湿地に入る手前で馬車を停め、イドラたち四人はぬかるんだ地を踏んだ。
地面の柔らかい湿地にそのまま入ってしまうと、馬の蹄も馬車の車輪も沈んでしまう。よってここからは徒歩で向かう必要があった。
ミロウが比較的太くて丈夫そうな広葉樹の幹に綱を結び、馬を留める。輪っかができる独特の結び方だった。
「お待たせしました。では、行きましょうか」
「
「わたくしも正確な位置まではわかりかねますが、木もまばらですから海岸に進めばいずれ見つかるでしょう」
「そうか。で、ミロウたちは手伝ってくれるのか?」
「……いえ。あくまで不死殺したるあなたへの依頼ですから、わたくしたちは手出しできません。どうしても危なくなれば、もちろんその限りではありませんが——」
「なるほどね。いや、いいよ。二人はソニアのことを守ってやってくれ」
イドラへの依頼だから手出しはしない。筋は通っているかもしれないが、協力してことに当たる方が手短かつ確実なのは子どもでもわかる。
おおむね状況を察し、イドラは歩くため、水気を多く含んだ土から靴裏を離そうとする。が、突如袖をつまんで止められた。
「あ、あの。イドラさんもしかして、わたしを置いてこうとしてません?」
「え? つもりもなにも……イモータルと戦うんだぞ、今から。ソニアが近くにいたら巻き込まれちゃうだろ」
「やっぱりそうだったんですねっ!? だめです、わたしも戦えます! このワダツミもありますし、お役に立てますっ」
紐で背負った、彼女が持つには大きいように見える刀を肩から外す。ソニアのその動作を見てベルチャーナは「あれ?」と首を傾げた。
「その剣、ソニアちゃんのギフトだったんだ」
「荷物持ちとかさせてないって言っただろ。……これはソニアのだ」
正確にはソニアのギフトではない。ウラシマのギフトだ。しかし、なぜかその能力はソニアやイドラにも使えてしまう。
理由がわからない以上、そのことは伏せておく方がいいだろう。ギフトはその個人に対するロトコル神からの恵みというのがロトコル教の共通認識だ。その根底を揺るがし、無用な混乱を与えかねない。
「少々珍しいですね。ギフトは性質こそ変わりませんが、大きさなんかは持ち主とともに成長するもの。まだ幼いのにこんなにギフトが大きいなんて、将来有望かもしれませんわね」
「え、あ、ありがとうございます……」
そのことをわかっているからか、ソニアも訂正はしない。けれども他人のギフトを褒められ、少しいたたまれなさそうだった。
「って、そうじゃなくて、わたしだって戦えます! この体になって強くなったんです、お邪魔にはなりません!」
「そうは言ってもな……危ないことに変わりはないし」
「わたし、足手まといになんてなりたくないですっ。言ったじゃないですか、パワフルですから大丈夫です! パワフルソニアです!」
「なんだよパワフルソニアって……!」
役に立ちたいのだと言ってくれるのは嬉しい。だがイドラは同時に、ソニアがイモータルを軽んじているのではないかと思えてならなかった。
イモータルにはそれなりの個体差がある。だが、どれも例外なく危険な存在なのは間違いない。この三年、不死殺しとして旅を続け、イモータルに殺されかけたことなどもはや数えきれない。あらゆる傷を即座に完治させてしまう、マイナスナイフを持っていてもだ。
