肩を落として歩きながら、希美は藤咲の言葉を反芻する。
「お前のことをどこまで信用していいのか分からない」
それは魔女の目から見ての話だったが、お陰で目が覚めた。
藤咲は奇特な男だから気にしなかったようだが、その他大勢の人間から見れば、希美もまた得体の知れない魔女に過ぎない。
これまでずっと肝に銘じて生きてきたのに、今日一日あの男に振り回されて忘れてしまっていたようだ。
傷ついてはいない。仮に傷ついていたとしても、このていどの傷はすでに無数についている。例えるならば傷だらけのガラスだ。そこに一筋あたらしい傷がついたところで、すでにある無数の傷の中に埋没して気にならない。そのていどのことだった。
それでもなぜかやるせなく、気持ちが沈んでいる。
(慣れないことに疲れただけだ)
自分に言い聞かせながら頼りない足取りで閑散とした駅の構内を進む。そのまま下りのホームに移動すると、タイミング良く古くさい車両が到着した。
ドアが開くと俯いたまま乗り込んで吊革につかまる。席は空いていたが、わざわざ座る気にはならなかった。
ゆっくりと列車が動き出す中、誰かの足音が近づいてくるが、どうせ後ろを通り抜けるのだろうと思って気にしない。
しかし、その誰かに軽く肩を叩かれる。
「よっ、しばらくぶりだな、希美ちゃん」
弾かれたように振り向けば、希美の想い人――葉月昴がそこに立っていた。
いつ見ても大学生のようなラフな服装をしているが、それがよく似合っている。漆黒の瞳は子供のように澄んでいるが、そこにはそれと反比例するような深い知性の輝きがあった。浮かべる笑みはやさしげで、思わずすがりたくなるような頼もしさを感じる。
希美のヒーローにして初恋の相手。彼の生き方、考え方、そしてやさしさ――そのすべてに希美は憧れていた。
「なんだ? 元気がなさそうだな」
昴に言われて、慌てて希美は首を横に振った。
「ううん、そんなことないよ。ついさっきまでお調子者の級友に振り回されてて、それで疲れただけ」
「ならいいけど、無理はするなよ。何か困ったことが起きたら、いつでも俺を頼ってくれ。希美ちゃんなら、商売抜きで力になるからさ」
やさしい言葉に涙がこぼれそうになるのを希美は上を向いて堪えた。
「気前のいいこと言っちゃってるけど、探偵ってそんなに儲かるの?」
冗談めかした口調で訊くと、昴は軽く笑った。
「普段はあんまり実入りがないな。けど、たまに大きな仕事が転がり込むと、一気に稼げるんだよ」
昴の言葉は嘘ではない。彼自身が語ったことはないが、彼は普通の探偵のように浮気調査ばかりしているわけではない。主に怪異が絡むような事件を、かつての仲間と共に解決して回っているのだ。
地球防衛部の活動の延長のようだが、商売としてやっている以上、それによって報酬も得ている。
依頼主は様々だが、円卓の下請けなどもしているらしく、なかなかに繁盛しているようだ。
身寄りのなかった希美が施設を出て、今の町で彼と再会したのは偶然だったが、希美にはそれが運命であるかのように感じられた。
残念ながら彼は希美が誰なのか気づいていないが、それ以来、何かと親切にしてもらっている。
町中で偶然会って、タダ券があるからと映画に誘われたこともあったが、のぼせ上がった希美は映画の内容がほとんど頭に入らなかった。
それほどに彼のことが好きなのだ。今この瞬間にも狂おしいまでの想いが胸を締めつけてきて泣き出しそうになっていたが、それを昴に伝えることはできない。
藤咲は自分の恋に命を懸けると宣言したが、それは希美には眩しすぎる選択だった。
羨ましいが、自分には決して真似できない。昴のためならば、いつでも命を投げ出すことができるが、恋の成就だけは望めない。
だからなのだろう。あの小夜楢未来を信用していないにもか関わらず、心のどこかで藤咲と彼女が上手くいくことを願ってしまっている。
「希美ちゃん、学校は楽しめてるかい?」
ふいに訊かれて反応が遅れた。心配はかけたくないが、このまま楽しんでると答えるのはいかにも嘘くさい。
「ま、まだ、なかなか慣れなくて……も、もう、六月なのにね」
なるべく深刻に聞こえないように努めて明るい声で答える。
「学校で困ったことがあったら秋塚先生に相談しろよ。変わった人だけど頼りになる先生だからさ」
「うん、分かった」
希美が笑みを浮かべると、昴も微笑みで応じてくれた。
そのまま彼は希美の顔を覗き込むようにして話しかけてくる。
「もちろん、学校外なら俺の出番だ。それとフードは必要のない時は外した方がいい。美人がもったいないからな」
美人と言われて頬を朱に染めながらも、希美は素直にフードを脱ぐと、首を左右に振って長い髪を背中に垂らす。
「うん、上出来だ」
ウィンクする昴に思わず見とれてしまう。希美は彼の前では終始微笑みを絶やさないようにしているが、自分が淋しげな笑みを浮かべていることには気がついていない。
カーブにさしかかったところで電車が揺れて、希美の肩が昴の腕にふれた。たったそれだけのことで幸せを感じて泣きたくなる。
多くは望まない。次の駅に着くまでのあと数分。もう一度だけでも彼にふれられれば、それだけで生きてて良かったと信じられる。
そう思う希美だったが、けっきょくその後は大きな揺れもないままに電車は目的の駅に停車した。