202×年 7月31日――
「お、終わった……」
とうとうこの日が来てしまった。
一番の難所であった本棚の片付けが終わった……あー、ここまで整理できれば大丈夫だろう、多分。
俺は凝り固まった体をほぐすために、両手をあげて背筋を伸ばす。蔵の窓から外を見ると、既に陽が落ちているのか……少しずつ辺りが暗くなっている。
「……言わなきゃいけないんだよな」
まるで俺の心まで闇に染まっていくようだ。
数日前から考えて……いや、考えないようにしてきた事。そう、スズラさんとの別れ――。
「俺個人としては、まだまだここに居たいんだけど……スズラさんの事もあるしな……」
彼女は実家へ戻る途中に、ここを訪ねてきただけ。もう表情も明るいし、すっかり元気そうだ。結局、暴力を振るう夫という奴は、彼女を見つける事ができなかったようだし……スズラさんも一安心だろう……。
――良かったじゃないか、真守。
元々ここは、祖父母の家だし……いつまでもここで暮らす事もできないのだ。俺は大学生で、スズラさんを養っていく力なんてない。
……いや、連絡くらいは取れるんじゃないか? 俺はスズラさんを暴力を振った婚家から匿ったんだもんな。
うん、これでなんとなく希望が見えてきたじゃないか!
繋がっていれば、いつかは一緒になる事ができるはずだ。
そう。何度も、何度も……心に言い聞かせる。
「よし、今日……伝えるぞ」
そう決意したのは、陽が完全に落ち、蔵の窓から月の光が差し込み始めていた頃だった。
母屋に帰ってスズラさんに声をかけると、彼女は俺の元にやってくる。
「お食事ができてますよ、真守さん」
彼女の笑顔の可愛らしさに先程の決意が崩れそうになる――が、言うんだ! と自分に活を入れた。そんな俺の雰囲気を彼女は感じたらしい。
「真守さん? どうしました? あ、もしかしてお風呂は先の方が良かったですか?」
首を傾げる彼女の両肩に、俺は無意識に手を置いた。
……力を入れたら折れてしまいそうだ。そう思ったのと同時に、彼女の肩が小さく跳ねる。
それに気がついた俺は、すぐに両手を離す。
馬鹿だろ、俺! スズラさんは暴力で逃げ出してきたんだぞ! 同じ男が触れたら怖いに決まってるだろ……!
「ご、ごめん……無意識だった……流石に怖かったよね……本当にごめん……」
申し訳なさから、俺は深く頭を下げる。
すると頭の上からかすかに響く優しい声が聞こえた。
「顔を上げてください、真守さん。大丈夫ですよ……真守さんなら、大丈夫です」
俺は恐る恐る彼女の顔を見る。
「本当に?」
「ええ」
その表情はまるで聖母マリア様のような……母性あふれる優しさに包まれていた。
そこから大丈夫そうだ、と判断した俺は謝りながら体を元に戻すと――ぽすっと何かが体にぶつかるような音がした。
温かさを感じた俺が下を見ると……なんとスズラさんが俺の胸に寄りかかってきているではないか!
「スズラさん……」
彼女の体に触れようとした手を、俺は引っ込める。自分が抱きしめて良いか分からなかったからだ。行き場のない手をどうするか考えていた時、下からこぼれるような鈴の音のような声が聞こえてきた。
「ねぇ、真守さん……これからも私と一緒にいて欲しいんです……駄目ですか?」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、宙を彷徨っていた俺の手が、彼女へと伸びた。――抱きしめたくなったのだ。
駄目だ。決意が揺らいでしまう……!
理性と本能が激しくせめぎ合う中、俺は必死に自分を抑え……ゆっくりとその手を下ろした。その手の動きにスズラさんが気づいたようだ。
「真守さん……?」
こちらを不思議そうに見つめる彼女の肩にそっと触れてから、俺は彼女から静かに距離を取った。
「ごめん、俺は一緒にいれないよ」
俺は彼女の目を見る事ができなかった。俺だって一緒に居たい……けど、今のままじゃ駄目なんだ!
「けど、いつか俺が君に相応しくなって迎えにいくか……ら……」
そう言い切って、顔を上げてスズラさんの顔を見た。
花が咲いたように微笑んでいた彼女から――感情がごっそりと消えていた。
目が笑っていない。いや、それどころか……俺を映していたその瞳には、何も映していない。
そして……笑っていたはずの口元は、今はだらりと開き、口の中は真っ暗だった。まるで闇そのものような口から、何かが這い出してきそうで……。
今の彼女は絵画で描かれていたムンクの叫びのような……そんな不気味さを感じた。
「な……な、ん、で……?」
あの可愛らしい鈴のように澄んだ声が、わずかに濁ったような声色になっていく。
「わたし、は、あな、た、と……」
声が震え、言葉が途切れ途切れになって――次の瞬間。
「のやーなややややたやわにややのやーなややややたやわにやや――」
壊れたラジオのように、意味を失った音が、彼女の口からこぼれでる。
繰り返される奇妙な言葉……それが終わる気配はない。次から次へと彼女の口から紡がれる言葉に、俺は背筋が凍っていく。
「うわあああぁぁ!!!」
恐怖に駆られた俺は、靴を履く事も忘れ……勢いよく玄関の扉を開けて飛び出した。