侯爵令嬢としての生活が変わり始めたのは、婚約破棄が決まってから一週間後のことだった。リーネ・セレーネは、自室の窓から庭を見下ろしていた。そこには商業ギルドの若き会長、ルーカス・エヴァンスの姿があった。彼は一人の護衛を連れ、穏やかな表情で待っている。
「お嬢様、ルーカス様がお越しです。」
侍女のマリアが声をかける。
「わかっているわ。今行くから。」
リーネは大きく息を吸い、ドアを開けた。まだ完全には癒えない胸の痛みを隠しつつ、彼女は堂々とした足取りで応接室へ向かった。
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ルーカスは彼女が部屋に入ると、すぐに立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「お時間をいただき、ありがとうございます。今日は一つ、リーネ様にお伝えしたいことがあり参りました。」
「お伝えしたいこと、ですか?」
リーネは首を傾げながら席に着いた。彼女の目はルーカスを見据えていたが、その中には若干の警戒心があった。
「先日の夜会で、リーネ様のお話を少しだけお聞きしました。そして、セレーネ家が直面している困難も、わずかながら耳に入っております。」
リーネは驚いた。社交界では婚約破棄が噂となりつつあったが、彼女がその中心にいることを明言する者はまだいなかった。しかし、ルーカスは的確にその状況を把握しているようだった。
「婚約破棄の件ですね。」
リーネは正面から彼の目を見据えた。嘘や隠し事をしても無駄だと感じたからだ。
「はい。」
ルーカスは頷き、その口調には同情ではなく、リーネへの敬意が込められていた。
「私はリーネ様がただの被害者で終わるべきではないと思っています。それどころか、この状況を逆手に取ることで、さらに大きな成功を掴む可能性があると考えています。」
「成功……?」
リーネは彼の言葉の真意を探るように問いかけた。
「商業の分野です。」
ルーカスの瞳が鋭く光る。
「リーネ様が持つセンスと知識を活かせば、貴族社会に新たな影響力を築くことができるはずです。」
リーネは目を見開いた。商業はこれまで彼女が深く関わったことのない分野だ。しかし、ルーカスの言葉には、ただの提案ではない確信めいたものがあった。
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「ですが、私は商業についての知識が乏しいのです。」
リーネは正直に答えた。貴族の令嬢として育てられた彼女にとって、商業は庶民の仕事というイメージが強かった。
「それは問題ではありません。」
ルーカスは即座に答えた。
「私はリーネ様に足りない知識や経験を提供できます。ですが、貴族社会に影響を与えられるだけの信用や感性、それを持っているのはリーネ様です。」
「私が持っている……?」
「例えば、夜会での装飾品やドレス。その多くは最新の流行を取り入れたものですが、実際にそれを選ぶ感覚を持っている方は限られています。リーネ様の選ぶものは、いつも品が良く、美しいと評判です。それを活かせば、貴族令嬢たちに絶大な支持を得られる商品を生み出すことができるはずです。」
リーネは考え込んだ。自分が持つ「感覚」が商業の武器になるという発想は、これまで思いもしなかった。しかし、ルーカスの言葉には説得力があった。
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「具体的には、どうすればよいのでしょうか?」
リーネがそう尋ねると、ルーカスは微笑んだ。
「まずは小規模から始めるべきです。リーネ様のセンスでデザインを考え、私がそれを製品化し、販売します。最初の目標は、貴族令嬢たちに向けた高級アクセサリーのラインを展開することです。」
「アクセサリー……。」
リーネは小さく頷いた。これならば、自分の持つセンスを活かせるかもしれない。
「もちろん、最初は難しいこともあるでしょう。しかし、私はリーネ様と共に成功を目指す覚悟があります。」
その言葉に、リーネは少しだけ胸が温かくなった。彼が信頼できる人物であると感じたからだ。
「わかりました、ルーカス様。」
リーネは静かに微笑みながら答えた。
「私も挑戦してみたいと思います。婚約破棄で終わるのではなく、新たな未来を切り開くために。」
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その日の夕方、ルーカスはセレーネ家を後にした。彼との会話を思い返しながら、リーネは自室に戻り、机の前に座った。
「新しい未来……。」
彼女は呟き、手元にある紙とペンを取り出した。これまでとは違う人生を歩むために、まずは自分の理想を形にする必要がある。
「誰にも軽んじられることのない私になるために。」
リーネは紙にアクセサリーのデザインを描き始めた。その線は、これまでの彼女の人生にはなかった自由と希望を象徴しているように感じられた。
こうして、リーネは初めて自らの力で未来を切り開く一歩を踏み出したのだった――。