この時のシキの心の中は誰にも読めなかっただろう。いや、読めていたとしても誰もが、助けたはずのカインさえも首を傾げるだけだろう。
それは、シキが冒険者を引退し、冒険者ギルドレイル支部の支部長に就任した数か月前のことであった。
シキは元々【猛攻の魔女】と呼ばれる攻撃魔法の天才的使い手であったのだが、ある事件を切欠に引退することになる。
そして、今までの功績を評価されいきなりの支部長抜擢。元々知識も豊富で頭も良いシキだったので特に仕事自体に問題はなかったが、元々ソロ冒険者であったシキにとって組織の人間関係は煩わしいものでしかなかった。
日々心をすり減らしていく生活の中、シキの心の支えは読書であった。
特に、ロマンス溢れる恋愛小説が大好きで、輸送が強いこの街は多くの書物がやってきて、シキの『この街に就任出来てよかった理由ランキング』の一位を暫く譲ることはなかった。
しかし、そんな『この街に就任出来て良かった理由ランキング』の一位が入れ替わる大事件が起きたのである。
その日、シキは疲れていた。新人が体調を崩し休みを急遽とることになったこと、古代遺跡群の
シキが受付をすることは勿論なかったが、人を回すために四苦八苦した。
やったことのない仕事に不安を漏らす職員を説得し、新人がいきなり休んだのは男に会うためだと文句を言う者を宥め、新発見の魔巣攻略をいち早く行いたい冒険者同士の諍いの間に入り、限界まで心をすり減らしていた。
(何故だ、私はこんなことがしたかったのだろうか)
楽しかった冒険者時代とは全く違う今にシキは絶望していた。
それでも、明日はやってくる。
シキは重い足取りで歩きながら帰路につこうとした。
その時だった。
「あの、おつかれさまです」
振り返ると、冒険者だろうか、黒髪の青年がしどろもどろになりながらこちらに頭を下げている。
「いつもありがとうございます」
そう言って彼は、受付に恐らく依頼達成報告書であろう書類を提出しに向かった。
『おつかれさまです』
『いつもありがとうございます』
シキは彼の背中を見送りながら、その言葉をずっと心の中で繰り返していた。
忘れないように、思い出せるように、何度も何度も。
思えば、ソロ冒険者であったシキは誰かと一緒に
だから、そんな言葉をかけられることがなかったように思う。
そして、冒険者ギルドの支部長になった時も、冒険者としての実績によるギルド長ということもあってあまり良く思われていないだろうと人と関わるのを避けていたところもあり、やはりこういう言葉を業務的にかけられるのみであった。
『おつかれさまです』
『いつもありがとうございます』
違う、違うのだ。
『おつかれさまです』
『いつもありがとうございます』
彼の言葉は違ったのだ。この日、シキの中の『この街に就任出来て良かった理由ランキング』殿堂入り確定の第一位が登場したのである。
「おつかれさま」
「いつもありがとう」
それからは、シキからにこやかに挨拶をするようになり、少しずつ彼女を取り巻く環境は変化していくこととなる。
【猛攻の魔女】が変わった。
ギルドをより良くしていくために自らを変えたのだ。
その美しい話が、ギルドから街へと広がっていった。
しかし、実際は、そうではない。
『もういっそ彼になりたい』
シキが彼の事を思い過ぎてたどり着いた境地である。
だが、彼女の思いとは裏腹に、彼がシキの思いにも気づかないどころか、ギルド職員の『レイル支部人気投票ランキング』で愛想だけは良かった新人受付嬢を蹴散らし一位に輝いたのだった。
そして、そこからギルドの状況もどんどんと改善されていくことになる。
その理由は、シキ自ら挨拶の声を掛けることの他に、シキが朝から晩までギルドで見守り続けることにあった。
シキが来るまでのギルド長はその地位にふんぞり返り、下を見ることがなかった。
しかし、シキは一番早くに来て受付で顔を見せ、一番遅くまで残って見守ってくれた。
【猛攻の魔女】は本気でギルドを変えようとしている。
新しい噂が街中でささやかれるのはあっという間だった。
しかし、実際はそうではない。
『彼に挨拶をしたい』
シキが純粋に願うことはそれであった。
彼は、パーティーの事務を一手に引き受けているらしく依頼引受申請も依頼達成報告書も彼が提出している。しかも、朝早くに申請を提出し、夜遅くに報告書を提出しに来る。
それをただ見守るだけの仕事をしていたのである。
勿論、その為に仕事は全力で終わらせ、時間が余ると暇なので部下の仕事を手伝ったり、冒険者たちから彼の情報を得ようと積極的に話しかけたりした。
それに伴い、『レイル支部冒険者が選ぶ理想の女性ランキング』では思わせぶりな発言で男を惑わす新人受付嬢を圧倒的に引き離して堂々の一位に輝いたのである。
そして、とうとうシキは大改革に臨む。
冒険者ギルドとしては異例の大量の魔導具を仕入れ環境改善に取り組んだのだ。
冒険者ギルドは、荒くれ者の居場所ということで酒場が併設された非常に猥雑な場所であった。しかし、それを良しとせず、魔導具による業務効率化、清潔な環境、受付システムの効率化など様々な改革に取り組んでいくこととなる。また、領主ルマンと協力し、街の改善にも取り組んだ。
【改革の魔女】。シキはそう呼ばれ、レイル支部を冒険者ギルドの見本といえる存在まで高めて見せたのである。
彼女は、世界を変えるつもりだ。
人々はそう声高に叫んだ。
しかし、実際はそうではない。
彼がここに留まる為に、環境を良くし続けたのだ。
彼が魔工技師だと聞けば、魔導具を導入し興味を引こうとし、彼が病気になった冒険者仲間を心配すれば清潔にし、彼が受付でストレスなく行えるようにとシステム効率化に取り組んだ。
そうして、シキはレイルの街女性総選挙で、領主の娘ルゥナを下し、【ミスレイル】の称号を得たのである。余談ではあるが、新人受付嬢は箸にも棒にもひっかからなかったが悪い男にひっかかったらしい。
そんな彼女が漸く本物の彼に会えたのである。
(今日はカイン君に会えたからカイン記念日ね!)
