リーネの事業が順調に進む中、セレーネ家はすでに安定した地位を確保していた。彼女の国外展開の計画も着実に進んでおり、カリエン公国への第一歩を踏み出す準備が整っていた。しかし、リーネはその過程で新たな試練に直面しつつあった。それは、彼女自身が抱える個人的な問題と、これから向き合うべき新たな責任から来るものであった。
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ある日の午後、リーネはセレーネ家の書斎で一人、次の計画に目を通していた。目の前の書類には、カリエン公国での事業展開に関する詳細な計画が記されている。それは、リーネがこの数ヶ月間、懸命に準備してきたものだった。しかし、その時、家の使用人が書斎に入ってきた。
「リーネ様、お客様がいらっしゃっています。」
「お客様?」
リーネは眉をひそめながら答えた。「誰でしょう?」
「アルトゥール公爵様がお見えです。」
その名前を聞いた瞬間、リーネの表情がわずかに硬くなった。
「アルトゥール公爵……。」
リーネは少しの間、思考を巡らせた。彼との最後の会話から数ヶ月が経ち、彼のことを完全に忘れたわけではなかった。むしろ、彼がリーネに与えた影響は無視できなかった。しかし、今の彼女にはもう過去のことに惑わされるつもりはなかった。
「分かりました。」
リーネはそのまま立ち上がり、ドアの前で待つ使用人に指示を出した。
「通していただいて。」
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しばらくして、アルトゥールが書斎に足を踏み入れた。彼の顔には、どこか重々しい表情が浮かんでいる。それは、かつての優雅で自信に満ちた姿とは異なり、深い後悔と苦悩が感じられるものだった。
「リーネ、久しぶりだな。」
彼は一歩踏み出し、彼女に向かって軽く頭を下げた。
「アルトゥール公爵。」
リーネは冷静に応じた。彼の姿を見て、過去の感情が一瞬胸に沸き起こりかけたが、すぐにそれを押し込めた。
「突然訪ねてすまなかった。」
アルトゥールは少し躊躇しながら言った。
「実は、君にどうしても謝らなくてはいけないことがあって、ここに来たんだ。」
リーネはその言葉をじっと聞き、彼を見つめた。
「謝罪ですか?」
「そうだ。君があんなに頑張ってきたことを、僕は裏切った。君が受けた痛みを考えると、僕は本当に後悔している。」
アルトゥールは深い息を吐き、少し頭を下げた。
リーネはその言葉を一度心で受け入れたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「その気持ちは分かりました。」
彼女の声は静かでありながら、どこか力強さを感じさせた。
「ですが、過去のことはもう終わりました。私は今、セレーネ家を再興し、事業を展開している最中です。私にとって、過去を振り返る時間はありません。」
アルトゥールは少し驚いた様子で、リーネを見つめた。
「でも、リーネ……君が僕に求めていたもの、僕は今でも君に申し訳ないと思っている。」
「求めていたもの?」
リーネは眉をひそめ、少し困惑した表情を見せた。
「アルトゥール公爵、あなたが私に与えたものは、確かに多くの影響を与えました。ですが、それは私が選んだ道ではありません。」
その言葉に、アルトゥールは言葉を失った。彼は目をそらし、少しばかり苦しげに唇を噛んだ。
「リーネ、君が僕を許してくれると思っていた。でも、君がそれを求めていないなら、僕は何も言う資格がない。」
リーネは彼の言葉を静かに聞いた後、穏やかに答えた。
「アルトゥール、公爵として、そして一人の人間として過去に犯したことを悔い、謝罪するのは当然です。でも、それが私の未来にどう影響を与えるべきかは、私が決めることです。」
その言葉が、アルトゥールの心に深く刺さった。彼は少しの間黙り込んだ後、ゆっくりと頭を下げた。
「君の言う通りだ。君の未来を、僕はもう邪魔するつもりはない。君が選んだ道を、心から応援する。」
リーネは彼の言葉に微笑みながらも、少し冷たい目を向けた。
「ありがとうございます。でも、これからの私の歩みには、過去の人々の影響を与えることはありません。私の未来を切り開くのは、私自身です。」
アルトゥールはその言葉を深く噛みしめながら、静かに部屋を後にした。彼の背中を見送ったリーネは、ふと立ち止まり、何か大きな決意が胸に湧き上がるのを感じていた。
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その夜、リーネは自室でひとり、静かに考えていた。アルトゥールが去った後、彼の言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。彼の謝罪を受け入れ、過去を振り返ることはできるが、それは決して未来を変えるものではない。リーネは自分の道を進む覚悟を新たにした。
「過去に振り回されることなく、前に進むだけ。」
彼女は心の中でそう誓い、窓の外に広がる夜空を見上げた。
その夜、リーネの中で新たな決意が固まった。セレーネ家を再興し、国外にも展開を広げるという計画を、全力で実行に移す時が来たのだ。過去を切り捨て、未来に向かって進む――それこそが、リーネが今、選ぶべき道だった。
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