「ん……眩し……」
こしこしと瞼をこすり、視界がクリアになってから体の状態を確かめる。
初めに、
「異世界転生……したんだな……」
こうして無事でいることが、自身に起きたことを遅まきに実感させていく。
あれは本物の女神で、俺は本当に……一度死んだのか。
◇◆◇
それは降りしきる雨の日だった。
湿気が気持ちまで重くするような昼下がりに事件は起こった。
勤務先のクリニックで、患者のカルテを確認していた時のことだ。
何やら受付のロビーが騒がしかったので、俺は先月新しく事務に入ったばかりの山田さんに何事かと状況を尋ねた。
「あ、黒井先生、よかった。あの男性が突然やって来て、『黒井はどこだ』って」
俺の名前は黒井竜司。臨床心理士になって二年目の社会人だ。
ちなみに独身。彼女の
俺の患者か?
いや、それにしては物騒だし、男の顔にも見覚えがない。
とりあえず、他の患者に迷惑だし、話を聞いて落ち着いてもらうことにした。
「すみません、お探しの黒井は私ですが、院内ではお静かに——」
「テメェが黒
こんな感じで、隠し持っていた包丁でいきなり刺された。
は? だった。
自分の名誉のために言っておくが、「まさか、あの時の女とのことか?」なんて記憶にかすりもしなかった。
俺はこの歳まで確固たる意志の下に純潔を守り抜いてきた、山形県の名産である佐藤錦もかくやの瑞々しいサクランボなので、男の言っていることは事実無根だと胸を張って断言できる。
そして念を押すが、俺の名前は黒
薄れゆく意識の中で、もしかして……と推測する。
察するにだけど、山田さん。
✕黒井はどこだ
〇黒岩どこだ
なんじゃないかな?
ウチの看護師に、黒岩っていう名前の、たいそう女癖の悪い奴がいるんだけど、男が探していたのはそいつだったのでは?
嘆いても、自慢のシックスパックからドクドク流れ出る血は止まってくれない。
こんな感じで、人生を振り返る暇もなく、俺は若くして命を落とした。
……はずなんだが。
次に目蓋を持ち上げると、トイレットペーパーみたいなひらひらの羽衣を身体に巻きつけただけで、ほぼ全裸の痴女が目の前にいた。
痴女は自分を女神だと名乗り、ここは生と死の狭間だと言った。
続けて、人違いで殺されちゃうとか、死に方があまりにもアレすぎでしたので、特例措置として異世界に転生させてあげましょう。みたいなことを言われた。
『名前って大事ですよねー。間違える方も、間違えられる方も超気まずいですし。あなたは間違えないように《■■■■■■の■■が■■■加護》をつけますねー。じゃ、忙しいんで、もう異世界に送っちゃいますねー』
ねー。とやたら甲高い声は覚えているが、まだ頭にモヤがかかっているせいか、肝心なところを思い出せない。
ともあれこういう経緯があり、俺は異世界の地にて、人生の再出発を切ることになったのだ。
◇◆◇
服装は、なんの柄もない無地の布服に、クッション性皆無の平べったい革靴。
前の世界なら、千円札一枚でももっとマシな物を揃えられそうな安っぽさだが、裸で放り出されることに比べれば神対応だと思える。
視線の高さは変わっていない。
次いで、両手を表にしたり裏返したりしてみるが……うん、見慣れた俺の手だ。親や友人よりも長い時間を共に過ごしてきた相棒なんだから、間違いない。
念のため鏡を見ておきたいところではあるけど、おそらく外見は生前のままだ。
転生というか、ほぼ転移だな。
本当に……。
異世界に来てしまったのか……。
「……すぅ~…………はぁ~……」
このひと呼吸に、前の世界での未練やらを全部乗せて吐き出す。
過ぎたことを、あれこれ悩んでも仕方ない。
生き直せる機会をもらっただけ、儲けものと前向きに考えよう。
まずは、そうだな。
せっかく新たな門出に立ったからには、目標を決めなければなるまい。
我ながら、生き急ぎすぎだと思わなくもないが、人生何が起こるかわからない。
ほんとに……。
なので、俺という人生のストーリーラインは、常に明確にしておく必要がある。
自分が何をしたいのか。
何のために生きるのか。
行き当たりばったりで話を進めていては、そのうち迷走してしまうからな。
俺がこの世界でやりたいこと。
今みたいに、なんのしがらみもなく、人間関係も真っ
仲間を集めてドキドキわくわく大冒険?
違う。
女奴隷を買い漁って甘いハーレム生活?
違う。
俺は探したい。
たったひとりの、自分のすべてを捧げられるような、運命の女性との出会いを。
運命の出会いなんて言うと、友人連中からはよくメルヘン童貞と揶揄されたが、メルヘンの何が悪い? 赤い糸を探して何が悪い?
