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第3話「ビョーキ」

 ◆


 春斗の通報を止めようとする者は誰もいなかった。


 いや、止められなかった。


 常識を超えた行動に、全員が硬直していたのだ。


「お、おい坂登! 切れ! 今すぐ切れ!」


 担任が慌てて春斗に近づく。


 しかし春斗は教師から離れながら通話を続けた。


「はい、県立東雲高校です。2年B組の教室で……はい、坂登春斗です。同級生の山田という生徒に殴られました」


 山田の顔が真っ青になる。


 取り巻きたちも逃げるように教室を出ていった。


「ちょっと待て! 坂登!」


 担任が春斗の肩を掴もうとする。


 春斗はその手を振り払った。


「先生! 僕に触らないでください! 今警察と話してるんです!」


 その剣幕に、担任も手を引っ込める。


 春斗は淡々と状況を説明し続けた。


 住所、被害の詳細、怪我の有無。


 機械的に、しかし正確に。


 通話を終えた春斗は、呆然とする教室を見回した。


「警察は10分以内に来るそうです」


 その一言で、教室は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


 ◆


 結果的に警察は本当に来た。


 制服姿の警官二人が教室に入ってきた時の衝撃は凄まじかった。


 春斗は冷静に事情を説明した。


 転校していきなり山田に絡まれていたこと。


 今日、理由もなく暴力を振るわれたこと。


 録音も提出した。


 山田は事情聴取のため、警官と共に教室を出ていった。


 その後ろ姿は、朝の威圧的な態度とは打って変わって小さく見えた。


 騒動が一段落した後、春斗は保健室で簡単な手当てを受けた。


 頬は少し腫れていたが、大した怪我ではない。


 しかし春斗は大げさに痛がった。


 診断書のためだ。


「坂登……」


 保健室で、担任が困った顔で春斗を見ていた。


「なんで警察なんか呼んだんだ? まず学校で話し合えば──」


「話し合い?」


 春斗は鼻で笑った。


「山田があんな風にでかい面してるのは先生が何も言わないからじゃないんですか」


「それは……」


「先生は僕らを守ってくれないと思った。だから僕は自分で自分を守っただけです」


 担任は何も言い返せなかった。


 担任はこれまで自分が事なかれ主義を貫いていた事を自覚していたからだ。


 その日、春斗は早退した。


 病院で診断書を取るためだ。


 翌日から山田は学校に来なくなった。


 ◆


 それから一週間。


 春斗の学校生活は劇的に変わった。


 誰も春斗に近づかない。


 話しかけない。


 目も合わせない。


 まるで春斗という人間が存在しないかのように振る舞う。


『警察を呼んだ奴』というレッテルは、不良よりもタチが悪い存在として春斗を位置づけた。


 触れたら何をされるか分からない爆弾。


 それがクラスメイトから見た春斗だった。


 しかし春斗は平然としていた。


 むしろ清々しいくらいだった。


 無理に話しかけられることもない。


 グループ活動で気を遣う必要もない。


 ただ淡々と授業を受け、勉強をする。


 それだけの日々。


 ──これでいい。これが俺には合ってる


 昼休みは中庭のベンチが定位置になった。


 4月も終わりに近づき、桜は散って新緑が芽吹いている。


 暖かい陽射しの下、一人で食べる購買のパンも悪くない。


 そんなある日の昼休み。


「あの……」


 控えめな声に振り返ると、クラスメイトの女子が立っていた。


 確か佐伯美香。


 あの騒動の時「やめなよ」と声を上げた女子だ。


 地味な印象で、いつも一人でいることが多い。


「なに?」


 美香は少し躊躇いながらも言葉を続けた。


「この前のこと……すごいと思って」


「すごい?」


 春斗は眉をひそめる。


 皮肉か? それとも本気か? 


「山田君に立ち向かったこと」


 どうやら本気らしい。


 春斗は苦笑した。


「立ち向かった? ちょっと違うけど」


 そして思い出したように付け加えた。


「ああそうだ、止めようとしてくれてありがとう」


「え……?」


 美香は意外そうな顔をする。


「あ、えっと……ごめんね、その、山田君に何か言われてるときに、その、言えなくて」


「別にいいよ」


 春斗の淡々とした返事に、美香は少し安心したような表情を見せた。


 そして、ずっと聞きたかったことを口にする。


「坂登君は……怖くなかったの?」


「怖い? なんで?」


「え、でも、やり返されたりとか……」


 美香の素朴な疑問に、春斗は少し考えた。


 そして、いつもの皮肉ではなく、珍しく本音を漏らした。


「俺、ちょっとおかしいからさ」


 美香は黙って聞いている。


「ああいう奴が怖いって気持ち、わかるんだけどさ。殴られるのは俺も嫌だし」


 春斗は中庭の新緑を見上げながら続けた。


「でも頭おかしくなっちゃうんだよな。なんで従って当然、流されて当然って空気に従わなきゃいけないの? って」


 握りしめた拳が小さく震える。


「我慢できないんだよ。普通はもっとこう、保身ってわけじゃないけどさ、後先考えるわけじゃん」


 自嘲的な笑みを浮かべる。


「無理なんだよ俺。カーッてなっちゃう。ガキなんだよ……」


 春斗の自嘲めいた言葉に、美香は何か言いたそうにしていた。


 そして──


「そんな事ないよ!」


 思わず大きな声が出してしまう美香。


 春斗は驚いて美香を見る。


 自分の声の大きさに気づいた美香は、顔を真っ赤にして俯いた。


 そして蚊の鳴くような声で呟く。


「勇気、あるとおもうけど……」


 言い終わるや否や、美香は逃げるように走り去っていった。


 春斗は呆然とその後ろ姿を見送る。


 ──勇気? 俺のあれが? ただの病的な逆張りが? 


 春のそよ風が頬を撫でていく。


 山田に殴られた痕はもうほとんど消えていた。


 春斗は一人、ベンチに座ったまま考え込んだ。


 生まれて初めて、自分の行動を「勇気」と言ってくれた人がいた。


 それが妙に、胸の奥でくすぐったい。

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