大広間に響き渡る弦楽器の調べが、煌びやかな夜会の始まりを告げていた。装飾が施されたシャンデリアが眩い光を放ち、王宮の貴族たちが談笑と優雅なダンスに興じている。リュシェル・エステリアは公爵令嬢として、この夜会で主役ともいえる存在だった。婚約者である第一王子ロイ・グランフォードが彼女と婚約を発表する予定だったからだ。
リュシェルは淡いブルーのドレスに身を包み、エメラルドの瞳を輝かせていた。髪は丁寧に編み込まれ、後ろでふんわりとまとめられている。その姿は、誰もが目を見張る美しさだった。しかし、その胸には緊張と不安が混ざった思いが渦巻いていた。
「リュシェル様、本当にお美しいですね。」
「第一王子にふさわしいのは、やはりあなたです。」
周囲の貴族たちが次々と称賛の言葉を投げかける中、リュシェルはただ微笑みで応じた。心の奥では、その言葉を真正面から受け止める余裕がなかったからだ。婚約発表という人生の一大イベントに期待を寄せつつも、どこか不安な予感が拭えなかった。
その時、背後から声がかかった。
「リュシェル、少しよろしいか。」
振り返ると、そこには婚約者であるロイが立っていた。金色の髪と端正な顔立ち、そして王族らしい堂々とした佇まい。彼の姿を見るだけで、リュシェルの心は少しだけ安堵した。しかし、その瞳にはどこか冷たい光が宿っているように感じられた。
「もちろんです、ロイ様。」
リュシェルは優雅に一礼し、ロイに続いて人々の視線が届かない隅の庭園へと向かった。
「何かご用でしょうか?」
リュシェルは軽やかに問いかけた。しかし、次の瞬間、ロイの口から放たれた言葉は、彼女の予想を遥かに超えるものだった。
「リュシェル、君との婚約を解消させてもらう。」
一瞬、耳を疑った。婚約解消――その言葉が何を意味するのかを理解するまでに、数秒の沈黙が続いた。
「……どういうことでしょうか?」
ようやく声を絞り出したリュシェルの声は震えていた。
ロイは表情を変えず、冷淡に続けた。
「君とは、もう未来を共にすることはできない。新たな伴侶を見つけたからだ。」
リュシェルの頭の中が真っ白になった。新たな伴侶――それが意味するのは、彼に新しい愛が生まれたということ。それも、この舞踏会の場で婚約発表を予定していた彼女を前に、堂々と告げられる言葉として。
「……誰なのですか、その方は?」
かろうじて口を開いたリュシェルは、毅然とした態度を崩さずに問いただした。
すると、ロイは嘲笑とも取れる微笑みを浮かべながら、視線を背後に向けた。
「見ればわかるだろう。」
リュシェルが振り返ると、そこには彼女が知る顔があった。侯爵令嬢エリーナ――社交界では美貌と社交性で知られる女性だった。彼女はロイの腕をしっかりと掴み、自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「リュシェル様、申し訳ありませんわね。でもロイ様が私を選んだのですもの。どうかご理解くださいませ。」
その瞬間、リュシェルの胸に熱い痛みが走った。エリーナのその言葉には、一片の後ろめたさも感じられない。それどころか、勝ち誇った様子すら漂っていた。
「……なるほど。お二人が選んだ道であるならば、私がとやかく言うことではありません。」
リュシェルは深呼吸をし、冷静さを保とうと努めた。しかし、その声の裏には確かに悲しみが滲んでいた。
「それでいい。では、これで僕たちは他人だ。」
ロイは冷たく言い放つと、エリーナと共にその場を去っていった。
リュシェルはただその背中を見つめるしかなかった。足元の石畳がにじむほど、視界がぼやけていることに気付く。涙を堪えながら、彼女は心の中で叫んだ。
「どうして……どうしてこんなことに……!」
その後、リュシェルは舞踏会の場に戻ることができなかった。彼女の婚約解消の噂は瞬く間に広まり、周囲からの冷たい視線が注がれるようになったのだ。