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第4話 復活の勇者1

 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。


 仁美の部屋は、棚は傾き積み上げられた文庫本やノートに違和感を感じる。


 1週間がたっても空き巣騒動の名残はまだ残ったまま。その中心で、白い毛並みの子猫が丸くなって寝息を立てていた。


「……おはよう、シロ」


 聞き慣れない“音”が耳をくすぐる。


 ──新たな名前。


 頭を撫でる、温かい指先の感触と共に、仁美の声が続く。


 シロウは瞼をゆっくりと持ち上げた。視界に映るのは、仁美の穏やかな笑みだった。


 頬にはまだ疲れの色が残っていたが、その瞳には感謝と安堵の光が宿っていた。


「大学の帰りにね、君のクッションでも買いに行こうかなって……貯金箱守ってくれたお礼にね……」


 彼女は苦笑しながら言った。


 シロウは仁美の膝の上に頭を預ける。人間の姿じゃ絶対にしない。ただ不思議なことに猫として当たり前のように身体が動いてしまう。


 その日の午後、仁美が大学に向かった後、シロウは部屋の片隅で一人になった。


 午後の静寂が部屋を包む中、シロウはテレビのリモコンを前足で器用に押し、画面をつけた。仁美のいない間に練習を重ねてリモコンの操作には慣れてきた。


「……続いてのニュースです。勇者ランキング1位、神城シロウ氏の行方が依然不明です」


 画面には見覚えのある自分の顔写真が映し出されていた。


 SNSや雑誌の特集で使われていた“理想的なヒーロー像”としての自分。笑顔で決めたポーズ、整った髪型、完璧なスタイル。


(……とうとう発表されたか……)


 猫の姿になってからもう二週間。シロウは猫の姿での仁美との生活に慣れてきたが、その間も勇者庁はパニックになっていたことだろう。


 なんせ、神城シロウは勇者ランキング1位の現代最強の勇者であり、勇者庁の顔であるわけだから。


「捜索は難航しており、勇者庁は失踪事件としての捜査に切り替えた模様です――」


 シロウも元の姿に戻れるなら今すぐにでも戻りたい。猫になってからも毎日どうすれば元に戻れるのか考えているが……結論は出ていない。


 だが元の身体に戻れる可能性がないわけではない。シロウは猫の姿でも”結”が使えた瞬間があった。


 仁美の部屋に空き巣が入ってきて、仁美の大事にしていた貯金箱が取られそうになった時……


(なんで、あの時”結”が使えたんだ?……)


 小さな身体で、人間に立ち向かうためにあの時は必死だった。


(恐怖とか、気合いとか……そういう感情が必要なのかな……)


 そんな考察をあれから何度も頭を巡らせているが、結局“結”がまた使えることはない。


 それでも――シロウは不思議と焦っていなかった。


(あの頃の俺なら、もっと苛立っていたはずだ)


 ランキング、地位、強さ。それらを失うことへの恐怖。ほんの少しでも評価が下がることに、神経を尖らせていたあの日々。


 でも今は違う。

 目の前にあるのは、仁美の部屋の天井、カーテン越しの陽光、小さな皿に入ったミルク。


 かつての“最強の勇者”は、今や一匹の猫として静かな午後を過ごしていた。


(人に守られるって……こんな感じなのか)


 仁美は、シロウの正体なんて何も知らない。ただの白い子猫だと信じて疑わない。


 それでも――優しく、丁寧に接してくれる。


(こんな暮らし、悪くないと思ってる自分がいる……)


 そこに自分自身で驚いていた。


 今までは強さを誇り、人を助けることで称賛を浴びることが当然だった。


 でも今、仁美と過ごす穏やかな日々が、初めて“誰かのために”生きている実感をくれていた。


(……強さって、なんなんだろうな)


 ぽつりと、小さく呟く。猫の喉から漏れたその声は、もちろん人間には届かない。


 けれど、その問いかけは、彼の内側で確かに響き続けていた。


「――速報ニュースです。※※大学にてB級精霊が出現いたしました。既に勇者庁が対応にあたっておりますが、いまだ建物内には講義を受けていた学生が大勢取り残されているとのことです。」