「いいかソニア、イモータルってのは怖いんだぞ。力も強いし、ひるんだりもほとんどしない。個体によっては馬や牛なんかよりももっと大きいんだ」
「わかってますっ。イドラさんについていって、守ってもらうだけなんて嫌なんです!」
「でもだな——」
「ちょっとー。言い合ってるところ悪いけど、あんまりやってると陽が落ちちゃうよー? 流石に夜に葬送、じゃないや、不死殺しをするっていうのは危険すぎるってベルちゃん思うな。足場も悪いし」
冷静なベルチャーナの意見に、つい言い返そうとしたイドラは押し黙った。
それはそうだ。視界が不安定な中での戦闘ほど恐ろしいものはない。これはイモータルに限らず、魔物やただの動物だろうが同じことだ。
ソニアはまなじりを決し、橙色の両目でイドラを見上げる。
「はぁ。仕方がないな、危ないと思ったらすぐに逃げるんだぞ」
「——! はいっ、わかりました!」
「本当にか? それはもう脱兎のごとく、わき目もふらず一目散に逃げるんだぞ?」
「わかってます、大丈夫ですっ。でもそれをするのは、絶対に無理だって思った時だけです!」
説き伏せる頃には日没だろうと思い、ため息をついて折れたイドラだったが、にこにことするソニアを見ればやはり心配になってしまう。
「今度こそ行きましょう。いざとなれば、わたくしも助けに入ります」
「ベルちゃんもだよー。怪我もギフトで治せるから、よっぽど酷い怪我じゃなかったらへーきだよ!」
もたもたしていれば、それだけリスクは高くなる一方だ。四者はぬかるんだ地面を歩き出す。
足元に気を付けながら進んでいくも、何度か巨大な水たまり……
「わあ、見てください。表面から黄色いお花が顔を出してます! 小さいけどきれいですっ」
「コウホネですね。あの下には、泥の中を走る地下茎があるんですのよ」
「さっすがミロウちゃん、くわしい~」
「すごいですっ」
——遠足気分か。
女三人寄らばなんとやら。沼のそばを通りながらはしゃぐ三人に思うところはあったが、イドラは口にしないでおいた。
それからいくつかの池塘を越え、海岸線が見え始めた頃、その異形の姿は現れた。
「……あれか。わかりやすくて助かるな」
白い怪物は、夕日の光を浴びてオレンジ色に染まっていた。
それだけではない。やけに煌めき、周囲にその光を反射させている。
「大きさ、形状ともに報告通りですね。スクレイピーで間違いないでしょう」
「報告通り? 羊に似た形だって聞いてたが……」
「シルエットを見た限り、そのように見えますが」
「……いや」
似ているのはシルエットだけだ、とミロウに聞こえない程度の大きさで呟く。
スクレイピーは、地面から突き出た大きな岩に顔や背をこすりつけている。そうしている姿を見ていると、耳が見当たらないことにイドラは気が付いた。
耳のない羊。印象としては、そんな感じだ。あるべき器官がなかったり、逆に多かったりするのはイモータルとして珍しいことではない。
だがイドラは既に、あれが身を覆うものが羊毛などではないことを見抜いていた。
胴体を包む、白いもこもこの体毛のようなものは、橙の光をちらちらと反射させ、煌めき、半透明で——細かく、尖ってもいた。
ガラス片だ。砕いたガラスの破片に似たものが、あのイモータルの体を包んでいる。さながらバッターにくぐらせ、たっぷりパン粉をまぶした
(それにあの角……魔法器官か?)
