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校舎の外壁は、歪んだ光と黒いもやに覆われていた。窓の向こうには、怯えきった学生たちの姿がわずかに見える。
その中心、文学部校舎の三階――講義室108号室。
少女の絶叫が響いた。
「やめてぇっ!これ以上は……!」
仁美が、肩を震わせながら教壇の前に立っていた。涙で濡れた頬に髪が張り付き、唇は血の気を失っていた。だが“それ”は容赦しない。
「いいえ、姫。あなたは舞台の中心に立つべき存在です」
声は、どこか高く、澄んでいた。
講義室の黒板の前に、一体の人形が浮かんでいた。
首がねじれたように傾いている。微笑みは裂けた唇のように張りつき、不気味な愉悦を宿していた。
「さあ、“王子様”が来るまで、続きを演じましょう」
腕をくるりと旋回させると、天井から吊るされた照明が明滅した。次の瞬間、教壇の床が軋み、そこから演者にされた学生たちが一人、また一人と引きずり出される。
「ひ……ひぃぃ……やめてくれ……俺はもう……」
「セリフが、間違っております。**“愛しています、お姫様”**でしょう?」
パキン、と。
空間が鳴った。
次の瞬間、演者の学生の身体が宙に浮き、無理やり笑顔の仮面が顔に貼り付けられた。絶叫が消え、仮面の奥に苦悶が飲み込まれていく。
「ほらね、ほらね……誰だって、役に従えば幸せなのです。そうでしょう、姫?」
仁美は首を横に振ることしかできなかった。
逃げ場はない。
天井も、窓も、ドアも、精霊の結界に覆われている。
――けれど、その時。
バンッ!!!
講義室のドアが、爆ぜるように吹き飛んだ。
強風とともに現れたのは、蒼いパーカーの青年。
「……幕引きにはまだ早いだろ」
仁美の瞳が見開かれる。
「……シロ、……え……?」
確かに一瞬だけ仁美の目には白い子猫の姿が映った。
だが彼女の前に立っていたのは、明らかに“ただ者ではない”気配をまとう青年だった。
その眼差しは、どこか懐かしく、それでいて誰よりも強く、鋭かった。
「俺の“姫”に何してんだよ。俺の知らない芝居が始まってるみたいだけど――」
神城シロウは、指を鳴らした。
「主演は……俺だろ?」
空気が割れた。
“結”が弾ける。
講義室の空間が振動し、精霊エチュードの人形の身体がわずかに軋んだ。
「……あら。これはこれは、舞台を壊す”泥棒猫”さんのご登場」
精霊・エチュードは、静かに空中を一回転し、ふわりと仁美の前に降り立った。
「でも、間に合いませんわよ。”主役”の“姫”は、もう脚本に取り込まれているのですから」
「その脚本、燃やすだけだ」
神城シロウの眼に、蒼白い光が宿る。
戦いの火蓋は、すでに切って落とされていた。
天井の照明は歪んでぶら下がっている。仮面をつけた“演者”たちが、壁際で膝を抱えながら震えていた。誰もが理解していた。これは「現実の延長」ではない。異常な舞台だ。
その中央に、精霊・エチュードがふわりと浮かび、手に持ったステッキで床をトントンと叩く。
「特別にあなたを“王子様”にしてあげましょう。……けれど、お姫様を奪う結末など、私の台本にはありませんのよ?」
シロウは仁美の前に立ったまま、軽く右腕を掲げた。
「台本なんて知らねぇ。俺は最強だ。お前みたいに、自分より弱いやつの感情を操って笑っているようなやつが一番嫌いなんだよ」
エチュードは軽く首を傾げた。次の瞬間、パチンと指を鳴らす。
「演者たち、幕を上げなさい」
――学生たちが、一斉に立ち上がった。
「や……やめて!」
仁美が悲鳴を上げるのと同時に音を立てて倒れた。
「仁美!!」
シロウが振り返ったとき、仁美は力尽きたように崩れ落ちていた。
彼女の身体を受け止める暇もなく、“演者”たちが動き出す。
ギィィィ――ギチギチッ。
仮面を貼りつけられた学生たちが、まるで壊れた人形のような動きでシロウを囲む。
その動作はぎこちないが、無機質な“恐怖”を帯びていた。生身の人間とは思えない、だが確かに“死ねる”速度と力だった。
(……くそ、早く片付けねーと!)