挨拶は今まで交わしていたがしっかり面と向かって会うのはこの時が初めてだった。
実際には、会おうと思えばシキの立場からして会えたのだが、きっかけがないと話しかける勇気が出てこなかった。
そのきっかけが漸く訪れたのである。
(そして! カイン君祭りよおおお! わーっしょいわーっしょい)
気の強さを象徴するかのような少し釣り目気味の赤い目がカインをとらえる。
(なんて、まっすぐな目で、俺を見てくれているんだ!)
(ああ、カイン君! カイン君! その慌ててここまで来た時に付いたであろうその泥をご飯にかけて食べたい!)
シキの見る目は歪んでいた。
「カイン、君……本当にありがとう」
「は、はい、あの、こちらこそ」
(言えた―! 今日はカイン君にお礼を言えた記念日でもあるわ! こちらこそってこちらこそよ!)
シキが雑念まみれのまま手を差し出すと、カインは少し躊躇った後その手を握ろうとしたのだが、あまりの緊張に躓いてしまう。
ぽふっ
シキの胸に飛び込んでしまう。シキは、男性であれば、つい目が引かれてしまうくらい豊満な体型をした女性であった。しかし、流石は元有名冒険者、しまるところは締まっており、その妖艶な身体だけでもミスレイルの可能性もあったくらいである。
そんな彼女の柔らかさを感じ、カインは滝のような汗を流しながら謝罪した。
「す、す、すみません! あ、あの……ギルド長?」
「……」
(大! カイン君の匂いがした感謝祭開催中ぅううううう!)
真っ赤になるカインと、大カイン君の匂いがした感謝祭を心の中で開催するシキとの間で微妙な空気が流れると、そこにひんやりと冷気が吹き込んでくる。
「カインさん……女性は胸ではありませんよ」
シアが氷の微笑を浮かべている。背後には吹雪が見えるよう、否、吹雪を起こしていた。
「やめろ、白いの。寒いんだよ。それよりカインさん、まだ此処に居ていいのか。宿に戻らないといけねえんだろ?」
「あ! そ、そうだった! シア、グレンまた後で酒場で落ち合おう! ギルド長、ギルド長? 支部長? あの、シキ支部長?」
シキはすっとカインの脇をすり抜けていく。
(ふんがふんがよい匂い!!! というか! 名前呼ばれましたけど! 名前呼ばれ記念日ですけど!)
シキは足を止め、背中越しにカインに言葉をかける。
「カイン君、君のランクも昇級を考えている。また、落ち着いた時でいい。私を訪ねてくれ。そして、今後も期待している」
(あんなことこんなこと、きゃっきゃうふふな展開をねええええ!)
「は、はい! ありがとうございます!」
(いやもうほんと、こちらこそありがとうございます! あの時も、そして、今回最初から私に迷惑かけ続けたあのバカ新人を徹底的に葬り去れたことも! ざまぁ!)
カインはそんなシキの心の声、そして、ギルド支部長をあの時助けたことにも、ギルド支部長の念願であった問題新人受付嬢を地の底に落としたことにも気づくことなくシキとの初対面を終えるのであった。
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「贅肉が……」
宿の一室で、彼女は呟いていた。
あのくらい必要だったか……。
彼女は自分の身体を見て舌打ちをした。無表情なままでの舌打ちには何とも言えぬ迫力があったが、今彼女の周りには誰もいない。聞こえるのは、〈盗聴〉の魔導具から聞こえる彼女の主が駆けている足音だけである。
外見は不本意だが『あの女』を参考にした。本当に愛し合っていたかは疑問ではあったが、カインは心から愛していた様子である以上、好みであることは間違いないだろうと考えたからだ。
顔は、カインが思春期に入り始めた頃、大事そうにこそこそ読んでいた物語に登場するヒロインの挿絵を参考にした。そして、髪色と目の色だけはやはり自分を感じてほしくて、元の色を使った。
胸はもう少し盛るべきだったのか……。
カインの慌てぶりを聞いて、シキの身体が途轍もなく羨ましくなった。
自分もあんな風にカイン様の心を動かせたなら。
何故、私は! この程度のサイズで満足してしまったのか!
彼女は自分のデータが間違っていたのではないかと唇を噛み、深い思考の海に落ちていった。しかし、その時間も終わりを告げる。先ほどの足音が魔導具ではない方から、廊下から聞こえてきたのだ。そして、足音が止み扉が開かれる。
「ただい……」
「もっと大きい方が良かったですか!?」
相変わらず無表情ながら力強く問いかける彼女を見て、カインは少しの間逡巡し、彼女をちらりと見つめ、意を決したように口を開いた。
「何が!?」