耳のない頭部には、てっぺんから真っ白い角が天を衝くかのごとく生えている。三年間、何度も死線を越えて積み重ねてきたイドラの経験が、あれは魔法器官に類するものだと警鐘を鳴らす。どんな魔法を使うか、までは推測できないにしても警戒はすべきだろう。
「ともかく、接触する。二人はここにいてくれ」
「ええ。お手並み拝見させていただきます、イドラ——不死殺し」
「がんばってね~」
「わわっ、置いてかないでくださいっ」
馬車の中で、対象について綿密に調べ上げるというエクソシストの葬送の手法を知ったイドラだったが、今日この場でそんな時間的余裕は存在しない。今回は普段通り、戦いながら殺害の筋道を考えるやり方を取るしかなかった。
左の腰のケースからマイナスナイフを抜き放つ。青い刃は昨夜と変わらず、静かな色を湛えていた。
それを手の内で半回転させて逆手に構えると、イドラは一気に走ってスクレイピーへと接近する。幸い、この辺りの地面はまだ周囲に比べて水気が少なく、多少の泥はねはあるものの足を取られる心配はなさそうだった。
「——ゥ、————ゥゥ」
スクレイピーは気が付いているのかいないのか、イドラの方には意識も向けず一心不乱に岩に体をこすりつける。どれだけの間そうしているのか、岩の表面は削れ、滑らかになってしまっていた。
抵抗してこないなら好都合だ。イドラはすぐそばにまでたどり着くと、迷いなく右腕を振るう。
「ふッ!」
胴体を覆うガラス片のようなそれらは、間近で見てみると一つ一つは意外と大きく、イドラの手のひら程はある。
そこへ向けて突き刺すように放った一撃は——呆気なく弾かれた。
「なっ……マイナスナイフが弾かれるなんて」
マイナスナイフはただのナイフではない。ギフトの、それも天恵試験紙によってATKの値が-65535と判定された、百年に一度の奇跡。切れこそしないものの、硬い木の幹だろうが路傍の石だろうが刃自体は通る。イモータルであれば、これまで例外なくその白い肉体を切り伏せてこれた。
それが、スクレイピーがまとうガラス片にはまるで通じなかった。こんなことは旅を初めた時どころか、ギフトを手にしてからの六年間で初めてのことだ。
イドラの背筋に氷柱を差し込まれたような強い寒気が走る。それはイモータルを戦う上で何度も感じてきた、しかしその中でももっとも強い死の予感だった。
「——————ゥ?」
スクレイピーが振り返る。その目は、イモータル特有の黄金色をしていた。
「だったら、顔はどうだッ!」
死神はすぐ背後に立っている。ならば逃れる活路は、前にしかない。イドラは恐れを殺し、自らさらに踏み込んで振り向いた横顔に再び刃を振り下ろす。
青いナイフは今度はすんなりと敵を斬り裂いた。血の代わりに、真っ白い砂がぽろりと零れる。
通じる。ガラス片に覆われた胴体以外の部位であれば、通常のイモータルと同様に攻撃は通じている——
手ごたえにイドラの口に笑みが浮かぶ。
唐突かもしれないが、人とイモータルの生命活動には大きな差異がある。
人間にとって、少なくとも生命活動の一点において重要なのは、脳や心臓といった器官だ。脳や心臓が消し飛べは人は死ぬが、手や足がちぎれても失血にさえ気を付ければ直ちに死ぬことはない。
それに対し、イモータルには血も流れていないし、死ねばただの砂になってしまうことから、臓器もなにも詰まっていないように見える。ならばどうやって動いているのか——そんなことは、誰にもわからない。
ただ肝心なのは、イモータルは血は流れないが、同じ箇所だけを斬り続けても死ぬということだ。個別のダメージが全体に蓄積する。イドラはそのことを経験から深く知っていて、死の目盛りが書かれた容器を与えた傷の量で満たす、というようなイメージを持っていた。 ガラスの鎧に身を包むのなら、それに覆われない顔や手足を斬り続ければいい。
イドラは追撃に飛び込もうとし——しかし身をひるがえして後ろへ下がる。
「ゥゥ————ッ」
「はっ、顔を斬られても体を掻いててくれれば楽だったんだけどな。楽な話はないか」
スクレイピーは岩から身を離し、今にもイドラへ飛び掛かろうとしていた。
反撃は本能のままに行われた。愚直な突進だ。しかし轢かれれば無事ではすまないだろう。特に頭部の角に加え、例のガラス片も突き刺されば致命傷になりかねない。
当然、受けてやる理由はない。経験から危機をいち早く察して距離を取ったことで、回避の猶予は十分にあり、イドラは難なく回避する。
「えっ」
「あ——」
そしてその直後、自身の後方——スクレイピーの突進の軌道上に、遅れてやってきたソニアがいることに気が付いた。
「まずい、逃げろソニア!」
スクレイピーに停止する素振りはまるでない。このままでは、小柄なソニアなど簡単に吹き飛ばされてしまう。数秒後の惨劇が鮮明に頭に浮かび、イドラは急いで叫ぶも、既にどうすることもできない。