未来が使った魔術は、対象となった人物から深刻なトラウマを引き出して、それを結界の内部に再現するというものだった。
しかし、月見里朋子には深刻なトラウマが存在していない。
記憶にあるものの中であえて挙げるとすれば、足を滑らせてケーキに顔面からダイブしてしまったことくらいだろうか。
「あれはまあ、キツかったけど、だからってこれはないよね」
朋子は途方に暮れたように周囲をざっと見回した。
そこは一面の白の世界だが、雪景色ではない。すべて生クリームだ。
足もズッポリと生クリームに突き刺さっているが、その下はさらにスポンジらしく、極めて安定が悪い。
「どう見ても巨大なケーキの上だよねえ」
他に説明のしようのない光景だった。
最初は、とても甘ったるいニオイが鼻についたが、今はもう麻痺している。
所々にある大きなイチゴは、かじってみたい衝動に駆られもするが、さすがにそんな迂闊なことはできない。
見上げれば空は高く、目を凝らしてみても地平線は見えない。
「地球がケーキと化した」
なんとなく真剣な顔をしてつぶやいていると、頭上から覚えのある声が響いてくる。
「ひぃやぁぁぁぁっ!」
「希美ちゃん?」
声だけでそれと分かったが、助けに行く余裕はない。
空から落ちてきた希美は、頭から生クリームの海にダイブした。
慌てて駆け寄ろうとするが、なかなかに歩き難い。
結局、朋子が辿り着く前に、希美は自分で生クリームの中から這い出てきた。
「な、なんじゃこりゃぁ」
情けない声を出しつつ、顔についたクリームをぬぐっている。
「大丈夫、希美ちゃん?」
「と、朋子先輩? 良かった、無事だった……ぶっ」
立ち上がろうとして、またもやケーキに突っ伏した希美。
見るも無惨な有様である。とりあえず朋子はそのままを言ってみた。
「白濁まみれ! エロい!」
「な、なんて表現をするんですか!」
悲鳴じみた声をあげる後輩に朋子はやや意地の悪い笑みを向けた。
「希美ちゃん、すごい言葉を知ってるね」
「せ、先輩も知ってるじゃないですか!」
焦る希美の姿も愛らしいが、今はのんきに観賞している場合でもない。
「そんなことより、どうやって入ってきたの?」
「結界に割り込みをかけて、わたしに向けられた悪夢を崩壊させたんです。魔女を欺くために、それ以上は魔術を使わずに自由落下してきたんですけど……そしたらそのまま生クリームに……」
「なるほど、それで『美少女白濁地獄』か」
「いかがわしいAVみたいなタイトルはやめて」
「そうだね。希美ちゃんをペロペロしたいのは山々だけど、他のみんなが気になるし、早く脱出しなくちゃ」
「なんか、いちいち発言が怪しい……先生の影響を受けすぎなんじゃ……」
肩を落として眉をひそめる希美はあえて無視して、今重要なことを考えてみる。
「先生やエイダちゃんも、変な世界に閉じ込められてるのかな?」
「たぶん、自分のトラウマを突きつけられてるはずで……」
言いかけたところで、希美はふと気づいたように周囲を見回して首を傾げた。
「先輩のトラウマっていったい……」
「そ、そんなことよりも、ここから出る方法はあるの?」
「術式を解析すれば、魔術で道を作れるはずです」
「なら、悪いけど急いでやってちょうだい」
「了解」
そちらの作業は専門家に任せて、朋子は改めて状況を整理してみた。
敵は明らかにこちらがくるのを待ち構えていた。それも、かなり周到な準備をしてだ。結果として、まんまと罠にかかった形だが、そのくせ敵は追い打ちをかけてこない。
「狙いは時間稼ぎか……」
答えを導き出して顔を上げる。ここから見えるのは生クリームの大地だけだが、この結界の外側では、何か巨大な陰謀が動き出している気がする。
だが、まずは術式の解析を待って仲間を助け出さなければならない。朋子は方針を定めると、逸る気持ちを抑えて希美の作業が終わるのを待った。