後ろ髪を引かれる思いを胸に抱きながらも、希美は昴に手を振って駅のホームに降りた。走り去る列車を長々と見送ってから、頼りない足取りで構内を歩いて改札をくぐる。
駅のすぐそばには無料の駐輪スペースがあり、希美の自転車はそこに止めてある。
鍵を外して自転車に跨がると、フードを被ってから、ゆっくりペダルを踏みしめた。
夕闇が迫る町並みには同じように家路を辿る人の群れがある。ほどよい疲れを感じながら我が家を目指す会社員。友達と楽しげに笑い合う制服姿の若者たち。元気な子供たちが横断歩道を走りながら渡っていく。
誰もが皆、家に帰れば温かく迎えてくれる人がいるのだろう。
それを思うと自然に笑みがこぼれるが、それがひどく淋しげであることを自覚してはいない。
かつては希美も彼らと同じような顔をして家路を辿っていた時代があったはずだが、それはあまりにも遠い記憶だった。
薄暗い坂道をゆっくり上ってマンションの前まで辿り着くと、いつものように横手にある備え付けの駐輪所に自転車を止めて鍵をかける。
その足でゆっくりマンションの入り口に向かおうとすると、どういうわけか茶色いニワトリがヨチヨチと目の前を横切った。
「ニワトリ……」
嫌なものを連想して周囲を見回す、見覚えのある車が道の脇に停まっているのを見つけて希美は慌てて回れ右をした。
だが、そいつは目の前の植え込みから突然顔を出す。
「うわっ」
驚いて声をあげると、そいつ――西御寺篤也は冷ややかな声で告げてきた。
「騒ぐな。頭の上で両手を組んでスクワットしろ」
「なんで!?」
意味不明の指図を受けて声をあげると篤也は不思議そうに首を捻った。
「さあ? 私に訊かれてもな」
「あ、あなたが言ったんでしょうが。それなのにあなた以外の誰に訊けっていうんだ」
「難しい疑問だ」
頭に数枚の葉っぱを乗せたまま真剣な顔で考え込む篤也。その時、反対側の植え込みから、別人の声が聞こえてきた。
「先生、鍵は見つかった?」
希美が振り向けば、地球防衛部の部長――朋子がそこに立っていた。彼女は希美に気づくと大げさに手を振ってくる。
「希美ちゃん、お帰り」
小走りに駆け寄ると、藤咲と同じように希美の手を勝手に取って人懐こい笑みを浮かべた。
「待ってたよ。今日はお願いがあってきたんだけど、うちのバカな顧問が車の鍵を失くしちゃってさ」
「不覚ではあるが不可抗力だ」
ようやく植え込みから抜け出て篤也が言う。
「そうかなぁ?」
「キーホルダーの輪っか部分に指をはめて、クルクル回していたら、すっぽ抜けて飛んでいってしまったのだ。これを不可抗力と言わず、なんと言う」
「ただの不注意だろ」
希美が指摘すると、篤也はすかさず言い放った。
「だが、良い不注意だ」
「良い不注意なんてあるか」
そんなやり取りをしているところに、先ほど目の前を歩いていったニワトリが戻ってくる。口にはなぜか、キーホルダーが取りつけられた車の鍵をくわえていた。
「でかしたよ、コカトリス!」
素直に喜ぶ朋子。篤也は額に指を添えて得意げな笑みを浮かべる。
「計算どおり」
「いや、もーいいから、先生は黙ってて」
釘を刺してから朋子は希美に向き直った。
「あなたのクラスの北さんから……」
「栗じゃがだ」
横から篤也。
「黙っててって言ったでしょ」
もう一度釘を刺してから、朋子は希美に向き直る。
「北さんから聞いたんだけど、おかしな魔女に襲われたんだってね」
「あーそれはその……」
それについては非常に説明しづらい状況になったばかりだ。答えあぐねているうちにも朋子は話を進める。
「それで、お願いなんだけど、そろそろ正式に、うちの部に入ってくれないかな? あれから助っ人がひとり来てくれたけど、やっぱり人手不足だし、そもそもあなただって初めは入部希望者だったんでしょ?」
視線を逸らしながら、それでも希美は正直に答えた。
「……うん」
「私からも頼む。うちの部には君のような……」
篤也は、そこで一度言葉を切って希美のパーカーをじっと見つめた。正確には胸の辺りを。
「……が必要なんだ」
慌てて自分の胸を隠すようにしながら飛び退く希美。
「な、なにが必要だって!?」
「優秀な……だ」
同じ動作で篤也が繰り返す。
「だから、肝心なところが聞こえないっ」
希美の指摘に篤也が言葉を返す前に、彼を押しのけるようにして朋子が割り込んでくる。
「と、とにかくさ、同じ事件に関わっちゃった以上、手を組むのが得策でしょ」
もっともな提案だったが……。
「このヘンタイ先生が苦手なら、昼間は棺桶に閉じ込めて鍵掛けとくからさ」
「夜になったら這い出てくるとか、よけいに怖いんだけど……」
「では取引だ、雨夜」
何度も釘を刺されているのに篤也は平然と話しかけてくる。
「お前が地球防衛部に在籍してくれるなら、私はお前を勧誘しないことを誓おう」
「それ、入部しろって言われているだけだし!」
「では在籍してくれるなら、弱みを握って脅したりもしない」