前世ではついぞ巡り合えなかったけど、この異世界で、今度こそ!
と、人生目標を掲げたとろで、改めて大きく深呼吸をする。
木々が放出するフィトンチッドの香りを肺いっぱいに吸い込み、その清々しさを堪能した。都会住まいでは味わえない新鮮な空気だ。
「…………森だな」
葉の隙間からハラハラと陽光が零れ落ちてくる光景は幻想的だと言えるけれど、右を見ても左を見ても下を見ても人工物らしきものは皆無で、茶色と緑色しかない自然に囲まれている。まごうことなく森の中だ。
上空では「ゲゴァ! ゲゴォア!」と、カラスとヒキガエルを合体させたような野太い怪鳥の声が轟いており、得体の知れない不安を煽ってくる。
なあ、女神様よ。まさかとは思うが……。
この森、人が一切足を踏み入れない樹海とかじゃないだろうな?
というか、人間はいるんだろうな?
「ここがどういう世界観なのかくらいは説明しておいてくれよ……」
既に遭難していると言えなくもないけれど、闇雲に散策して無駄に体力を削ってしまうのは得策じゃない。だからと言って、方角を調べたところで地図が無ければ意味がない。
「どうしたもんか」
スタートから躓き途方に暮れていると、すぐ近くの茂みがガサガサと揺れた。
風……じゃない。何かいる。
葉の動きからして、かなり大きな生き物だ。
現地の人間ならとりあえずウェルカムだが、野生動物ということもあり得る。
警戒と期待が半々に入り混じった気持ちで、俺は第一声に交わす挨拶に備えた。
「……FUGO?」
人間が日常生活を送る中でまず発音しそうにないイントネーションと共に茂みを掻き分けて現れたのは……豚だった。
ただし、全身が緑色。二足歩行。力士体型の身長2メートルオーバー。
そして、うっかり足に落とせば人の骨くらい簡単にポキりそうな、でかい手斧を握りしめている。
「あー……そういう世界観?」
ちょっと個性的な豚さん顔の第一村人発見……と考えるのは無理があるな。
顔立ちや体型、肌の色もそうだけど、目が……。
あれが通常なのか? 薬をキメすぎたみたく虚ろというか、感情を読み取れない深い黒目。見た目の印象だけで、あの人には近づいちゃいけません、と親が子供に言い聞かせたとしても頷ける怖さがある。
オーク……だな。へえ、そう、いるんだ。
ゴブリンと並び、ファンタジーに必ずと言っていいほど登場するモンスター。
気性は往々にして獰猛。人間とは狩りつ狩られつの関係にある。
というのが創作では一般的だが、はたして。
道具を手にしていることや、風呂上がりのバスタオルのように腰蓑を巻いた恰好からして、ある程度の知能の高さはうかがえる。言葉が通じるかはわからないが、ボディーランゲージを交えてこちらに敵意がないことをわかってもらおう。
「あー。こんにちは。この近くにお住いの方ですか? 実は迷ってしまいまして。人里までの道をお尋ねした……いや、あの……」
問答無用らしい。
錆と刃こぼれで切れ味なんてものは失われ、もはや鈍器と化していそうな手斧が高々と持ち上げられた。
どれだけ友好的に捉えようとしても「ヤッホーはじめまして、迷っちゃった? それは大変だね。道案内してあげるよ」と言っているようには見えない。
どころか、舌なめずりをした口から漏れ出る臭そうな息は荒く、涎もだらだら。俺の頭でスイカ割りヒャッハーする気満々ではなかろうか。
「BUOOOOOO!!」
「うぉわっ!」
会話もままならず振り下ろされる一撃。
なりふり構わず横っ飛びし、すんでのところで脳天唐竹割りを回避した。
「……マジか」
無様に地面を転がりながら、地中に深々とめり込む斧を見て背筋が凍る。
膂力という点において、生物としてのスペックが人間と桁違いだ。
これと戦う?
