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第64話 テンカウント

 神のごとき声を耳にした朱里は、熱に浮かされたかのような面持ちで家を出た。

 日暮れ時、外には湿った風が吹いていて、空には分厚い雲が垂れ込め始めている。

 普段ならば外出さえ躊躇うような空模様だが、朱里は傘を持つことなく家を出ると、そのまま駅に向かって歩き出した。目指す場所はもちろん陽楠学園だ。

 制服のまま、ろくに身支度も調えていないが、定期券だけはポケットに入れてある。

 脳裏に浮かぶのは神々しい神の姿。

 今の朱里にはそのイメージがあるだけで、思考力は満足に働いていない。それでも足取りは意外にしっかりしていて、道の真ん中を歩くような愚を犯すこともなく、いつもどおりに交通ルールを守りながら道路の右側を歩いていた。

 突然、目の前の角から人影が飛び出してくるまでは……。

 ゴツンという音が響き、衝撃が頭部に加わる。漫画のように星が飛ぶのが見えた気がした。

 為す術もなく道路の上に倒れた朱里に、何か重いものがのしかかってくる。

 突発的な異常事態だったが、状況を把握する余裕などない。前頭葉に受けた衝撃によって、意識が遠い世界へと旅立ちかけていた。

 しかし、いきなり胸の膨らみを鷲掴みにしてきた無骨な手の感触によって、否応なく意識が引き戻される。


「いやっ! 変態っ!」


 無意識に繰り出された右フックが変態の頬を抉るように突き刺さった。


「ぐはぁぁっ!」


 もんどり打って倒れる変態。

 その隙に身を起こそうとする朱里だったが、これは果たせなかった。頭の痛みによって半ば意識がもうろうとしている。


(た、立たなきゃ……立って、ファイティングポーズを……)


 頭の片隅でレフェリーがテンカウントを数えようとしている。焦燥に駆られる朱里。

 一方の変態は未だに頬を抑えてのたうち回っており、すぐに襲いかかってくる気配はない。

 コーナーポストでは、なぜか篤也が朱里に声援を送っている。


「立つんだクリジャガー!」


 あんまりなリングネームだが、この時ばかりは気になっていない。


(立てば、わたしの勝ちだ)


 残された力を振り絞って引きずるように脚を動かし、道路リングを無理やり踏みしめる。相変わらず膝には力が入らず、すぐにでも頽れそうだ。

 目を閉じて倒れてしまえば楽になる。そんな誘惑に駆られるが、従うことは絶対にできない。


(そうだ、なんのためにつらいトレーニングと減量に耐えてきたんだ!)


 体重計を気にして大好きなスイーツを涙ながらに我慢したことを思い出す。背後では大勢のファンがエールを送ってくれている。そうだ、現役時代にはレールガン斉藤の異名を取っていた父も常々口にしていた。

 自分が東洋太平洋チャンピオンになれたのは、彼らの声援が背中を支えてくれていたからだと。

 そして朱里も今、その声援に突き動かされながら、ふらつきながらもついに立ち上がった。最後の力で重たい腕を上げて拳を構える。

 頭の中のカウントは、ちょうどナインだ。

 幻の群衆が歓声を響かせる中、対戦相手が聞き覚えのある声を発した。


「な、何しやがる……っ」

「え……?」


 ようやくはっきりと目を開けた朱里は、そこで我に返った。

 脳裏に思い描いていたリングは消え去り、目の前にはダウンしたままの変態が視線だけをこちらに向けてきている。


「いてえだろうが……っ」


 驚いて顔を見やると、どうやら見覚えのある変態のようだ。名前は藤咲旭人。幼なじみにしては、まったく親しくない変態――いや、クラスメイトだ。


「藤咲くん……?」

「と、飛び出したのは悪かったけど、いきなり殴るこたぁねえだろ」


 藤咲は苦情を言いつつ、“チカンに注意”と書かれた電柱にしがみつくようにしながら身を起こした。


「変なところにさわるからでしょっ」


 ようやくすべてを理解して朱里は彼を睨みつけた。


「さわったんじゃない。揉んだんだ」


 居丈高に言い放つ藤咲。


「わざとじゃないの!」


 その顔面に朱里の左ストレートが突き刺さった。相手には視認しにくい肩口から真っ直ぐに伸びる見事なパンチだ。

 身体をきりもみさせるように回転させながら倒れる藤咲。

 そのまましばらく動かなくなるが、なんとかカンウトエイトくらいで立ち上がった。


「ま、まだやれるぜ、レフェリー」


 うわごとのように口する藤咲に、朱里はワン・ツーを決めて再びダウンさせる。今度こそ完全なKOだった。


(やったよ、お父さん)


 右手を高々と上げて天国の父に報告する。

 そんな気分に浸っていたが、朱里の父――元東洋太平洋チャンプは存命している。不幸にして交通事故で選手生命を絶たれたが、今は元気に畑仕事に精を出していた。

 明らかにテンカウント以上倒れていた藤咲は、いきなり目をパチリと開けると、上体だけ起こして言い訳を始めた。


「いや、違う。確かに揉んじまったけど、あれは事故だ。ついでにその拍子に、お前のペンダントが壊れちまったけど、どう考えても不可抗力だ」

「え……?」


 言われて朱里は深天から貰ったペンダントを確認した。ハルメニウスとやらのシンボルマークが見事に砕け散っている。


「……なんで?」

「たぶん、未来さんに貰った指輪がふれたからだろうな。これって魔力を打ち消す力があるらしいから」

「…………」


 朱里は黙り込んでいた。

 深天から貰ったペンダントを壊されたからではない。藤咲の言い分を聞けば、あのペンダントが壊れた理由には納得がいくが、問題なのは、つい今し方までの自分の行動だ。


(あの声を聞いてから、わたしはおかしくなっていた……)


 それを自覚したのだ。

 正気に戻ったのは藤咲の石頭による衝撃とも考えられるが、もうひとつの可能性はペンダントだ。


「これが壊れたから、正気に戻れたんだとしたら……」

「何言ってんだ、お前?」


 藤咲が間の抜けた顔で訊いてくる。


「雨夜さんに……雨夜さんに会わないと」


 こういう状況で朱里が一番頼りにできるのは、やはり彼女だ。


「あいつはたぶん、未来さんの家だ」

「え?」

「俺を裸エプロンで誘惑して、殴り込みに行ったんだよ」


 とりあえず戯言らしき部分は無視して朱里が訊き返す。


「殴り込み?」

「ああ、だいぶん時間が経っちまったが、止めようと思ってさ。教会も爆発しちまったし」


 またしても意味不明な部分があったが、とりあえずは希美に会うことを優先することに決める。


「藤咲くん、そこに案内して」

「……まあ、この状況なら構わねえか」


 少しだけ迷ったようだが、結局は了承して藤咲は駆け出した。


「こっちだ」


 まだ多少くらくらする頭を抱えながら、朱里は彼の後を追いかける。

 とても良からぬことが起きようとしている。そんな気がしてならなかった。

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