薄曇りの朝。淡い陽光が貴族の邸宅をやわらかく包み込んでいる。花々が咲き乱れる庭園の片隅で、アメリア・フォンダーヌはそっと瞳を閉じた。
「今日も……平穏でありますように」
彼女の声は小さく、ほとんど風に溶けてしまいそうだった。けれどその瞳は、ほんの少しだけ潤んでいるのを誰も気づかなかった。公爵令嬢としての誇り。病気を隠し、最後まで弱さを見せぬ覚悟。誰も知らない秘密を抱えて、アメリアは今日も元気なふりをしていた。
「アメリア様、おはようございます」
執事のフィリップが優しく声をかける。彼の顔にはいつも通りの穏やかな笑みが浮かんでいたが、アメリアは知っている。彼もまた、彼女の秘密を知る数少ない一人であることを。
「おはよう、フィリップ。今日もお庭が綺麗ね」
淡い微笑みを返すと、アメリアはゆっくりと歩き出した。長いドレスの裾をふわりと揺らしながら、彼女の心はどこかざわついていた。なぜなら――今日は、あの男が訪ねてくる日だから。
「公爵令嬢アメリア・フォンダーヌ様の異国の遠い親戚」と名乗る青年が、初めてこの屋敷を訪れたのは、ちょうど数日前のことだった。
リュカ・ヴァレンティーノ。黒髪に瞳は柔らかな茶色。少し幼さが残るその笑顔は、どこか純粋で、不器用な印象を与えた。彼は裕福な家系の血筋であると信じ込ませるため、簡単な嘘を重ねていた。
「初めまして、アメリア様」
リュカは緊張しながらも、紳士らしい態度で挨拶をした。彼にとって、この訪問は初めての大きな「仕事」だった。
しかしアメリアは、彼の嘘を一瞬で見抜いた。声の震え、目線の泳ぎ、小さな仕草の不自然さ。詐欺師としての初歩的なミスも、彼が経験不足であることも、すべて丸わかりだった。
それでも、彼女は面白かった。
そして、そんな彼を「かわいい」と思い、一目惚れしたのだ。
「異国の遠い親戚」だなんて――嘘くさいけれど、彼の不器用な嘘がどこか憎めず、心の奥でそっと応援したくなる。彼が持つどこか儚い雰囲気に、アメリアは静かな興味を抱いた。
「ようこそ、ヴァレンティーノ家のリュカ様」
華やかな晩餐会の席で、アメリアは彼に微笑みかけた。嘘の香りに満ちたその招待を、彼女は心から楽しんでいるように振る舞った。
「リュカ様、貴方は本当に……異国から来たのですか?」
アメリアの問いに、リュカは少し戸惑いながらも答える。
「はい、そうです。遠い親戚の話は本当で、いつかお会いできる日を心待ちにしていました」
嘘と真実の境目で揺れる彼の言葉。アメリアはその曖昧さを楽しむかのように、にっこりと微笑んだ。
「それなら良かった。お互いのことを少しずつ知っていきましょう」
彼女の声は甘く、優しかった。けれど、その瞳は冷静にリュカを見つめていた。
「私は貴方のことを全部知っているわ」
その言葉を心の中で繰り返しながら、アメリアはもう一度深呼吸した。彼に騙されたふりをして、この瞬間を楽しみたい――そんな思いが胸に満ちていた。
夜。アメリアの部屋の窓から見える星空は、いつもより少しだけ輝いて見えた。
「リュカ……」
彼の名前を口にするたびに、胸の奥が甘く締め付けられるようだった。短い命の中で、初めて誰かを本気で愛してしまった――それが嬉しくて、怖かった。
彼がまだ自分に気づいていないこと。詐欺師である彼が無垢な笑顔を向けてくれること。
すべてが、奇跡のように思えた。
「どうか、私の嘘に気づかないで」
アメリアはそう願いながら、ゆっくりと目を閉じた。愛と嘘が交錯する甘く切ない恋の始まりを、静かに心に刻みつけて。
この物語は、彼女が本当の愛を知るための、小さな嘘から始まった――。