彼女との暮らしは、一言で言えば最高だった。
スズラさんから何故、この家にいるのかと尋ねられた俺は「じいちゃんの家の片付けをしている」と伝える。するとスズラさんは「でしたら私が家事をいたしますね」と提案してくれた。
最初は断った。だって、色々大変だったんだから、ゆっくりしてて良いって言ったんだ。
けど、スズラさんは太陽のように微笑んで、「真守さんもお疲れでしょうから、私に任せていただけませんか?」と言ってくれて、その提案を受け入れたんだが……。
それが正解だった。
だって、スズラさんの料理は、作るもの全てが美味しくてさ。俺の母さんよりも……いや、下手したらそこら辺にあるレストランよりも美味い。
本当に天は二物も、三物も……いや、俺と比べるのは良そう。
しかもリクエストにも答えてくれるんだ。
最初は和食レストランのような定食で目を見張り……。食べてみると、おいしくてさ。思わず「美味い!」って叫んで、何杯もご飯をお代わりしてたら、「リクエストはありますか?」って聞いてくれて。
楽なものを――って考えて、家から持ってきた「素麺」を思い出して伝えたんだけどさ。そしたら、天麩羅まで作ってくれて。俺は幸せ者だと思ったね。
それが数日続いて、ふと思ったんだ。
「そういえばスズラさん。食料は大丈夫?」
中沢さんに野菜とか貰っていたとはいえ……そろそろ食料も尽きる頃じゃないかと思ったんだよ。朝も昼も夜も、結構な量のご飯作ってくれるしさ……。空が心配で尋ねたら、最初はキョトンとした表情で俺を見ていたスズラさん。またその表情が可愛かった――。
「ええ、大丈夫ですよ。食材はまだまだありますので」
と教えてくれたんだよ。
――たださ、ちょっと疑問が湧いたんだ。
数日前に吉江さんから貰った分は、多分使い終わってると思うんだよな。スズラさんがこの家に来てから、吉江さんはこの家に来ていないようだし……彼女はどこから食料を手に入れたのかなって。
その事を聞いてみたら、スズラさんが少し頬を染めたんだ。
「私が外へ行って、貰ってきたのです」
そう言えば、ここ数日、何度か玄関の扉の閉まる音がしたような……あれってスズラさんが扉から出入りする音だったのか!
「いやいやいや、スズラさん! 大丈夫なの?!」
一応彼女は婚家から逃げてきた立場だ。
家に篭っていたら気づかれないだろうけれど……いや、それでも、この場所が本当に安全って保証はないじゃないか!
「ええ、少しの時間ですから大丈夫です。それに……私がここにいる限り、大丈夫です」
自信満々に胸を張ってそう言うスズラさんは、どこか誇らしげで――少し、不思議だった。
俺はその姿を見て呆気に取られた後――ブッと吹き出してしまう。確かになんとなく彼女を見ていると、大丈夫じゃないかって思うんだ。
それに多分だけど、中沢さんのところに食料を取りに行っているんだろうな。今度吉江さんがここにきた時は、幾らかお礼を包んだほうが良いかもしれないなぁ。
「大丈夫なら良いんだけど……もし何かあったら、逃げてよ?」
「ええ、真守さん。そうさせてもらいますね」
スズラさんは首を少し傾げて、クスッと笑う。
最初は緊張して敬語だった俺だったが、今では「スズラさん」、「真守さん」とお互いを呼び、笑い合う仲となっていた。少しずつ深くなっていく関係に俺は毎日ドキドキとしっぱなしだ。
「では、私は料理の続きをしますね」
スズラさんは微笑んでから、僕に背を向けた。その瞬間、彼女のポケットから金色の小さな物が「キーン」と高い音を立てて、床に転がり落ちる。
僕は落ちた
細長い軸に、小さな突起がひとつだけ付いている。――昔のヨーロッパの貴族たちが使っていたようなイメージのある鍵だ。
「あっ」
彼女は慌てて鍵を拾う。とても大切なモノなのだろう。
「スズラさん、それ大切な鍵?」
「ええ……帰るために必要なのです」
それにしては古風な鍵だな、と思うけど……。首を傾げていると、彼女が微笑んで言った。
「これは門を開くための鍵なのです」
「門を開くための鍵かぁ、おっきい門なんだろうなぁ……」
門に鍵がついてるって、凄くないか?
スズラさんの家は豪邸で、入り口の門に鍵が付いてるって事だろ? どんだけ金持ちなんだ……?
「スズラさん、その鍵に描かれている花って何?」
鍵の持ち手部分に描かれている絵――。
なんか祠に咲いていた花と似ているような気がしてさ。まあ、気のせいかもしれないけど……なーんか気になったんだよな。なんでだろう?
「鈴蘭の花の絵です。私の家を象徴する花なのですよ」
そう艶やかに微笑むスズラさん。
スズラって聞いて苗字なのか、名前なのか分からなかったけど、きっと彼女の家の苗字なんだろうな。あれだ、鈴蘭は家紋とか紋章に使われていて、そこからスズラと名付けたとか。
……おいおいおい、そう考えたら結構な大豪邸のお嬢様なんじゃないか、彼女?
そんな彼女と婚姻した男も、相当な――いや、考えるのは止そう。スズラさんが大丈夫です、と言い切ったなら問題ないはずだ。内心焦りを見せていた俺の事を知ってか知らずか、スズラさんは楽しげに話している。
「鈴蘭の花言葉は『再び幸せが訪れる』『純粋』のように、幸福や純潔、美しさを示す言葉が多いそうですよ」
スズラさんにぴったりの言葉だな、と思う。彼女が来てから、俺は毎日満たされた気持ちでいる。まるで俺の元にふらっと訪れた女神――流石に恥ずかしくてそんな言葉は言えないか。
「花が階段みたいに咲いている様子から『妖精の階段』と呼ぶところもあるそうですよ」
「なんだか可愛らしいな」
ああ、やっぱり祠にあった花は鈴蘭だったか。あれも階段のように、段々に咲いていたもんな。
俺はあの花の上を小人が飛んでいく様子を想像して、思わず笑っていた。けれど――。
「『天国の階段』」
「え?」
スズラさんが小さく首を傾げ、澄んだ声で言い直す。
「あ、いえ。鈴蘭の別名で『天国の階段』と呼ぶところもあるようですよ。面白いですよね」
鈴蘭のように可憐な笑顔を見せるスズラさん。
その時、理由もなく背中をひやりと冷たいものが撫でたような……。俺は辛うじて「へえ、面白いな」と返したが――心の中では胸騒ぎを感じていた。