後方には仁美。
前方には十人近い“演者”。
だが、彼らの意志は介さない糸のような魔力に操られた手足が、動き始める。
「くっ……!」
シロウはすぐに理解した。これは“戦闘用の使い魔”なのではない。**生身の人間を人形のように操っている。**しかも、彼らは攻撃の盾にも使われるだろう。
(手を抜けば俺がやられる。全力を出せば、相手が死ぬ……)
だが、迷ってはいられない。
『
掌が白く発光し、装甲の形を成す。
「なら……俺の“結”で、ぶっ飛ばす!」
《結装》によって纏われた蒼白い装甲が、空間がビリビリと震わせる。
――来る。
仮面を貼り付けられた“演者”たちが、一斉に動き出す。ぎこちない動作。だが、精霊によって強化された肉体は、人間の動きを超えていた。
『
シロウの足元が砕けるほどの加速。
《疾結》が起動した瞬間、彼の身体は残像を残しながら駆け抜け、最も接近していた“演者”の攻撃を紙一重で回避。
そのままシロウは滑るような体勢で床を蹴り、演者の腕を絡め取るように内側へと踏み込み――
一撃。
《結装》によって結に纏われた拳で、人体に致命傷を与えぬよう、肩口の一点にだけ圧を集中させて叩き込む。もちろんかなーり手加減して……
「っ……ぐ、ああっ!」
演者の男子学生が呻き声を上げ、その場に崩れた。
だが、止まらない。
次の“演者”が棒のように振り下ろす机を避け、シロウは回し蹴りで脚元を払う。
(全員、動きが硬い……)
ただの人間ではない。だが、機械でもない。
シロウの眼が鋭く光る。
『
一瞬で空間の“流れ”が色づいた。
攻撃の起点、動作の迷い、感情のざわめき。すべてが、白と黒の“線”として視界に浮かぶ。《感結視》でないとみえない細い結の糸。
(……この動き、”芝居”を強制されている)
――なら、演技のスキを突く。
「よっ……と!」
足払いを避けて肩をつかみ、回転しながら後方へ投げ飛ばす。空中で受け身を取らせるよう力を加減しつつ、別の演者の突進を横合いから突き飛ばす。
そのまま、
『
瞬時に創造され宙に浮かび上がる蒼白の刀を掴み取る。
《瞬閃刀》
柄を握った瞬間、空気が刃を避けるように裂けた。刃渡りは一瞬、だが明確な“意志”を伴う一閃のための刀。
(狙いは、関節に張り巡らされた結の糸!!)
床板が縦に裂け、接近してきた演者二人がよろめくように倒れた。
(あとは同じ作業っと……)
演者たちは徐々に減り、残された数人も攻撃を躊躇い始めていた。エチュードの支配力が揺らいでいる。
精霊・エチュードは、浮かんだまま両手を広げ、まるで拍手喝采を誘うようにくるくると回った。
「お見事、お見事。舞台袖の“演者”たちは、あなたの“演出”に酔いしれておりますわ。でも……」
その手が、ピタリと止まる。
「本番は、これからですのよ?」
次の瞬間、講義室の床が膨張し、爆ぜるように破裂した。
黒く歪んだエネルギーの塊が、そこから蛇のように這い出す。
『……
それは演出であり、結界だった。床を中心に組まれた暗黒の“舞台”が、神城シロウとエチュードを取り囲む。
(閉じ込められたか)
静寂が訪れた。
黒く歪んだ空間には、もはや拍手も、悲鳴もない。
ただ観客のいない“檻”の中に、二人の役者が立つ。
エチュードは、軽やかにステッキを一振りした。
足元に広がる舞台は、まるで古びた劇場の板のよう。
宙には糸が張り巡らされ、空間ごとがエチュードの“道具”と化している。
「幕は閉じて、スポットはあなたに……さあ、踊って頂戴?」
その声が合図だった。
――ギギギッ!!
