事の始まりは約一ケ月前に遡る。
それは、ある晴れた日のことだった。
頬を撫でる風は生暖かく、夏の到来を示唆している。今年の夏は猛暑を通り越して酷暑になるだろう、と天気予報士がニュース番組の中で言っていたような……だなんて考えながら登る階段は、陸上部で鍛えた健脚とは言え結構苦しくなってしまう。
心拍は早まり、息もあがる。肺に入ってくる風も生ぬるくて、梓は酷暑という予想は当たるだろうと思った。
最上段についた梓は、乱れた呼吸を直しながら生まれ育った街並みを眺める。都心でもない、けれども田舎でもない。中途半端な街だが、梓はその街が好きだった。
女子なのに素手で頬を伝う汗を拭った梓は、セーラー服のポケットからスマートフォンを取り出す。ホーム画面には一つ通知が来ており、相手は高校の友達からだった。
「ユッコからだ。なになに……コンビニで新作のスイーツを見つけたから、部活の帰りに買って帰ろう、か。もちろんオッケーだよ、と」
どうやら買い食いのお誘いのようだ。
梓は慣れた手つきで了承を示すスタンプを送る。
甘い物が好きな梓。友達と買い食いするのが趣味な梓。今日の楽しみが一つ出来たな。そう思ったのだが――。
「ここ、どこ?」
なのに。一体なぜ。
「どうしてこんなところにいるの?」
先ほどの青空から一転。気だるい瞼を持ち上げた梓の視界に飛び込んできたのは、ゴシック調の絢爛豪華な部屋だった。
見知らぬ光景に、梓は独り言を漏らした。その不安に満ちた梓の声が、頼りなく室内に響く。
「っつ……。頭、痛い」
不意に脈打つような頭痛に襲われて顔をしかめる。視界が痛みに呼応して明滅を繰り返した。米神が、おでこが、眉間が。頭のあらゆるところが痛い。
ここまでの頭痛、初めての経験だ。
梓は努めて深呼吸をする。痛みを遠のけることを意識して、ゆっくりと。
すると徐々にだが頭痛が引いていく。といっても完全には消えず、頭痛の
痛みが強かった部分を手でさすれば、手がじっとりと湿る。
(うわー、脂汗出た。なにこの痛み。頭、怪我してるの?)
もしかして外傷による痛みか?、と頭を両手で確認するも、傷跡といった特筆すべき違和感が指先に伝わることはない。どうやら痛みは外傷起因ではなく、血管系が原因のようだ。
梓は次に手を目の前まで持ってくると、グーパーと何度か握ってみた。
(手には異常はないか……)
手に痺れなどはなく、動きもぎこち悪くない。至って普通。
裏、表と確認するが、色等の見た目的な変化もなかった。
(って、え?! 何この服?!)
だが、変わり映えのない手に安堵したのも束の間。手のひらのその先、腕の様子が違っていることに大きく驚く。
なぜか知らない服を着ているのだ。梓は布団をはぎ、慌てて下半身を確認した。やはり下半身も知らない服を着ている。いわゆるワンピースと呼ばれる、白い一枚着。
着て、と
「待って待って。どういうこと?」
ますます状況が掴めなくなった梓は、改めて周囲を確認してみた。
視界を占拠する全てが、漫画などで見る城のような出で立ちだ。しかも日本風の城ではなく、中世ヨーロッパ風の城。
ベッドの天蓋から垂れるゴージャスなカーテン。背丈の二倍はありそうな高さのドアに、花の形の装飾がついた柱や暖炉。それら全てにおいて金がふんだんに用いられており、眩いほどの輝きに目を細めてしまう。
「いった、」
またも頭痛がこめかみ辺りを走り抜け、梓は顔を歪ませる。起き抜けの時ほど巨大な痛みではないが、頭をとっさに抱え込む程度には痛い。
今度もまた呼吸を繰り返し、痛みが引くのを待つ。
(ほんっと、痛い、この頭痛……。頭痛薬欲しいけど、頭痛薬なんて持ち歩いてないよ)
梓の身体は元々頑丈な方だ。頭痛や発熱が起きることは滅多にないので、薬は持ち歩いていない。まぁ、持ち歩いていたとしても知らない服を着ているし、スクールバッグが手元にないから飲みようがないのだが。
(あー、上向いてる方がちょっと楽かも)
呼吸をする際に下を向くよりも上を向いた方が楽なことがわかり、梓は頭を上に向けて動かすと深く息をした。
ズキンズキンと痛みが頭の中で響くのに耐えながら、所狭しと花のレリーフが刻まれている天井を眺める。
(あれ? なんか、この天井に見覚えあるな……)
豪華なベッドにふさわしく、豪華な天井にはなぜか見覚えがあった。
でもやはりここがどこかなのかまではわからない。
「……学校に行く前に裏山のお
痛みがある中、梓は必死に記憶を掘り返す。
朝ごはんの内容。出掛ける前に家族とした会話の中身。友達に送ったスタンプの絵柄。
(そこから先が全く思い出せない――)
しかし、裏山のお
まるで
「とにかく、帰らなきゃ」
梓はベッドから足を下ろす。すると靴下を履いていない足に床の冷たさが伝わった。
部屋全体に絨毯は敷かれておらず、中央に置かれたテーブルの真下に設置されているのみだ。
それ以外は大理石に似た床で、あまりの冷たさから裸足で歩いていい床ではないと理解した。
家を出る時に履いていたローファーはベッドの近くにない。一瞬で冷たくなった足先を手で温めてながら梓は考える。
不安が降り積もる雪みたいに
自分の記憶にはない場所。どうやって来たのか、どうして来たのか。手段も経緯も原因もわからないということが、こんなにも怖いだなんて。
“帰らなきゃ”。
そう口にしたが、帰り道などわかるわけがなかった。