 ニュースキャスターの声に、シロウの耳がぴくりと動いた。


 画面に映る大学名は、仁美の通っている大学と同じ──


 前足でリモコンを操作して音量を上げる。続く映像には、建物の窓が砕け、奇妙な光が漏れ出している様子が映っていた。


 その光には覚えがあった。精霊が出現したときに現れる、あの歪んだ気配。


 そして、女子アナウンサーの言葉が、耳に突き刺さる。


「――被害が確認されたのは、文学部校舎周辺とのことです」


 文学部校舎。


 それは――仁美が今日、午前の講義を受けに行った建物だ。


(……仁美……)


 背中に、ぞくりとした悪寒が走る。


 次の瞬間、シロウは立ち上がっていた。

 猫の小さな身体が、何かに突き動かされるように、玄関へと駆け出す。


 閉ざされたドアに前足がぶつかる。当たり前だが、猫に鍵は開けられない。


(俺が……このままじゃ……!)




♦️

 午前十時。文学部二号館の第二講義室では、予定通り「現代文学と社会」の授業が始まろうとしていた。学生たちは三々五々と席に着き、スマホを机に置いたり、友達と談笑したりしていた。仁美もその一人だった。


「ねえ、今週のレポートって結局、何文字だったっけ?」


 斜め前の席から声をかけてきた友人に、仁美は微笑んで答えた。


「確か、八百字以上。先生、“具体的な事例を必ず入れて”って言ってた」


 いつものような大学の風景。だけど、それは唐突に終わりを告げた。


 ──ギイ、ギイ、ギイ。


 講義室のスピーカーから、ありえない音が鳴り始めた。


 ギイ……ギイ……まるで、古びたオルゴールのような、軋む旋律。


「え、なにこれ……?」


 誰かが呟いた瞬間、天井の蛍光灯が一斉に点滅し、教室全体が一拍の静寂に包まれた。


 次の瞬間、教壇の上に“それ”はいた。


 小さな、人形。


 陶器のように白く滑らかな顔。紅を差した唇。目は黒曜石のように艶やかで、何も映していないようで、すべてを見透かしているようだった。


 胴体は真っ赤なビスクドールのドレスに覆われ、関節ごとに金の留め具が施されていた。


 なのに──それは“生きて”いた。


 人形は、ゆっくりと動いた。まるで舞台の上で一礼するように、カツリ、と片足を踏み出した。


「……幕が、上がります」


 言葉を話した。ハッキリと。しかも、それは空気に響いたのではなく、耳の奥に直接流れ込んできたような奇妙な感覚だった。


「……え? え、え?」


「なんで人形が……しゃべってるの?」


「ドッキリ……?じゃないよね?」


 ざわめきが広がった瞬間、講義室のドアが――バン!と、何かに叩きつけられたように閉まった。


「精霊……?」


 その誰かの呟くような言葉が、伝染するように恐怖の波になって講義室に広がっていく。


 学生たちの誰かが立ち上がってドアに駆け寄ろうとする。


「待って、開かない……! 閉じ込められた……!」


 次々と立ち上がり、ドアノブに手をかける者、窓を確認する者、叫び始める者。だが窓の外は、まるで舞台の背景画のように“静止”していた。木も、風も、空さえも、まったく動いていない。