エチュードの背後に突如として人形の姿が出現した。
関節の狂ったマネキンのような群体が、操り糸に吊られて浮遊する。
『
シロウの掌に、蒼白い槍が走る。
即座に放たれた槍が、マネキンを一体貫いた。
だが――
「意味がないですわ」
バチンッ!
突如、糸が舞い上がり、マネキンの残骸から別の個体が再構成される。
破壊しても無限に再演される“狂気の演者”。
「台本を壊すには、それだけじゃ足りませんのよ?」
エチュードがステッキを掲げると、糸がシロウの四肢を狙って飛び交う。
『疾結!』
即座に跳躍。脚に纏った《疾結》が視界を引き裂く。
(……こいつ、学生の願いを“部品”にしてるのか)
倒しても倒してもマネキンが湧いてくる理由が分かった。
これは、学生たちが感じた恐怖と、押し殺された悲鳴――
恐怖によって生まれた”.願い”。
それ自体が形になって動いている。
他者の願いを操れるのもエチュードが展開した舞台という名の結界によるところだった。
神城シロウは、膝をついた体勢から真っすぐ立ち上がった。
「もういいだろ。芝居は十分だ」
「……ふふ、あなたを主役にしてもいい舞台が作れそう……」
「これは“舞台”じゃねえ。お前の自慰だ。……観客は、誰も笑ってねぇ」
エチュードの微笑みが、ほんの少し歪む。
『――
刹那、幾千にも思える結晶のような刃が、空中に浮かぶ。
エチュードがステッキを構える暇すらなかった。
無数の斬撃が、空間ごと裂いた。
音が、遅れて追いかけてきた。
同時に、講義室を覆っていた黒いもやが、泡のように弾けて消えていく。
異質な舞台は、終わった。
──ただし。
「……まだ、終わってない……わ……」
瓦礫の中央で、倒れ伏したエチュードの人形が、ぎしぎしと軋みながら首を持ち上げた。
「だって、だって……みんなの、理想の“舞台”だった……でしょう?」
その声には、かすかに人間らしい哀切が混じっていた。
「これからも誰もが……笑顔で……誰もが……役を……演じて……」
けれどその目は、もはや空虚だった。台本を失った演者に、次の幕はない。
神城シロウは、無言で右手を掲げる。
「……脚本は、これで終わりだ。お前も、降りていい」
エチュードの身体が、粉のようにほどけていく。
そして。
「……仁美!」
シロウは駆け寄り、倒れた彼女を抱き起こす。
その頬に手を当てると、かすかに温もりが返ってきた。
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カーテンの隙間から、オレンジ色の街灯が差し込んでいる。
仁美は毛布にくるまりながら、ぼうっとその光を見つめていた。
傍らには、すやすやと丸まって眠る白い猫。
「……シロ」
ぽそりと呟いて、仁美はそっとその背中を撫でる。温かくて、柔らかい。いつもの感触だ。
「ねえ……あれ、本当に現実だったのかな……」
天井を見上げながら、独り言のように続ける。
「恐怖で震える学生たち、人形のような精霊……そして急に現れた勇者、あんなの、普通の経験じゃないよね」
シロはぴくりと耳を動かすだけで、目を開けない。
「……夢じゃなかったって分かってる。……」
仁美はぎゅっと毛布を引き寄せ、目を伏せた。
「助けに来てくれた勇者……誰だったんだろう。私、勇者に疎くて分からないんだよね」
シロの顔をのぞき込む。
「シロは、ずっとここにいたんだよね。いいなあ……」
ぽつりとこぼす。
「私、ほんとバカみたい。何もできなくて、ただ怖がって……」
不意に、涙がこぼれる。自分でも理由が分からないまま、ぽろぽろと。
白猫は小さく「にゃあ」と鳴く。新しいクッションの上で……