「すでに脅迫してるよね!?」
「むぅ……説得とは難しいものだな。これだけの誠意を見せても簡単にはうなずかない」
軽く唸って、なにやら考え込む篤也。
バカは放っておいて朋子が口を開く。
「まあ、見てのとおりのバカで、少々うざいけど環境にはやさしいから安心して」
「環境にって……」
「私は酒もタバコもやらんからな。羽毛は撒き散らすが、フンは撒き散らさない。コカトリスは飼い主に似て賢いのでな。トイレの躾をするのは簡単だった。目を見て言って聞かせれば、一発で理解してくれたのだ」
篤也の肩には、いつの間にかコカトリスが乗っている。どうにもムチャクチャなことを言ってる気もしたが、そこは気にするだけ無駄な気がした。
迷った末に希美は思いきって一番の疑問を篤也にぶつける。
「どうしてあなたが地球防衛部の顧問なんだ? あなたは葉月くんたちと戦った悪者だろ!」
突きつけられた言葉に篤也は少しだけ意外そうな顔で、
「君は葉月を知っているのか」
「ま、前に、助けてもらったことがあるもの」
「そうか」
つぶやくと意外なことに篤也は、やさしげな微笑みを見せた。どこか遠い目をして語り始める。
「そうだな、君の言うとおり、奴とは何度も拳を交えた仲だ」
「何度も? って言うか、拳?」
「そうだ。強敵と書いて
「絶対嘘だ」
断じる希美だが、篤也は真剣な顔で続ける。
「最終決戦では音速を超えたお互いの拳が天を裂き大地を割り、ご近所の皆々様方から騒音被害との苦情が相次ぐ中で、ついに迎えた九回裏二死満塁、奴の渾身のストレートが私の顔面に突き刺さるも、バットを振ってしまったために空振り三振。熱い死闘の幕が下りたところでユニフォームを交換して、我々は分かり合うことができたのだ」
「それをどう信じろと? ……って言うか、騙す気すらないでしょ」
ひたすら荒唐無稽だ。
「嘘だと思うならば秋塚先生に訊いてみるといい。ノリの良い先生のことだから、多少の脚色はあるが概ねそのとおりと芋版を押してくれるはずだ」
「太鼓判じゃなくて……いや、そこはどうでもいいけど」
話の内容はともかく千里に訊けと言い切る自信のほどは気になった。よくよく考えてみれば、あの人が信用のおけない男に地球防衛部の顧問を任せるはずがない。
再び篤也を押しのける朋子。
「希美ちゃんは葉月先輩と親しいの? わたしは何度か顔を見たていどで、よくは知らないんだけど」
「し、親しいってほどじゃないけど、会えば話くらいは……」
彼のことを口にするだけで頬が少しばかり熱くなるのを感じる。それがマズかった。
「お前、奴に惚れているのか?」
「なっ……ほ、惚れてるなんて、そんな……」
希美は篤也の言葉に、あからさまに動揺を見せてしまう。どう考えてもバレバレだ。
「よし、ならばお前の横恋慕に協力してやろう。お前が葉月をたらし込んで、私が奴の女を頂く。ウインウインな関係というわけだ」
真顔とも仏頂面とも取れる顔で、とんでもないことを提案する篤也。希美はとうとう敵意を漲らせて睨みつけた。
「もう黙ってて。葉月くんを困らせるような奴とは絶対に手を組まない」
宣言するも、篤也は動じることなく逆にポンと手を打ち鳴らした。
「入部しなければ、お前が奴に惚れていることを奴にバラす」
「……入部します」
希美はあっさり脅しに屈した。
「あーあ……」
なんとも言いがたい顔で朋子が頭を抱えるが、篤也は得意げに親指を立てている。
「グッジョブ、私」
「いや、もっと普通に、スマートに仲間にしたかったんだけど?」
「結果オーライだ。この女はもはや我々の言いなり。好きなように使わせてもらうとしよう」
「その台詞、ものすごく卑猥に聞こえるんだけど……」
「だが良い卑猥さだ」
「訳分かんない」
「なんにせよ部員も増えたことだし、まずは情報を共有しよう」
勝手に話を進めると、仏頂面で希美に命じてくる。
「鍵を出せ。お前の部屋を使わせてもらう」
「はい……」
項垂れたまま大人しく鍵を差し出す希美。それを見て朋子が慌てて言った。
「ダメだよ、こんな男の言いなりになっちゃ。ズルズルと骨までしゃぶられちゃうよ」
とりあえず、この部長は善良そうだが、とんでもない相手にとんでもない秘密を握られてしまった以上、希美に選択肢はない。
「しかし、弱ったな」
篤也がとくに困った顔もせずにつぶやく。
「弱ってるのは希美ちゃんだって。それも先生のせいで」
「それは分かっているのだが……冗談のつもりが、だんだん楽しくなってきてしまったのだ」
「シャレですむところでやめておこうね。でないと、本物の犯罪者になっちゃうから」
「善処しよう」
答えつつも希美の部屋に入ることをやめる気はないらしく、篤也は先頭に立ってマンションの中に入っていった。
すでに部屋は知られてしまっているようだ。当然ながらオートロックなど備わっていないので部屋の前までは誰でも簡単に近づける。
憂鬱な気分に沈みながら、希美は肩にニワトリを乗せた男のあとをトボトボと歩いていった。