◆
翌朝の教室は昨日とは明らかに違う空気が漂っていた。
春斗は相変わらず一番乗りで登校し、窓際の席で参考書を開いている。
美香もいつも通り早めに登校してきた。
「おはよう!」
春斗がやたらでかい声で挨拶をする。
なぜなら美香が無視されているからだ。
他の生徒が美香を無視しているところに、ドカンと一発挨拶する──このムーブに、春斗は自分でも快感を覚えている。
そこには美香に対する思いというようなものはなく、ただただクラスの空気に反骨することへの快感しかなかった。
ただ──
──なんで俺はこんな事に気持ちよくなっちまうんだろう
そんな思いもないではないのだが。
美香は一瞬驚いたような顔をしたが、小さく微笑んだ。
「おはよう」
その光景を見た数人の生徒が顔を見合わせる。
絵梨香グループが登校してきた時、教室の空気は一気に張り詰めた。
「……」
絵梨香は春斗と美香を一瞥すると、露骨に顔をしかめた。
「ねえ聞いた? 昨日あの二人、図書室にいたんだって」
取り巻きの一人がわざと大きな声で言う。
「へー、お似合いじゃない? 変人同士」
甲高い笑い声が響く。
春斗は参考書から顔を上げると、教室全体に聞こえる声で言った。
「あー静かだなー! まるで葬式みたいだ!」
突然の大声に、クラス中がびくりとする。
「あ、そうか! 集団で一人を無視するのに忙しいんだっけ? ご苦労様でーす! 葬式っぽい空気なのは、君らの良心が死んでるからか!」
春斗の皮肉たっぷりの言葉に、絵梨香の顔が赤くなる。
「うざ……」
小声で呟く絵梨香。
だが春斗の耳は良い。
「うざい? それは光栄だなあ」
春斗は立ち上がり、絵梨香の方を向いた。
「真実を指摘されるとうざいと感じる。つまり図星ってことだよね?」
「違う! 私たちは別に──」
「別に何? 佐伯さんを無視してない?」
春斗は首を傾げる。
「じゃあ今から話しかけてみてよ」
絵梨香は口を閉ざした。
罠にはまったことに気づいたのだ。
黙り込む絵梨香を春斗はねっとりした視線を注ぐ。
──朝からごちそうさまでした
気分はそんな思いでいっぱいであった。
◆
休み時間になると、春斗は堂々と美香の隣の席に座った。
「ここの公式なんだけど──」
数学の教科書を広げる春斗。
美香は戸惑いながらも説明を始めた。
「ああ、これは基本的に……」
二人の会話は、静まり返った教室に響く。
他の生徒たちは居心地悪そうに視線を逸らしていた。
そんな中、窓際の席にいた男子生徒──田中が呟く。
「……なんか、バカらしくね?」
小さな声だったが、周囲の生徒には聞こえた。
「確かに……」
別の男子が同調する。
「テストで良い点取っただけで無視とか……」
「中学生じゃあるまいし」
ヒソヒソと囁き合う声が増えていく。
絵梨香は焦りを感じ始めていた。
自分がコントロールしていたはずのクラスの空気が、揺らぎ始めている。
「ちょっと、何よあんたたち」
絵梨香が声を荒げる。
だが一度緩み始めた空気は止まらない。
昼休み。
春斗は購買でパンを買って戻ってきた。
教室に入ると、予想外の光景が広がっていた。
三人の女子生徒が美香の席を囲んでいる。
「佐伯さん、ごめんね。私たちも……」
一人が申し訳なさそうに言う。
「その、絵梨香に逆らえなくて」
美香は驚きと共に、目に涙を浮かべた。
「ううん、いいの。話しかけてくれてありがとう」
春斗はその様子を遠くから複雑そうな顔で眺めている。
茶々をいれるべきか、反骨するべきか。
そんな事をまじめに考え──
──はあ、なんで俺はこんなくだらないことを真面目に……。やっぱり病気だな、心の……
そうは思うが辞められない。
自分という人間のしょうもなさに心底ウンザリしながら自分の席に戻ろうとした時、田中が近づいてきた。
「なあ、坂登」
春斗は足を止める。
「悪かったな、最近無視してて」
田中は頭を掻きながら言った。
「俺も山田のこととかあって、ビビってたんだ」
「別に」
春斗は素っ気なく答える。
「でもさ、お前見てて思ったんだ」
田中は続けた。
「空気読まないのも、たまには必要かもしれないって」
その言葉に、春斗は少し驚いた。
田中がそんな事を言った事よりも、田中の言葉が不快ではなかった自分の心境に驚いたのである。
そして午後の授業中。
絵梨香は苛立ちを隠せずにいた。
取り巻きの女子たちも、どこか距離を置いているような気がする。
休み時間になると、さらに数人が美香に話しかけた。
「ねえ、今度の小テスト一緒に勉強しない?」
「私も数学苦手だから教えてほしい」
美香を中心に小さな輪ができ始めている。
絵梨香は歯噛みした。
──なんでこんなことに……
全ては春斗のせいだ。
あいつが余計なことを言わなければ。
だが絵梨香も気づいていた。
自分のやり方がもう通用しないことに。
放課後。
教室に残っていた春斗のところに、意外な人物がやってきた。
絵梨香だった。
「……あんた、何が目的なの?」
春斗は顔を上げる。
「目的?」
「佐伯さんの味方のフリして、何か企んでるんでしょ」
絵梨香の疑いの眼差しに、春斗は鼻で笑った。
「別に何も企んでないよ」
「じゃあなんで──」
「単純に君がムカついただけ」
春斗はあっけらかんと言った。
「自分より成績いい奴を妬んでいじめるとか、ダサすぎて見てられなかった」
絵梨香の顔が真っ赤になる。
「私は妬んでなんか──」
「じゃあなんでいじめたの?」
春斗の問いに絵梨香は答えられなかった。
「まあいいや。好きにすれば?」
春斗は立ち上がり、教室を出ていこうとする。
「でも一つ言っとくけど」
ドアの前で振り返った。
「俺は君たちと違って、空気なんか読まないから」
その言葉を残して、春斗は教室を後にした。
夕暮れの廊下を歩きながら、春斗は考えていた。
美香の周りに人が集まり始めたこと。
絵梨香の影響力が弱まったこと。
全て予想通りだ。
しかし何もかも全くさっぱりわからないモノがある。
それは──
──なにがしたいんだろうなあ俺は
自分の気持ちである。
ひとたびカチンと来たならば、もう我慢していられない自分の性格。
勢い任せで突っかかりまくるチクチクマインド。
もう完全に制御不能であった。