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第32話 「さらば、ジョン田中――そして退職届はランドセルに」

静寂。

それはまるで露天風呂の夜明け前の湯面のように、揺るがず、何者も反射しない黒。


「……湯、ぬるいな」


ジョン田中は、福生の山奥にある廃旅館の露天風呂に足を沈めながら、誰にでもなくそう呟いた。

その背中には湯気。肩にはいつもの温泉タオル。そして、焼き印のように浮かぶ右手のCIAの紋章。

彼の任務はここで終わりだった。


「田中、お前……本当に辞める気か?」


浴槽の外、石の上に腰掛けたまゆらは、一本のポカリスエットを指先で弄びながら言った。


「いや、辞めた。“昨日の18時で”な」


「……まさか、退職代行を使ったの?」


「“最強の退職代行”をな。社長なのに退職したこと知らないのか。」


ジョン田中の顔に、薄く笑みが浮かんだ。

それはこれまで見せたどんな表情よりも、人間らしく――つまり、最もこの男らしくなかった。


「その名は――“しのぶちゃん”」





その日の午後、極道リセット株式会社の事務所に届いた一通の内容証明。


封筒の色はピンク。

開けた瞬間に、ちくわぶの匂いがふわりと香る。


差出人:しのぶちゃん(9)


本文:私、しのぶちゃんは、労働環境とキャッシュフローの非効率性を理由に、本日をもって極道リセット株式会社を退職いたします。

今後の連絡は顧問弁護士“おでん法律事務所”を通じてお願いいたします。

なお、在職中の出資・指示に関する一切の責任は、法的枠組みに則って処理されることを期待しております。

子どもだからってナメんじゃねーぞ(絵文字)

まゆらは思わず書類を握りしめた。


「なんで……あの子が退職代行“使ってくる”のよ……!」


「むしろ、使われたのは俺たちだな」


いつの間にか背後にいたのは、鳥飼 瞬。

元公安にして現・闇ルート退職代行業者。左手の小指がない以外はパーフェクトな男だ。


「鳥飼さん、いつからいたの?」


「お前が“ちくわぶの香り”で30秒フリーズしてる間だ」


「心の準備がいるわよ、あの香りは……」


鳥飼は一歩前に出ると、机の上の書類を見てふっと鼻で笑った。


「……いい辞表だ。9歳でこれを書けるのは、もはや尊敬の域だな。だが――」


「だが?」


「こっちも、黙って辞められて終わりじゃ済まないだろ」


その声には、鋭利な刃のような理性と、微かな怒りが混ざっていた。





その頃、しのぶちゃんは神楽坂のおでん屋にいた。

表向きの顔――おでん屋の看板娘。だが裏では、反社再生プロジェクトの出資元、そして“資本主義の亡霊”。


「しのぶちゃーん、ハンペン追加でいい?」


「会計フローが逼迫してます。三つまでにしてください」


「……小学生、怖っ」


スタッフたちのざわめきをよそに、しのぶちゃんは冷たい眼差しでパソコンの画面を見つめていた。

一言も発さず、ただ人差し指でキーボードを叩く。


「ジョン田中の退職処理、完了っと……ふふ」


その瞬間、彼女の背後のカーテンが風もないのに揺れた。


「しのぶ。お前、逃げられないぞ」


鳥飼瞬の低い声が響く。


「来ると思ってましたよ、元公安。今はただの“代行屋”」


「そっちこそ、ランドセルのくせに国家機密に触れすぎだ」


にらみ合う二人。

片やランドセルに拳銃2丁、片や公安仕込みの反応速度。


数秒の沈黙――そして、鳥飼が一歩前へ。


「まゆらが言ってた。“あんたの本音を知りたい”ってな」


「……私に本音なんて、ありません。あるのは“最適化”だけです」


「じゃあ、なんで泣いてんだ」


その言葉に、しのぶちゃんの瞳が、わずかに揺れた。


「泣いて……ません」


「……ランドセル、濡れてるぞ」




そして、朝。

ジョン田中のゲストハウスが、山梨の片隅にひっそりとオープンした。


『温泉旅館 湯の花 CIA』

――全室露天風呂付き、チェックインの合言葉は「湯加減どう?」


受付には、サングラスの田中。

肩にはタオル、足元はやっぱり下駄。


「……まゆら。お前も、たまには湯に浸かれよ」


彼の言葉は、温泉のようにじんわりと、心に沁みた。

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