文化部の部室棟は美術館を彷彿とさせるゴージャスな建物だ。
大きなガラス張りの正面扉は朝早くから開いているが、実を言えば鍵がかかっていたとしても、地球防衛部のメンバーのみ出入りできる裏口があったりする。
そもそも建築に魔術を利用した建物で十年以上の月日を経ても、ほとんど劣化が見られない。壁や床には染みこそあるが、よくよく観察してみれば傷ひとつついていないことが分かるだろう。
「いいのか、これ?」
思わずつぶやいたのは、超常の力が基本的に秘密にされているものだからだ。
「多少不自然に思えたからといって、それを神秘の力と結びつけて考える者などそうはいないものだ」
背後から聞こえてきた声に希美は飛び上がった。近い、あまりにも距離が近い。大慌てで床をゴロゴロと転がってから立ち上がると壁を背にして身構える。
視線の先にはニワトリを腕に乗せた男――西御寺篤也が立っている。当然ながら声の主だ。さすがは元暗殺者ということか。まったく気配を感じなかった。
奇行を見せてしまった希美をじっと見つめつつ首を傾げると、そいつはボソリと言った。
「まださわっていないんだが」
「さわる気だったのか、このセクハラ教師!?」
静かな建物に希美の声が反響する。今のところ人影はないが、まったくの無人ということもないはずだ。気恥ずかしい気持ちになるが、篤也や藤咲が相手だと、ついつい声を張り上げてしまう。
「勘違いするな。生徒の胸を鷲掴みにするほど、私も非常識ではない。さわろうとしたのは尻の方だ」
「じゅうぶんアウトだーーっ!」
今度は全力で叫ぶが、篤也の鉄面皮にはヒビひとつ入らない。
「冗談だ。廊下でそんなことをするほど、分別がないわけではない」
「部室でもダメだ!」
「なに? ……それでは教室でやれと?」
驚いた顔を見せる篤也だが、もちろんそんな話ではない。
「どこでもダメだと言っているんだ!」
「そんなワガママを言われてもな」
「ワガママじゃない! 常識だ!」
「つまり、常識の嘘か?」
「嘘じゃなくて、とことん真実だ!」
「その昔、とある文豪がこう言った。『本当の真実というものはいつでも真実らしくないものだ』と。つまり、お前の発言はいかにも真実らしいものだから、真実でないに違いない」
「他人様の格言を悪用するな! たいていの真実は真実らしいに決まっている!」
叫んだ後、希美は肩でぜえぜえと息をする。
篤也は額に指を当てて難しい顔をして見せた。
「どうやら、我々の意見は平行四辺形のようだな」
「……ズレてるってことか?」
「うむ、平行線とは似て非なるものだ。ひとつに繋がっているからな」
「繋がってるとか気持ちの悪いこと言うな!」
「異なことを言うな。繋がりこそが人間にとって最も大切なものなのだぞ」
「……もういい。時間の無駄だ」
「つまりさわっても良いのだな」
「いいわけあるかっ」
希美はキッと睨みつけるが、篤也は素知らぬ顔で歩き始める。
しかたなく、希美もその後について歩き出した。当然ながらふたりとも目指す場所は同じ、地球防衛部の部室だ。
「ねえ、先生。ちょっと話があるんだけど」
深天からの提案を思い出して背後から声をかける。
「大事な話か?」
「うん」
うなずくと、篤也はふり返って希美を見つめた。
フードを脱いだままだったことを思い出して、慌てて手を伸ばそうとするが、篤也はその手をいきなりつかむ。
「な、なに……?」
焦りながら訊くと篤也は重々しくうなずいた。
「分かった。結婚しよう」
「…………」
希美は、しばし半眼になって篤也を見つめる。
「さすがに、そのボケは滑ってると思う」
ツッコミを入れるが篤也は大真面目な顔をしたまま自分のカバンから書類を取り出す。
「幸いここに婚姻届がある」
「なんでそんなもの持ち歩いてるの!?」
「もちろん、いつ女生徒に愛を告げられてもいいようにだ」
「それを受け入れるのもどうかと思うけど、いきなり結婚とか一足飛びどころじゃないでしょ!」
「何を言う。相手が美少女だったら、そいつが気の迷いから立ち直る前に、話をまとめてしまうに限るだろ」
