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梅雨入り前の蒸し暑い日。
2年B組に新たな変化が訪れていた。
山田グループの消滅により、クラス内のパワーバランスが変わったのだ。
そして、その空白を埋めるように台頭してきたのが、野々山絵梨香を中心とする女子グループだった。
絵梨香の父親は地元でも有名な会社の社長。
その威光を背景に、彼女は次第にクラスの女子たちを支配下に置いていった。
「ねえ、聞いた? 今度の小テストのこと」
昼休み、絵梨香は取り巻きの女子たちに囲まれながら、わざとらしく大きな声で話していた。
「また数学でしょ? もう最悪。勉強なんてしたくなーい」
「分かるー!」
「私も無理ー!」
取り巻きたちが同調する。
彼女たちの『勉強しない自慢』は、既にクラスの日常風景となっていた。
そんな中、美香は黙々と問題集を解いていた。
春斗は自分の席から、その様子を観察していた。
美香の真面目さはこのクラスでは異質だ。
そして異質なものはいずれ標的になる。
──案の定か
その予感は、数日後に現実となった。
小テストの結果が返却された日。
美香の答案用紙には、赤い丸で囲まれた「100点」の文字があった。
「へえ、すごいじゃん」
絵梨香が美香の席に近づいてきた。
その声には、明らかに棘が含まれている。
「満点なんて、よっぽど必死に勉強したんだね」
「そ、そんなことは……」
美香は困惑しながら否定する。
だが絵梨香は構わず続けた。
「でもさあ、ガリ勉って正直ダサくない? もっと青春楽しもうよ」
周囲の女子たちがクスクスと笑う。
美香の顔が赤くなった。
この日から、美香への『無視』が始まった。
最初は些細なことだった。
挨拶を無視される。
グループワークで仲間外れにされる。
だが日を追うごとに、それはエスカレートしていった。
美香の机に消しゴムのカスが撒かれている。
体育の着替えの時、わざと場所を空けない。
購買に行く時、列に割り込まれる。
全て、絵梨香の無言の指示によるものだった。
春斗は全てを見ていた。
そして──
春斗は自身の内に、ぶおん、ぶおん、ぶおんという音をきく。
逆張りエンジンがうなりをあげている音だ。
美香へのいじめが始まって一週間。
状況は悪化の一途を辿っていた。
クラスの女子全員が美香を無視し、男子たちも巻き込まれないよう距離を置く。
美香は完全に孤立していた。
昼休み、美香は一人で屋上への階段に座っていた。
教室にいるのが辛いのだろう。
その姿を見つけた春斗は、迷わず近づいた。
「ここ、座ってもいい?」
美香は驚いて顔を上げた。
涙の跡が頬に残っている。
「坂登君……でも、私に関わると……」
「関わると何? 俺も無視される?」
春斗は美香の隣に腰を下ろした。
「別に構わないよ。元々、俺は無視されてるようなもんだし」
「でも……」
「それより、なんで言い返さないの?」
春斗の問いに、美香は俯いた。
「そんなの……できないよ」
「なんでさ。テストで満点取れる頭があるのに?」
「それとこれとは……」
「まあ別にいいけどね」
春斗は続ける。
「佐伯さんがその方がいいなら別に俺が何か言う権利はないし」
美香は春斗を見つめた。
「私も……今のままは嫌だけど、でも、どうすれば……」
「それは君が自分で考えなよ、俺は自分がしたいことをするだけだから」
その言葉と共に、春斗は立ち上がった。
教室に戻った春斗は皆を見回し、内心でぺっと唾を吐く。
やがて昼休みが終わる前になって美香が戻って来ると、絵梨香のグループは露骨にクスクス笑いをして美香を馬鹿にする。
「ねえ見た? 階段で一人ぼっちでお弁当食べてたんだって」
「かわいそー」
「友達いないんだもんね」
甲高い嘲笑が教室に響く。
それを聞いた春斗は、脳のどこかにある逆張りエンジンがギュイイイイイイインと回転数を高めていくのを自覚した。
おもむろに立ち上がって窓を全開にする。
6月の蒸し暑い風が教室に流れ込む。
「おい、何してんだよ」
男子生徒の一人が文句を言う。
春斗は振り返ると、大声で言った。
「あ〜!! シケた空気だなぁ!」
教室中がざわつく。
春斗は構わず続けた。
「自分よりテストの成績がいい奴を妬んでいじめとかしてそうなカスの匂いがするぜぇ〜!!」
「はあ!?」
絵梨香が立ち上がった。
顔を真っ赤にして春斗を睨む。
「何それ、私たちのこと言ってるの?」
「え? 誰か心当たりでもあるの?」
春斗はとぼけた顔で首を傾げた。
この時、春斗はもう何も考えていない。
ただクラスの同調圧力みたいなものがキモくてキモくて吐き出したい思いでいっぱいだった。
自分の言動がどんなトラブルを招き寄せるかなども全く考えていない。
美香のために何かする、というようなことも一切考えていない。
"この空気"を作り出している絵梨香が気に食わなくて仕方なかった。
「……っ!」
絵梨香は言葉に詰まった。
教室は異様な緊張感に包まれていた。
そんな中、春斗は美香の席に近づくと、わざとらしく親しげに話しかけた。
「なあこの後一緒に図書室行かない? 数学教えてもらいたいんだ。俺に数学の極意を伝授してくれよ、俺は92点だからあいつらよりよっぽど点数が高いけどさあ、あいつらと違って向上心ってものがあるからさぁ〜」
ねっとりした言い様に、絵梨香は春斗を睨みつける。
しかし春斗は全く動じない。
美香は戸惑いながらも、小さく頷いた。
◆
放課後の図書室。
春斗と美香は窓際の席に向かい合って座っていた。
6月の西日が斜めに差し込んでくる。
「あの……本当に数学教えてほしいの?」
美香が恐る恐る尋ねた。
春斗は肩をすくめる。
「別に。ただ絵梨香の顔が見たくなかっただけ」
正直な答えに、美香は苦笑した。
「坂登君って……本当に変わってるね」
「今更?」
二人の間に沈黙が流れる。
図書室特有の静寂と古い紙の匂いが漂っていた。
「でも……ありがとう」
美香の小さな呟きに、春斗は眉をひそめた。
「何が?」
「私のこと、気にかけてくれて」
「気にかけてない」
即座に否定する春斗。
だが美香は微笑んだ。
「そうやって言うけど、でも助けてくれたじゃない」
「助けてない。ただ絵梨香がムカついただけ」
春斗の素っ気ない返事に、美香はくすりと笑った。
その笑顔を見て、春斗は妙な感覚に襲われる。
胸の奥がもぞもぞと疼くような。
──なんだこれ
その感情の名前を春斗はまだ知らない。