小夜楢未来は窓から差し込む日の光を感じて目を覚ました。
梅雨の真っ只中ではあるが昨日に続き、今日も晴天に恵まれたようだ。
小さなアクビを噛み殺しながらベッドから出ると、地味なパジャマを脱いでセーラー服に着替える。べつに高校に通うわけでもないのだが、いつの間にやら、すっかり普段着になっていた。
魔女の隠れ家と聞くと古びた洋館あたりがオーソドックスな気がするが、未来が住んでいるのは、やや大きいだけの一戸建てだ。部屋は多いが豪邸というほどではない。とくにセキュリティが厳重でもなければ、守りの結界が張られているわけでもなかった。下手な小細工はかえって敵を呼び込むことになりかねないからだ。
「敵……か」
ポツリとつぶやく。
世界を憎んで陰謀を巡らせていた頃は、孤立無援ですべての人間が自分の敵だと思い込んでいた。
だが、蓋を開けてみればなんのことはない。未来を追っていたのは、一部の秘術組織だけだったのだ。
陽楠学園での戦いのあと、秘術組織としては国内最強を謳われる東條家に出頭した西御寺篤也が、未来に関わるすべてを暴露したことで、未来の敵だった者たちは粛清され、追手がかかる心配はなくなった。
もっとも、すでに死人として扱われている今となっては、あまり意味はない。
それにしても昨日はおかしな一日だった。
偶然町中で見かけた大鎌の少女を挑発しようと近づいたまでは良かったが、その結果、彼女に同行していた少年から愛を告げられてしまったのだ。
しかも、その相手は先日、脅しをかけるために襲撃した相手だった。
正直に言えば未来は自分の容姿に自信がある。だからといってなんの力もない一般人が、恐ろしい力を持つ魔女に恋などするものだろうか。
「恋か……」
思い出すのは自分に手を差し伸べてくれた少年だ。
葉月昴――彼の名前は片時たりとも忘れることがない。
同じ町で暮らしているのだから、会いに行くのは簡単だが、自分が生きていると知れば、彼はどんな顔をするだろうか。
喜んでくれるだろうか。
それを疑うこと自体がバカバカしい。喜んでくれるに決まっている。
だが、今はまだそれを知られるわけにはいかない。彼のために始めた計画だが、この強引なやり方をおそらく彼は歓迎しない。
それでもやり遂げなければ生き延びた意味はないように思えた。
藤咲という少年には悪いが、今は彼に構っている場合ではない。
いや、それ以前に自分には恋などする資格はないのだ。この指先はとっくの昔に血にまみれてしまっているのだから。
どのみち彼はこちらの連絡先を知らない。このまま会わずにいれば自然に忘れてくれるだろう。
そう結論づけて、未来は朝食を摂るためにリビングへと向かった。
丁度部屋に入ったところで電話が鳴ったので受話器を取る。世の中すでにプッシュホンがあたりまえになりつつあるが、昔ながらのダイヤル式だ。未来はこういったアンティークっぽいものが好きだった。
受話器を取って機嫌良く「もしもし」と声を出す。
馴染みのある女の声が、すぐに聞こえてきた。
「ザンキが捕まったわ」
未来は黙って電話を切った。
とりあえず、聞かなかったことにして、清々しい朝のひと時を満喫しようとするのだが、気の利かない電話はまたもや鳴り出した。
苦虫を噛み潰したような顔をしつつも、いま一度受話器を手に取ると、やはり先ほどと同じ人物の声が聞こえてくる。
「ちょっと、いきなり切らないでよ。呆れ果てているのは、こっちだって同じなんだから」
「まだ何もさせてない待機中の人が、何をどうすれば捕まるっていうのよ? 相手はなに? もしかして警察?」
「円卓よ」
「…………」
「ちょっと待って!」
「何よ?」
「今、電話を切ろうとしたでしょ」
なかなかに鋭い。つまらないことに感心する未来だが、もちろんそんな場合ではない。
円卓とは、あらゆる秘術組織を統べる裏社会最大の武力集団だ。
世界のすべてを敵だと思い込んでいた、かつての未来ですら真っ向勝負など考えない相手だった。
「なにをどう間違えたら、そんな相手に捕まるのよ?」
「地球防衛部と円卓は昔から結託しているのよ。より正確に言うなら、協力関係にある。高校生だけでは事件の後始末に苦労するし、今回のように異能犯罪者を捕まえても収監できないからね」
「わたしが戦った相手は、そういう後ろ盾とは無縁だったみたいだけど?」
「しばらく部員不足で活動していなかったからでしょ。後継者が現れたことで円卓の方から再びコンタクトを取ったのよ」
意外な話だった。もっとも、自分たちの邪魔をしかねない相手について、この程度の知識も得ていなかったのは失策だっただろう。それを認めつつ電話の相手に告げる。
「とにかくザンキのことはあきらめるしかないわ。円卓の支部ていどなら、襲撃して逃がせなくもないけど、そんなことをすれば、さらなる敵を呼び込むことになりかねない」
「けど、彼は……」
「この際、多少の情報漏れはしかたがないわ。円卓にヘタにちょっかいをかけるよりは、よほどマシよ」
「……そうね。多少の懸念はあるけど、あなたが正しいわ」
リスクを計算して相手の女も納得したようだった。
「それじゃあ切るわよ。今日はいろいろと下見をして回る予定なの」
「分かったわ。こちらも準備を進めておく」
それだけ告げると相手の方が先に電話を切ったため、未来も遠慮なく受話器を置いた。
改めて朝食を摂り顔を洗って歯を磨く。化粧はしたことがないし、やり方もよく分からない。すっぴんでもなんの問題もないような、恵まれた美貌ゆえというよりは、幼い頃からの逃亡生活で覚える暇がなかったためだ。
鏡の前でブラシを使って長い髪を整えると、財布やハンカチなど最低限のものだけポケットに入れて家を出た。
穏やかな陽射しの下、のどかな住宅街をゆっくり歩いていく。
もし、かつての自分を知る者と出会ってたしまったならば、面倒なことになるのは間違いないが、変装すらしていない。
見つかるのは困る。だが、未来は同時に見つけて欲しいとも思っていた。
その時もしその相手が葉月昴ならば、運命さえも自分の味方であると信じられる。そんな気がしていたのだ。
しかし、実際に未来を見つけたのは、
「未来さん!」
予想外の声を聞いて未来は思わず、
「げっ」
と声に出していた。
「奇遇ですね。いや、きっと運命です!」
喜色満面の藤咲旭人がそこに立っていた。