「エイダ」
やさしい声で呼ばれてエイダは顔を上げた。
セインの幻が穏やかな笑みを向けてきている。
本当に何もかもが本物同然だ。騎士に似つかわしくない細身の体躯も、整った目鼻立ちも、淡い金の髪も、仕草のひとつひとつに至るまでが、エイダの思い出の中にある彼と綺麗に重なった。
彼が今浮かべている、どこか困ったかのような笑い方も馴染みのあるものだ。エイダが冷たい態度を取る度に彼はいつもそんな顔をしていた。
「泣かないで、エイダ」
セインの言葉で、エイダはようやく自分が涙を流していることに気づいて、慌ててそれをぬぐった。
「す、すみません、何かが目に染みて……」
幻相手だと頭では理解していても、ついヘタな言い訳をしてしまう。
セインは開いていた本を閉じてテーブルの上に置くと、立ち上がってエイダに歩み寄った。彼もそれほど長身ではないが、エイダが小柄なため、向かい合うと自然に見上げるようになる。視線の先にある彼の顔は、やはり少しだけ困ったように微笑んでいた。
「ずっと考えていたんだ」
「何を、ですか?」
涙をぬぐって、エイダは微笑みを返す。かつてそうしたいと願ったとおりに、できるだけやさしく笑ってみせた。
「君が泣いている理由についてさ」
「いや、だからそれは……」
「僕は死んだんだね」
セインは静かに口にした。
「――っ」
息を呑むエイダ。
「い、いや、何を――」
慌てて否定の言葉を並べようと口を開きかけるが、セインは人差し指でエイダの口を封じた。唇にふれられて赤面するが、彼は自然体のまま冷静に状況を分析してみせる。
「おそらくこれは強力な幻術だ。君は何者かの精神攻撃を受けているのだろう」
「どうして……」
「簡単な話さ。今の君は僕が知っている君よりも、ずっと大人びて綺麗になっている」
照れることもなく自然体のまま、そんな言葉を口にする。
エイダの方は思わず赤面してしまうが、彼は気にせず言葉を続けた。
「それに、君が腰に提げているのは師匠の聖剣ブライトスターだ。それを譲り受けたということは、今の君はすでに騎士資格を得ているはずだ」
エイダが思っていたとおり、彼は聡明な男だった。すべてを見抜いた上で、それでも彼は取り乱すことがない。
「ありがとう、エイダ。僕のために躊躇ってくれて」
すべてを優しく包み込むようなセインの青い瞳に、エイダの泣きそうな顔が映し出されている。
続く言葉は聞きたくなかった。彼が何を言うのか、エイダにはもう分かっている。
「でも君は騎士だ。騎士としてやるべきことがあるはずだ」
「無理です……」
震える声で答える
「エイダ」
「無理ですよっ!」
激しく頭を振って、エイダは叫んだ。
「わたしにあなたが斬れるはずないでしょ! 幻とか本物とか、そんなことは関係ない! 好きな人を斬れるはずがない! いちばん大事な人を傷つけてまで、わたしは騎士でいたくはありません!」
堰を切ったように口にした。生前の彼にはついぞ告げられなかった想いを、生まれて初めて言葉にしていた。
突然の告白にセインは驚いたようだった。その瞳に初めて翳りが生まれる。幻でありながらも、まるで本物の心があるかのようだ。
しばしの沈黙を挟み、祈るように天を仰いだ後、彼はもう一度エイダに顔を向ける。その時にはもう、先ほど見せた翳りも迷いの色も消え失せていた。
「ありがとう。嬉しいよ。本当に光栄なことだ」
真摯に前置きするセイン。
本物の彼が、同じように答えてくれたかどうかは分からない。それでも目の前にいる彼からは嘘は感じなかった。
愛を受け入れてくれたわけでもない。それは理解している。
「でも、聞いてくれ、エイダ」
愛しい声が鼓膜を揺らす。
「君が今、何者と戦っているのか、僕には分からない。だけど、その敵は僕という存在を冒涜しているんだ。僕は、君が僕を大切に想ってくれているのと同じように……いや、それ以上に君のことを大切に想っている」
これも嘘とは思えない。エイダをその気にさせるためだけに、口からのデマカセを言えるほど彼は器用な男ではないはずだ。
「だから、お願いだ。ここにいる僕を消してくれ。僕は自分が君の邪魔をすることに耐えられない。そんな存在に堕ちたのでは、僕は生まれてきた意味すら失ってしまう」
「…………」
この状況で彼が何を願うのか――そんなことは最初から知れたことだった。
騎士として、あるいは人として、ここで自分が果たすべき役割も、エイダには分かりきっていた。
それでもつらい。何が正しい選択か分かりきっていることが、なおさらつらいのだ。
過ちでもいい。
幻でも構わない。
このままここで彼と一緒にいたい。
それで朽ちるとしても、いっそ本望だ。
深く息を吸い込んで、セインにその想いを告げようとして、しかしエイダは思いとどまった。
彼自身がたった今口にした言葉が、それを思いとどまらせた。
“生まれてきた意味すら失ってしまう"
それは彼の偽らざる気持ちなのだろう。
結局どちらかが傷つくしかない。
自分か、最愛の人か。
あまりにも残酷な二律背反。
エイダは、そのどちらかを選ばねばならなかった。
心を空にして自分に言い聞かせる。
(このセインはニセモノだ。わたしの記憶から引き出された虚像に過ぎない。でも……)
きっと本物であっても同じことをエイダに願うだろう。
セインはそういう人だ。
残酷な運命を受け入れて、エイダは静かに腰の剣に手を伸ばした。
(これは、ただのつまらない幻影……)
感情を排して冷徹になろうと試みるが、柄を握る手が汗ですべる。
それを握り直して剣を抜くと、エイダは正眼に構えた。
(そんなに器用にできるわけがない)
人は感情の生き物だ。湧き上がる痛みからも悲しみからも逃げることはできない。
それを感じなくなることがあるとすれば、それは心のどこかが壊れた時だ。
認めつつ、それでもエイダはゆっくりと剣を振り上げた。
もはや溢れる涙を抑えることはせず顔をくしゃくしゃにしながら、それでも真っ直ぐにセインを見つめる。滲む視界の中ではセインが穏やかな笑みが浮かべていた。
たとえ幻であっても、彼を斬れば心に癒えることのない傷を抱え込むことになるだろう。それこそ心のどこかが壊れるかもしれない。
それが分かっていても、もはやエイダは止まれなかった。