あぜ道の先には川があって、橋が架かっている。
その橋のそばには上半身がサルじみていて下半身が魚の不気味なお地蔵様があり、その周りを数人の老人が囲んでいた。
「人魚様人魚様人魚様……若さを健康をお願いします……お願いします……」
彼らは熱心に呟いて、両手を合わせて拝んでいる。
拝み終わると傍らの桶を持って川に入り、水を掬って頭からバシャッ! と被り出した。
「お水をありがとうございます……」
「お水をありがとうございます……」
「お水をありがとうございます……」
バシャッ! バシャッ! バシャ……!
彼らはまるで水が好きで好きでたまらないと言うような恍惚とした満面の笑顔で水浴びを続ける。
この村に引っ越してから幾度か出くわしている光景だが、気味が悪くて苦手だった。
私は遭遇した時は避けるか、足早に通り過ぎることにしている。
緊張する私の手をちーちゃんが握った。
「気にしなくていいよ。前にも言ったでしょ? この村の人達は人魚様の出汁が入った水を飲んでるから若いんだって。それに、人魚様を拝んで水浴びをするのは若返るための儀式だって。それだけだよ」
「うん……言ってたもんね」
習慣や風習とはそういうものなのだろう。
でも、この村の水辺の近くには上半身がサルじみていて下半身が魚のお地蔵様が無数に存在している。
拝み、水辺で水浴びをする村人の姿は嫌でも目に入る。
気にしないというのは難しい話だった。
私は橋を越えて水浴びの音がしなくなるまで歩いて、思い切って口を開く。
「ねえ、ちーちゃん……」
――この村の人達は昔本当に人魚を食べたの?
馬鹿らしい質問なのはわかっている。
だけど、妙に若々しい老人たちに、人魚のお地蔵様、それを敬い水浴びをする人々……。
本当に食べてしまっている方が納得できる気がした。
納得できれば早く村になじめる気がする。
「あ! そういえば一つだけ案内してない場所があったよさやちん!!」
ちーちゃんが唐突に振り返った。
「え? あ、そ、そうなんだ?」
質問を遮られてきょどる私。
ちーちゃんは悩ましそうに眉根を寄せた。
「あ、でも今から間に合うかな……うーん、でもでも早くさやちんには村のこと好きになってもらいたいし……よし、行こ!!」
悩むのは一瞬だった。
私の手首を掴んだ笑顔全開のちーちゃんは前置き無しの全力ダッシュ!
「え、ええ、ちょっとちーちゃん、えぇええええええ!?」
200段を数えたあたりで数えるのをやめた。
長い長い石段を登ること約15分。
陽ざしが夕方の柔らかさになった頃に、やっと登頂した。
「お疲れ様~、到着だよさやちん!」
「はぁ、はぁ……やっと終わった……」
「そして、まず案内したかったのはこっちの景色! はい、後ろ振り返ってみて!!」
ちーちゃんが夕陽の方を指さす。
「……後ろ?」
言われるがまま今しがた登ってきた階段の方に振り返る。
すると、夕陽に照らされて浮き上がる鮫神村全体の風景が見渡せた。
家々には日差しと影がまだらにかかり、きらきらと夕陽を反射するのは川や用水路だろうか?
幻想的という言葉を使いたくなる景色だった。
「すごい……」
「でしょ? ここ私のお気に入りなんだ~」
夕方の風を浴びてにまっと笑うちーちゃん。
確かに、これは15分石段を登る価値がある。
だが……。
「えっと……これで終わりって訳じゃないんでしょちーちゃん?」
私は遠慮気味に尋ねる。
だって、階段を登り切った時、目の前には赤い鳥居があったから。
この先に神社でもあるのだろうか?
「もっちろん! もひとつあるよ。はい、今度はこちらをご覧くださ~い!」
そう言いながら私の手を引っ張て鳥居をくぐるちーちゃん。
鬱蒼とした木々のトンネルを抜け石畳を歩いていく。
その先に。
「……なに、ここ」
石畳の道の先にあったのは神社ではなかった。
山をくりぬいて作ったような大きな湖と湖を祀っているような木の祠があった。
湖の半分ほどが夕陽に照らされて、もう半分には山の影が落ちている。
湖面は風に揺れることもなく、ただ静かに凪いでいた。
神聖で厳かな雰囲気に私は背筋がピンと張り詰める。
「そんな緊張しなくても大丈夫だって。すごいでしょ、ここ。人魚様の湖って言うんだよ?」
人魚様の湖……?
「……じゃあ、ここの水って」
確認するように見上げるとちーちゃんは笑った。
「そ。この湖の水が村に流れてるお水だよん」
「…………」
私はおそるおそる水辺へと近づいていく。
流石に湖の中心の方は見えないが、綺麗で透き通っていて透明度の高いお水がちゃぷちゃぷと揺れている。
すくって匂いを嗅いでみるが、変な匂いもしない。
(……普通の水だ。笑顔になる成分とか入ってたりするのかな?)
脳裏に浮かぶのは満面の笑みで水浴びをする老人たちの姿。
私の表情から何かを察したのか、ちーちゃんが口を開いた。
「鮫神村の村人は人魚の肉を食べて不老になったってばかばかしい昔話は知ってるよね?」
「え、あ、うん……」
何を隠そう、亡くなった祖父が鮫神村出身で私は小さい頃よく聞かされていた。
私がこの村に移住することになったのは母が父と離婚したからだ。
「その人魚の骨がこの湖に撒かれているっていう話は聞いたことある?」
すくっていた水をばしゃりとこぼしてしまう私。
「人魚の骨……?」
次の瞬間にはちーちゃんが鼻と鼻がぶつかりそうな距離にいた。
「……ね? 出汁とかでてそうでしょ?」
私は驚きのあまり声も出せずに固まる。
そんな私の反応に、ちーちゃんが「ぷっ」と吹き出した。
「あははは! さやちんビビりすぎ! どう、驚いた? 私こわかったっしょ?」
ちーちゃんのいつもの調子と笑い声に、ようやく金縛りが解けて後ずさる。
「も、もう! いきなりそういうことするのやめて――きゃっ!?」
後ずさった拍子に私は何かに足を引っかけた。それは湖を祀る木の祠の土台部分だった。
バランスを崩した私は、手近なモノに掴もうと手を伸ばす。
運の悪いことに、木の祠の屋根の木組みを掴んでしまったようだ。
バキッ! バラバラ……!!
私が砂利の上に尻餅をつくのと、祠が半壊するのは同時だった。
「えっと……この祠ってなに? もしかして文化財とか、かな??」
「……うーん、わからない。けど、壊したらまずいんじゃね? 弁償……?」
ちーちゃんの現実的な「弁償」という言葉に血の気が引いていくのを感じる。
「ど、どど、どうしようちーちゃん!? うちそんなに裕福じゃないのに!」
動転した私の叫び声に、湖畔の木々からカラスがバササ!と飛び立った。
ちーちゃんも唖然だ。
「ど、どーしようって……。ま、まあ半分は脅かした私のせいだから折半ってことで……あ、そだ! 私のお爺ちゃん大工さんだし、直せるかも! ギャル風に相談してみよ! うえーい!」
「そこは普通に相談して!」
「そんな怒らなくてもいいじゃん……」
しかしちーちゃんはお爺ちゃんのスマホの番号を知らなかった。