 ざわめきが走る。だがそれも一瞬、精霊の声が響くと同時に、全員の口がすうっと閉じた。


「私の名前は”エチュード”、舞台が大好きな精霊でございます」


「勝手ではありますが、本日より皆さまには私の作る、“劇”に参加していただきます」


 にこりと、割れそうな笑みを浮かべてエチュードは告げる。


「配役はすでに決まっております。あなたは姫。あなたは騎士。あなたは道化。そして――」


「ふ、ふざけんなよッ!こんな悪ふざけ……」


 一人の男子学生が叫び、人形の精霊に殴りかかる。


 言葉の途中で、その学生の胸が弾け飛んだ。


 瞬間、教室中が絶叫に包まれる。


 彼の胸からは黒い糸のようなものが伸び、内部から身体を引き裂いたのだった。赤いしぶきが床に飛び散る。


「きゃああああああああああっ!!」


「うそ……うそだろ……なんで……なんで……」


「か、体が……勝手に震える……」


 崩れ落ちる学生の遺体に、教室の誰もが動けなくなった。


「失礼。配役を無視した方は、脚本に従って“退場”いただきます」


 エチュードはあくまで穏やかに言った。


 だが、その口調は冷たかった。芝居のルールを破ったただの“駒”を処分しただけのように。


「演じれば、助かる……? わ、わかった……やる……やるよ……!」


 別の男子学生が叫び、泣きながら膝をつき、騎士のように仁美の前で跪く。


「姫よ、あなたのために剣を取ろう……!」


 がたがたと震える手を突き出して、無理やりそれらしいセリフを叫ぶ。


「……演技、成功。暫定合格としましょう」


 パチン、とエチュードが指を鳴らすと、影の手が彼の足元から引いていった。


「いやだ……もう嫌だ……誰か助けて……ママ……!」


 泣き崩れる女生徒。だが、彼女にはまだ役が与えられていなかった。


「あなたは……『裏切り者のメイド』。姫を毒殺しようとたくらむ役。では、演じてください」


「え……?」


「演じないのであれば……“脚本通りの死”が待っていますよ」


 その言葉に、彼女は絶叫しながら教室の隅へ逃げようとした。だが、黒い糸が天井から降りてきて、彼女の身体を拘束し――そのまま吊り上げた。


 「や、やだやだやだああああああああっ!!」


 全身が痙攣し、何かを吐き出すような苦しげな叫び声。


 そして、音を立てて人形のように崩れ落ちた。


「ひ、ひどい……」

「なんで……誰も、来ないの……!?」

「勇者庁は……!? 助けてよ……!」


 誰もが泣き、震え、隣人にすがろうとする。だが、ここでは誰も味方ではない。全員が、“役を演じなければ死ぬ”舞台の上に立たされているのだ。


 仁美は、その中心にいた。


「おや、姫。あなたが最も美しく、最も誇り高くなければ、劇は締まりませんよ?」


 人形――エチュードが、ついに仁美の前まで歩み寄ってきた。陶器のような手が彼女の顎を持ち上げようと伸びてくる。


「や、やめて……」


 仁美は、肩を震わせながら後ずさった。


――お願い、誰か。誰か助けて。


 涙に滲む視界の向こうで、歪む世界。崩れていく“日常”。




♦️

 玄関のドアにぶつかった前足が、鈍い音を立てて跳ね返った。


(……仁美が、危ない……!)


 呼吸が浅くなる。身体の奥から焦燥が湧きあがってくる。あのニュースの映像、あの光。あれは“精霊”の気配に違いない。そして場所は、仁美の通う――文学部校舎。


(動け……!動けよ……!)


 シロウはドアに爪を立て、何度も何度も叩いた。だが、猫の体では鍵を開けることすら叶わない。


「くそっ……!」


 喉から漏れたのは、人間の声ではない――けれど、確かに叫びだった。


 そのとき――


 胸の奥で、何かが弾けた。


 仁美の、心からの“叫び”が、シロウの中に突き刺さるように届いたのだ。


――お願い、誰か。助けて。


 それは、ただの心の声ではなかった。想いのこもった、必死の“願い”だった。


(……結だ)


 わかる。この感覚は忘れようもない。


 “願い”に触れたとき、自分の中の力が呼び覚まされる。あの夜、仁美の貯金箱を守った時と同じ。


 仁美の声が、もう一度、響いた気がした。


――助けて……!


「仁美……!」


 刹那、シロウの身体が、光をまとう。


 真白い毛並みに金色のラインが走り、空気が震え、空間がひび割れたように歪む。


(今だけでいい――この身体を、返してくれ)


 誰に向けたわけでもない願いが、世界に干渉する“結”となって形を成す。


 光が爆ぜる。


 そして、次の瞬間。


 白い猫の姿は、そこにいなかった。


 代わりに――


 蒼いパーカーを羽織り、鋭い目つきで立ち尽くす青年が、そこにいた。


 神城シロウ、勇者ランキング1位。


 失われたはずの最強の男が、再びその姿を取り戻していた。


「仁美を、守る」


 その一言と共に、5本の指でドアを開けて、駆け出していった。


 白き閃光が、都市を貫く。


 ――それは、正義の“幻想”をまとった最強の矛盾。


 だが今だけは、**誰かを守るための“剣”**として、再び戦場に舞い戻る。


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