静寂。
それはまるで露天風呂の夜明け前の湯面のように、揺るがず、何者も反射しない黒。
「……湯、ぬるいな」
ジョン田中は、福生の山奥にある廃旅館の露天風呂に足を沈めながら、誰にでもなくそう呟いた。
その背中には湯気。肩にはいつもの温泉タオル。そして、焼き印のように浮かぶ右手のCIAの紋章。
彼の任務はここで終わりだった。
「田中、お前……本当に辞める気か?」
浴槽の外、石の上に腰掛けたまゆらは、一本のポカリスエットを指先で弄びながら言った。
「いや、辞めた。“昨日の18時で”な」
「……まさか、退職代行を使ったの?」
「“最強の退職代行”をな。社長なのに退職したこと知らないのか。」
ジョン田中の顔に、薄く笑みが浮かんだ。
それはこれまで見せたどんな表情よりも、人間らしく――つまり、最もこの男らしくなかった。
「その名は――“しのぶちゃん”」
その日の午後、極道リセット株式会社の事務所に届いた一通の内容証明。
封筒の色はピンク。
開けた瞬間に、ちくわぶの匂いがふわりと香る。
差出人:しのぶちゃん(9)
本文:私、しのぶちゃんは、労働環境とキャッシュフローの非効率性を理由に、本日をもって極道リセット株式会社を退職いたします。
今後の連絡は顧問弁護士“おでん法律事務所”を通じてお願いいたします。
なお、在職中の出資・指示に関する一切の責任は、法的枠組みに則って処理されることを期待しております。
子どもだからってナメんじゃねーぞ(絵文字)
まゆらは思わず書類を握りしめた。
「なんで……あの子が退職代行“使ってくる”のよ……!」
「むしろ、使われたのは俺たちだな」
いつの間にか背後にいたのは、鳥飼 瞬。
元公安にして現・闇ルート退職代行業者。左手の小指がない以外はパーフェクトな男だ。
「鳥飼さん、いつからいたの?」
「お前が“ちくわぶの香り”で30秒フリーズしてる間だ」
「心の準備がいるわよ、あの香りは……」
鳥飼は一歩前に出ると、机の上の書類を見てふっと鼻で笑った。
「……いい辞表だ。9歳でこれを書けるのは、もはや尊敬の域だな。だが――」
「だが?」
「こっちも、黙って辞められて終わりじゃ済まないだろ」
その声には、鋭利な刃のような理性と、微かな怒りが混ざっていた。
その頃、しのぶちゃんは神楽坂のおでん屋にいた。
表向きの顔――おでん屋の看板娘。だが裏では、反社再生プロジェクトの出資元、そして“資本主義の亡霊”。
「しのぶちゃーん、ハンペン追加でいい?」
「会計フローが逼迫してます。三つまでにしてください」
「……小学生、怖っ」
スタッフたちのざわめきをよそに、しのぶちゃんは冷たい眼差しでパソコンの画面を見つめていた。
一言も発さず、ただ人差し指でキーボードを叩く。
「ジョン田中の退職処理、完了っと……ふふ」
その瞬間、彼女の背後のカーテンが風もないのに揺れた。
「しのぶ。お前、逃げられないぞ」
鳥飼瞬の低い声が響く。
「来ると思ってましたよ、元公安。今はただの“代行屋”」
「そっちこそ、ランドセルのくせに国家機密に触れすぎだ」
にらみ合う二人。
片やランドセルに拳銃2丁、片や公安仕込みの反応速度。
数秒の沈黙――そして、鳥飼が一歩前へ。
「まゆらが言ってた。“あんたの本音を知りたい”ってな」
「……私に本音なんて、ありません。あるのは“最適化”だけです」
「じゃあ、なんで泣いてんだ」
その言葉に、しのぶちゃんの瞳が、わずかに揺れた。
「泣いて……ません」
「……ランドセル、濡れてるぞ」
そして、朝。
ジョン田中のゲストハウスが、山梨の片隅にひっそりとオープンした。
『温泉旅館 湯の花 CIA』
――全室露天風呂付き、チェックインの合言葉は「湯加減どう?」
受付には、サングラスの田中。
肩にはタオル、足元はやっぱり下駄。
「……まゆら。お前も、たまには湯に浸かれよ」
彼の言葉は、温泉のようにじんわりと、心に沁みた。