朝の光が再びアメリアの部屋を優しく包んでいた。窓辺に座る彼女の手には、開いたばかりの本があった。けれど、ページはまったく頭に入っていない。視線は遠く、庭園の緑をぼんやりと見つめていた。
「どうして、こんなに胸がざわつくのかしら」
そう呟きながらも、アメリアはゆっくりと微笑んだ。昨日の夜のリュカの言葉や笑顔が、鮮やかに心に焼きついている。彼は確かに詐欺師だ。けれど、どこか純粋で、不器用で。そんな彼に、どうしようもなく惹かれてしまったのだ。
リュカ・ヴァレンティーノは、公爵家の遠い親戚という肩書きを手に、この館に足を踏み入れてから数日が経っていた。
彼の本当の心は複雑だった。
「どうして、俺はこんな嘘をついているんだろう」
見栄を張り、家柄を偽り、家族の期待と自身の欲望の間で揺れる日々。それでも、彼はあの公爵令嬢の前では嘘をつくのが怖くなっていた。なぜなら、彼女の瞳が何かを見透かしているように感じるからだ。
「まるで、俺のすべてを知っているみたいに……」
しかし、リュカは気づいていない。アメリアが彼の嘘を見抜きながらも、わざと騙されたふりをしていることを。
「リュカ様、少しお散歩をしませんか?」
その日、アメリアはそう誘った。普段なら多忙な彼も、戸惑いながらも微笑んで頷いた。
邸宅の庭園は、春の花が色鮮やかに咲き誇っていた。優しい風が頬を撫で、鳥のさえずりが二人の会話に柔らかなBGMを添える。
「異国の話を、もっと聞かせてください」
アメリアの声は穏やかで、彼女の瞳は好奇心に満ちている。リュカは少し照れながらも、故郷の小さな港町の話を始めた。海の香り、夕暮れの空、幼い頃の思い出。
「そんな場所があるなんて……素敵ね」
アメリアはまるで夢を見ているかのように目を輝かせた。彼女の元気な笑顔の裏には、決して語られない秘密があることをリュカはまだ知らない。
歩きながら、アメリアはふと立ち止まった。大きな桜の木の下で、彼女はぽつりと言った。
「リュカ様、私はこの家に生まれて良かったと思う」
「どうしてですか?」
「だって、ここには――あなたがいるから」
その言葉にリュカは驚き、言葉を失った。彼女の笑顔は真っ直ぐで、嘘のかけらもないように見えた。
「アメリア様……」
彼は何度も呼びかけたくなった。けれど、その先の言葉が見つからない。
その夜、アメリアは一人、暖炉の前で静かに座っていた。柔らかな火の光が、彼女の白い肌を暖かく照らす。
「どうして、私の心はこんなに乱れるの?」
彼女は自問し、そして優しく微笑んだ。
「リュカ様のことを知れば知るほど、もっと近くにいたいと思う。けれど、彼には決して知られてはいけないことがある」
それは、彼女の病気のこと。国家の秘密として隠された病魔。誰にも言えない、彼女だけの孤独な戦い。
「私が元気でいられるのは、せいぜいあと少し……」
そんな事実を胸に秘め、アメリアは明日も元気なふりを続ける。
翌日、リュカはアメリアにある贈り物を手渡した。
「遠い国の小さな土産です。気に入ってもらえたら嬉しい」
箱の中には、小さな手編みのマフラーがあった。粗削りだが、真心がこもっていることは明らかだった。
「ありがとう、リュカ様。とても嬉しいわ」
アメリアはそれを首に巻き、微笑んだ。その笑顔は、どんな高価な宝石よりも輝いていた。
「こんなにも優しい人が、この世にいるなんて」
彼女の胸は甘く締めつけられ、目頭が熱くなるのを感じた。
リュカは気づいていなかった。彼女が自分の嘘を見抜きながらも、わざと受け入れていることに。
彼の不器用な嘘は、彼女の優しい嘘に包まれ、ゆっくりとほどけていく。
「これが、初めての本当の恋なのかもしれない」
そう呟きながら、リュカはアメリアの笑顔を見つめた。
物語は、まだほんの始まりにすぎない。
優しい嘘と秘密の間で揺れる二人の心は、やがて運命の糸でゆっくりと結ばれていく――。