幕下が……いや、序の口が横綱に挑むよりも無謀だろう。
だが、諦めたらそこで人生終了というこの状況。
頼れるのは己の身ひとつのみ。
「……だったら、出すしかないな。俺の本気を」
俺は今まで、本気というものを出したことがない。
なまじ優秀で通り、少し頑張るだけで人より大抵のことができたから。
「う、おおおおおおおおおおっ!」
「BUFUUN!?」
そんな俺が、前生今生、合わせて初めて本気を出す。
「おまわりさああああああん!! 助けておまわりさああああああああん!!」
脱兎のごとく。
俺は180度方向転換してオークに無防備な背を向け、声帯が千切れんばかりに叫びながら全速力で走り出した。本気も本気の敵前逃亡だ。
おまわりさんじゃなくていい。腕の立つ善良な人間様はいらっしゃいませんか。俺の声が聞こえるなら、出世払いで必ずお礼しますので助けてください。
「FUGO……NGOOO!!」
振り返る暇はないが、獲物が逃げるのを察したオークが追走を開始したようだ。
幸い、鬱蒼とした木々が障害物になってくれている。逃げるだけなら、小回りの利く俺に分があるはず。
「BUGOOOOOOOOOOOOO!!」
なんてのは、蜂蜜をたっぷりかけたフレンチトーストばりに甘い考えだった。
むちゃくちゃ追いついてきてる。
待って待ってホント待って、ウッソだろ。その巨体で速いの? そんなのもう、武器も扱えちゃう賢いホッキョクグマでしょうが。反則でしょうが。
スピードとパワーに物言わせ、行く手を阻む障害をブルドーザーのように砕き、掘り起こし、薙ぎ倒しながらみるみる距離を詰めてくる。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいホントマジで今度こそクソやばい。
通り魔とはワケが違う。
来るとわかっていても避けようのない絶対的な死が、すぐ後ろに迫っている。
「ハッ、ハッ、誰か……誰、かッ」
とてつもないプレッシャーも手伝って、あっという間に息が上がる。
それでも、擦れて声にならない声で助けを求め続けた。
異世界転生して5分で死亡とか、冗談キツいにも程がある。
でも、もう……ダメか……ッ。
「——伏せろッ!」
諦めが頭をよぎったその時、ピシャリと烈しい声が正面からぶつけられた。
声の主は俺の進路を真っ直ぐ逆走してくる。
逆光になっていてほとんど輪郭しかわからないが、全身を板金で覆ったプレートアーマーを身に着けているようだ。
……騎士?
俺は無我夢中で、騎士の股をくぐるようにして頭から倒れ込んだ。
騎士は俺の体を、鎧の重さを感じさせない軽やかな跳躍で飛び越える。
その手には、飾り気の無い抜身のロングソードが握られていた。
直後、後ろで「BUMO……!!」とオークがくぐもった声を短く発した。
何が起こったのかと背後を確認するより早く、それは腹這いになった俺の眼前に落ちてきた。一度だけ地面を跳ね、近くの木の根元までゴロゴロと転がっていく。
オークの生首でしうおぉほぉぉ!!
心臓がヒュッとした。
うつ伏せのまま、おそるおそる振り返ると、頭を綺麗に失ったオークの首から、プッシャアァァと噴き出る血のシャワーを、背を向けた騎士が全身で浴びていた。
おぉう……生々しい。
一拍遅れて、絶命していることに気づいたオークの巨躯が前のめりに、ズシンと地響きを立てて倒れた。もはやピクリとも動かない。
助かった……。
夢に出てきてもおかしくない壮絶な光景だが、助けられたのは間違いない。
絶体絶命のピンチに駆けつけてくれたこの騎士は、まさしくヒーローだ。
「危ないところだったな。怪我は無いか?」
しかも優しい。
ロングソードを地面に向けてひと振りし、血を落としてから鞘に納めた騎士は、鎧だけでなくフルフェイスのヘルムを被っているようで声が籠っている。
何はともあれ、俺は騎士の背に向かって礼を言おうと口を開いた。
「あり……」
が、そこで言葉に詰まる。
騎士が残心を解いて向き直ったことで、俺は正面からその雄姿を視界に収めた。
そしたら安堵とか感謝とか、全部吹っ飛んでしまった。
それくらい、ヘルムのデザインが怖すぎた。
悪い子はいねぇが~。とか言って凄んできても違和感がない。
どう見ても、教会でお布施しないと脱げない類いのアレだ。
「どうした? 私の顔に何かついているか?」
返り血ならたっぷり。
それと……。
「…………ライナ……レオブランカ?」
「ん? 私を知っているのか?」
知っているというか。
騎士の頭上に、半透明のでっかいネームプレートが浮かんでいるのだ。
そこに今読み上げた、本人のものらしい名前が書かれている。
「いや、頭の上に」
「??」
なまはげ、もとい騎士が首を傾げた。
「まあ、私はこのヘルムのせいで、町ではそれなりに有名か」
あ、よかった。
そのセンスが、この世界のスタンダードだったらどうしようかと思った。
「そんなことより、お前は誰だ? 名を名乗れ。この森で何をしている?」
俺にしか視えていない?
…………あ。
思い出した。
『あなたは間違えないように
確か、女神はそう言ったんだ。
あと、名前以外にも、もうひとつオマケが視えている。
ライナ・レオブランカ(
「オイ、黙っていてはわからないだろう。なんとか言ったらどうだ」
相変わらず声が籠っているから男の声と言われても疑わないし。
半トンはありそうなオークの太い首を一太刀で落としちゃうし。
血濡れのトッピングも相まって呪いのヘルム感がものすごいし。
それでも、この加護の力を信じるなら。
俺を助けてくれたのは、どうやらヒーローではなく、ヒロインだったらしい。