私はなぜおかしくならなかったのか? 母がかいごう? へ行ったその日。ひかりちゃんはわたしへこう尋ねた。


「茉莉乃ちゃん、何か思い出のもの、持ってない?」

「うーん……なんだろう。あ、これかな」


 私は首に掛けていたお守りとストラップを取り出し、ひかりちゃんへ見せた。


 亡くなったお婆ちゃんに貰った肌見放さず持っていたお守りとストラップ。ストラップは人参のよく分からないキャラクターのもので、どちらも危険なモノから護ってくれると言っていた。


「現世と魂を繋ぎ止めるものがあれば、幽世へ呑み込まれない。だから洗礼の儀式も回避した。あなたは還らなければならない。ついて来て!」

「え?」


 背中にランドセルを背負ったまま私達は学校から外れた神社のような場所へ向かう。そこはアヤシロ様という土地神様を祀った祠だった。


「わたしにはアヤシロ様とお話出来る不思議な力が昔からあったの。そして、過去の継ぐ子の意思を継いでいる。あなたはまだ此処へ来るべきじゃない。だからアヤシロ様へ還してもらう」 

「でも、お母さんは?」


「残念ながらあの人は無理。もう村の子の魂を宿してしまっている」

「そんな……いやだよ! お母さんと離れたくない!」


 涙目で反発する私の髪を優しく撫でるひかりちゃん。


「だいじょうぶ、あなたは強い子だから。此処へ来た記憶は恐らく失われるから」


 私へそう告げたひかりちゃんは、儀礼のようなものを始める。そして、両手を叩いた瞬間、祠の前に白い光の渦が顕現した。


「お別れね、茉莉乃ちゃん。少しの間だけど、楽しかったよ」

「いやだよ……せっかく友達になれたのに」

「だいじょうぶよ。魂は輪廻の理によって巡る。いつか時を超えて会える日を楽しみにしてる」

「じゃ……じゃあ! これをあげる! お守り!」


 人参の小さなキャラクターのストラップをひかりちゃんへ渡す。気づけば白い光の渦は、私を包みこんでいた。


「じゃあね、茉莉乃ちゃん」

「いつか……またあえるよね?」

「うん、勿論!」


 白い光の渦が大きくなり、私の意識は光と共に消失した。



 その後、別の親戚の叔父さん叔母さんに育てられた私。お母さんは父からの暴力により死んでしまったと記憶していた。


 でも、違った。

 那由多村から生還した時に、記憶は書き換えられていたんだ。


 双眸ひとみを開ける。 


 鶴ちゃん姿のひかりちゃん。今はひかりちゃんの顔が、魂が薄っすら鶴ちゃんの中に宿っているのが視えた。そのまま私は鶴ちゃん……ひかりちゃんと抱き合った。


「ひかりちゃん、今全てを思い出したよ!」

「茉莉乃ちゃん、逢いたかった」


 再会を喜んだのは一瞬。


 激しい轟音と共に、森はいつの間にか炎に包まれ、祠の後から立ち昇った怨念の塊がどす黒い靄となり、巨大な祠の形となって私達の眼前に立ちはだかっていた。



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