篤也の言葉に希美は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「ああ、もう、この男は……。いくら人は変わるものって言っても、これは変わりすぎでしょ」
「昔の私が良かったのか?」
しれっと言う篤也に希美はゆっくりと視線を戻した。相手が興味深げな目で自分を見つめていることに気づいて慌ててフードを被る。もしかしたら、今の意味不明なやり取りは、希美を混乱させておいて、その間にじっくりと顔形を観察するためだったのかもしれない。
大いに焦る希美に向かって呆れたように篤也が告げる。
「なんというか犯罪者みたいな振る舞いだな」
「ほっといて」
「しかたがないな。では、とりあえずここにサインしろ」
「するかっ」
「心配するな。相手の名前は葉月にしてある」
「は?」
「もちろん、何から何まで偽造だが、私の力を以てすれば、これを役所にねじ込むなど造作もない」
混乱しつつも、希美が婚姻届を手にとって確認してみると、確かに葉月昴の名前が書かれていて、彼のものらしきハンコが押してある。
「こ、これを使えば、は、葉月くんと結婚でき……」
肩を震わせながら、つぶやく希美。
耳元で
「そうだ、雨夜。お前ほどの女がなにを躊躇う。奪い取れ。今は悪魔が微笑む時代なのだ」
世紀末漫画の悪役のような台詞を口にする篤也。
希美は我に返って叫んだ。
「できるかーーっ! 嫌われるわーーっ!」
「分かるぞ、雨夜。添い遂げることができないなら、せめて憎まれることで奴の記憶に残りたいというのだな」
「そんな残り方はイヤだ~~~っ!」
「忘れ去られるよりは良かろう」
「だからって……」
言いかけたところで希美ははたと気づいた。
「これって本当に葉月くんの字か?」
「もちろん、ホンモノだ。私の特技は筆跡模写だからな。本人すら自覚できない筆癖まで完璧に再現することができる」
「それはニセモノって意味じゃないか!」
「バレないニセモノはホンモノと同じだ。普通の筆跡鑑定では絶対に見破れん。私はこの特技によって陽楠学園のジェバンニと綽名されている」
「どこの誰だ!?」
「さあ? 綽名を付けた秋塚先生に訊いてくれ」
「もうヤダ! この男!」
希美がさらに叫んでいると、背後から小走りに朋子が近づいてきた。言葉通りスクーターを駐輪所に置いてから、ここに来たのだろう。
「ちょっとちょっと、先生。希美ちゃんをイジメないでよ。ただでさえネガティブで自虐的なんだから」
「ほう……雨夜はMなのか。巨乳黒髪でMとは、あとはメガネをかければ完璧だな。うん? ……眼鏡?」
なにを思いついたのか首を傾げる篤也。
希美はダラダラと冷や汗をかきつつ、朋子に向き直った。
「朋子先輩、もうあれは殺っちゃっていいですよね!」
わりと本気で訊いたのだが、残念ながら朋子は許可をくれなかった。
「やめてあげて。コカトリスが路頭に迷うから」
視線をニワトリに向けると、そちらも希美をじっと見ている。当たり前だが、何を考えているのかサッパリわからない。普段からほとんど身動きしない大人しい鶏だが、あまりにじっと見られていたためか、翼を広げると軽く羽ばたいて希美の頭の上に移動した。
「重い……」
ボソリとつぶやく希美。一方の篤也は身軽になって腕を軽く回しながら言った。
「さて、そろそろ部室に向かうとしようか。これ以上、雨夜の自虐漫才につき合っていては朝練の時間がなくなってしまう」
「誰の漫才だ!? そもそも漫才はふたりでやるものだろ!」
「無学な奴め。ひとりでやる漫才は存在するぞ。ピン芸と言うのだ。こんなこともちゃんと覚えていないなど、私の授業をちゃんと聞いていない証拠だ」
「私はお前の授業なんて受けてない! そもそもお前はいったいどんな授業をしてるんだ!?」
目くじらを立てる希美。
篤也は選択科目の担当で書道教諭だが、希美が選んだのは美術だ。
「そろそろ行かないと時間がなくなっちゃうよ。まあ、うちは朝練なんてないけどね」
苦笑しながら歩き出す朋子。
