リーネ・セレーネがアルトゥール・フォン・エルストレムから直接呼び出しを受けたのは、夜会から数日後のことだった。普段、彼から自分を呼び出すことなどほとんどなかったため、彼女は少しだけ期待を抱いていた。もしかすると、あの夜の振る舞いについて何か弁解をしてくれるのではないか、と。
しかし、そんな淡い期待は、アルトゥールの冷ややかな表情を見た瞬間に砕け散った。
「リーネ。」
彼は形式的な調子で彼女の名を呼び、続けた。
「重要な話がある。君には感謝しているが、我々の婚約を解消したい。」
その言葉がリーネの耳に届いた瞬間、時間が止まったかのように感じた。周囲の景色がぼやけ、彼の言葉だけが胸に重くのしかかる。
「……どういうことでしょうか?」
リーネはできる限り冷静さを保とうとしたが、声は震えていた。
「僕はクラリッサを愛している。」
アルトゥールはためらうことなく続けた。
「彼女は君にはない優しさを持っている。僕の隣にふさわしいのは彼女だ。」
リーネの胸に鋭い痛みが走った。自分が否定されたような気分だった。これまで自分なりに努力を重ね、彼の期待に応えようとした日々が否定されるかのように。
「ですが、アルトゥール様。」
リーネは震える声を抑えながら反論した。
「私たちの婚約は家同士の約束によるものです。それを解消することで生じる影響をお考えになったことはありますか?」
「もちろんだ。」
アルトゥールは平然と言い切った。
「だが、それでも僕はクラリッサと共に生きることを選ぶ。それが僕の幸せだからだ。」
リーネは呆然と立ち尽くした。彼の言葉には、一片の罪悪感も見受けられなかった。彼にとって、この婚約はただの取引だったのだ。そして今、それを破棄することにも、彼自身の心以外には興味がないのだと悟った。
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リーネはゆっくりと息を吸い込み、胸の痛みを押し殺した。アルトゥールの冷たい態度に涙を流すことは許されない。ここで取り乱せば、彼の思うつぼだ。
「わかりました。」
リーネは毅然とした態度で答えた。
「婚約を解消するというのであれば、きちんと両家で話し合いを持つべきです。それが貴族としての責務ではありませんか?」
アルトゥールは少し驚いた表情を見せた。彼はリーネが泣き崩れるか、激昂するとでも思っていたのかもしれない。しかし、彼女の冷静さに気圧されたのか、口を閉じたまま頷いた。
「わかった。では、僕の父に話を通しておく。」
そう言い残すと、アルトゥールは踵を返して去っていった。その背中を見送りながら、リーネは拳を握りしめた。
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一人になったリーネは、自分の部屋に戻ると、ようやく溜め込んでいた感情を吐き出した。静かに流れる涙は止まらず、胸の中で膨れ上がる怒りと悲しみが混ざり合う。
「どうして……私がこんな仕打ちを受けなければならないの?」
彼女は鏡の中の自分を見つめた。完璧な淑女として振る舞うことに慣れすぎたせいで、本当の自分を見失っているような気がした。ずっと他人の期待に応えようとしていた。家族のため、婚約者のため、社交界のため――しかし、誰も彼女を守ってはくれない。
そんな自分が、無性に情けなく思えた。
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リーネは涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。このまま泣いていても何も変わらないことはわかっている。それでも、どうすればいいのかは見えなかった。
その時、扉が軽くノックされ、侍女のマリアが顔を覗かせた。
「リーネ様、失礼いたします。」
マリアの優しい声に、リーネは少しだけ心が安らぐのを感じた。
「マリア……。」
リーネは力なく呼びかけると、彼女の顔を見つめた。
「何かお困りのことがあれば、私におっしゃってください。」
マリアは静かにリーネの手を取り、その温かさがリーネの心に届いた。
「ありがとう。でも、大丈夫よ。」
リーネは小さく微笑んだが、その笑顔にはどこか寂しさが滲んでいた。
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リーネは決意した。このまま屈辱に耐え続ける人生を送るのではなく、自分自身の力で未来を切り開いていこうと。アルトゥールとの婚約破棄は、彼女にとって終わりではなく、新たな始まりの一歩となるべきだ。
「私が誰にも軽んじられるような存在でいるわけにはいかない。」
リーネの胸の中に、小さな炎が灯った。それは、これまでの自分を変えるための決意の証だった。彼女の人生は、ここから新しい方向に動き出すのだ――。
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