それを見て希美と篤也も後に続いた。
「先輩たちって、いつもこんなに早くに来てるんですか?」
脱線していた間に他の部活の生徒がチラホラと登校してきているが、朋子と出会ったのは、もっと早い時間帯だ。
「いつもってわけじゃないけど、そこそこ来てるかな。なんか朝って自然に目が開いちゃってさ。あと早朝の町中をスクーターで走り抜けるのが好きってのもあるけど」
「そうだな、バイクは良いものだ」
篤也が同意する。
「なんと言っても逃げ惑う近所の悪ガキを追い回すのが最高に愉快だ」
「分かるわ~」
とんでもない意見に同意する朋子。篤也の非常識はいつものことだが、朋子のこれにはさすがにギョッとさせられた。
「朋子先輩……?」
名前を呼ばれて、朋子はふと我に返ったようだった。
「ああ、忘れて希美ちゃん。過去のわたしが何をしていようと現在のわたしとは無関係。そう、わたしは変わったのだから」
「朝の話が台無しなんですけど……」
ニワトリを頭に乗せたまま肩を落とす希美。必然的に猫背になる。それを両手で真っ直ぐに直しながら、朋子はややばつが悪そうに語る。
「わたしのバイクに卑猥な落書きをした子供がいてさ。あの時はちょっと理性が飛びかけてねえ……」
「大丈夫だ。ガキひとりくらいなら、私の力で揉み消せる」
真顔で告げる篤也。
「それは悪人の思考パターンだ!」
無駄だと知りつつも、叫んでしまう希美。
「オトナになれ、雨夜」
ありきたりなセリフを口にする篤也だが、口ぶりが微妙に引っかかる。
「そのオトナって、どういう意味で言ってるんだ?」
「もちろん性的な意味でだ」
「もう文脈とかメチャクチャだ!」
これ以上こいつとは話していられない。希美は会話を打ち切って、さっさと部室に向かうことにした。早足で先頭を歩くと、部室の入り口はすぐに見えてくる。
勢いよく扉を開けて入室すると、中にはすでにエイダがいた。
「おはようございます」
「お、おはよう。早いんだね」
「ええ、わたしは新参者なので少しは勉強しようと思って、過去の資料を読みふけっていたんです」
言葉通りエイダの前には地球防衛部活動記録と書かれたファイルが積み上げられていた。
「えらいね、エイダちゃんは」
「うむ、さすがは洗濯の騎士だ」
感心する朋子と、それに同意する篤也。
篤也のボケを、しっかり聞き取っていた希美だが、反応しても喜ぶだけなのであえて無視した。微妙に悲しそうな顔をする篤也を見て勝利を確信する。
「ところで、このスケッチブックですが……」
エイダがページを開くのを見て焦る希美だが止める理由は見つからない。
「この地方だとイケメンって言うんですかね? ハンサムな若者が描かれているのですが」
「うむ、私の若い頃の似顔絵だ」
篤也のデタラメに、希美がまたもや絶叫する。
「ちーがーうぅぅぅーーーっ!」
驚いたコカトリスがバタバタと羽を動かして部室の中を滑空した。
「意外に飛べるんだね」
「いちおう鳥だからな」
そちらに気を削がれた朋子と篤也の隣で、希美は悔しそうに肩を落とした。
「どこからどう見ても葉月くんなのに……」
「あなたの想い人ですね」
エイダに訊かれて希美は力なくうなずいた。
「素敵な人ですね」
「でしょ!」
一瞬で息を吹き返したように笑みを浮かべる希美。顔を近づけすぎたため、エイダが思わずのけぞっている。
「葉月くんは地球防衛部のOBで歴代最強の部員だったの」
「いや、最強は緋色の悪夢だと思うが」
篤也が何か言ったが、どうせ戯言だ。希美は聞こえないことにする。
そのままエイダに向かって彼の話をしようとするが、そのタイミングで篤也がふと思い出したようにつぶやいた。
「雨夜、そういえば私に話があるのではなかったか?」
「…………」
果てしなく嫌そうな顔になりながらも、それを言われると希美も思い出すしかない。
しかたなく、そちらを優先することにする。
「……そうだった。みんなにも聞いて欲しいんだけど……」
希美は深天から持ちかけられた地球防衛部とハルメニウス教団が協力関係を結ぶという提案について話し始めた。