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第68話 つまらない幻影

「エイダ」


 やさしい声で呼ばれてエイダは顔を上げた。

 セインの幻が穏やかな笑みを向けてきている。

 本当に何もかもが本物同然だ。騎士に似つかわしくない細身の体躯も、整った目鼻立ちも、淡い金の髪も、仕草のひとつひとつに至るまでが、エイダの思い出の中にある彼と綺麗に重なった。

 彼が今浮かべている、どこか困ったかのような笑い方も馴染みのあるものだ。エイダが冷たい態度を取る度に彼はいつもそんな顔をしていた。


「泣かないで、エイダ」


 セインの言葉で、エイダはようやく自分が涙を流していることに気づいて、慌ててそれをぬぐった。


「す、すみません、何かが目に染みて……」


 幻相手だと頭では理解していても、ついヘタな言い訳をしてしまう。

 セインは開いていた本を閉じてテーブルの上に置くと、立ち上がってエイダに歩み寄った。彼もそれほど長身ではないが、エイダが小柄なため、向かい合うと自然に見上げるようになる。視線の先にある彼の顔は、やはり少しだけ困ったように微笑んでいた。


「ずっと考えていたんだ」

「何を、ですか?」


 涙をぬぐって、エイダは微笑みを返す。かつてそうしたいと願ったとおりに、できるだけやさしく笑ってみせた。


「君が泣いている理由についてさ」

「いや、だからそれは……」

「僕は死んだんだね」


 セインは静かに口にした。


「――っ」


 息を呑むエイダ。


「い、いや、何を――」


 慌てて否定の言葉を並べようと口を開きかけるが、セインは人差し指でエイダの口を封じた。唇にふれられて赤面するが、彼は自然体のまま冷静に状況を分析してみせる。


「おそらくこれは強力な幻術だ。君は何者かの精神攻撃を受けているのだろう」

「どうして……」

「簡単な話さ。今の君は僕が知っている君よりも、ずっと大人びて綺麗になっている」


 照れることもなく自然体のまま、そんな言葉を口にする。

 エイダの方は思わず赤面してしまうが、彼は気にせず言葉を続けた。


「それに、君が腰に提げているのは師匠の聖剣ブライトスターだ。それを譲り受けたということは、今の君はすでに騎士資格を得ているはずだ」


 エイダが思っていたとおり、彼は聡明な男だった。すべてを見抜いた上で、それでも彼は取り乱すことがない。


「ありがとう、エイダ。僕のために躊躇ってくれて」


 すべてを優しく包み込むようなセインの青い瞳に、エイダの泣きそうな顔が映し出されている。

 続く言葉は聞きたくなかった。彼が何を言うのか、エイダにはもう分かっている。


「でも君は騎士だ。騎士としてやるべきことがあるはずだ」

「無理です……」


 震える声で答える


「エイダ」

「無理ですよっ!」


 激しく頭を振って、エイダは叫んだ。


「わたしにあなたが斬れるはずないでしょ! 幻とか本物とか、そんなことは関係ない! 好きな人を斬れるはずがない! いちばん大事な人を傷つけてまで、わたしは騎士でいたくはありません!」


 堰を切ったように口にした。生前の彼にはついぞ告げられなかった想いを、生まれて初めて言葉にしていた。

 突然の告白にセインは驚いたようだった。その瞳に初めて翳りが生まれる。幻でありながらも、まるで本物の心があるかのようだ。

 しばしの沈黙を挟み、祈るように天を仰いだ後、彼はもう一度エイダに顔を向ける。その時にはもう、先ほど見せた翳りも迷いの色も消え失せていた。


「ありがとう。嬉しいよ。本当に光栄なことだ」


 真摯に前置きするセイン。

 本物の彼が、同じように答えてくれたかどうかは分からない。それでも目の前にいる彼からは嘘は感じなかった。

 愛を受け入れてくれたわけでもない。それは理解している。


「でも、聞いてくれ、エイダ」


 愛しい声が鼓膜を揺らす。


「君が今、何者と戦っているのか、僕には分からない。だけど、その敵は僕という存在を冒涜しているんだ。僕は、君が僕を大切に想ってくれているのと同じように……いや、それ以上に君のことを大切に想っている」


 これも嘘とは思えない。エイダをその気にさせるためだけに、口からのデマカセを言えるほど彼は器用な男ではないはずだ。


「だから、お願いだ。ここにいる僕を消してくれ。僕は自分が君の邪魔をすることに耐えられない。そんな存在に堕ちたのでは、僕は生まれてきた意味すら失ってしまう」

「…………」


 この状況で彼が何を願うのか――そんなことは最初から知れたことだった。

 騎士として、あるいは人として、ここで自分が果たすべき役割も、エイダには分かりきっていた。

 それでもつらい。何が正しい選択か分かりきっていることが、なおさらつらいのだ。

 過ちでもいい。

 幻でも構わない。

 このままここで彼と一緒にいたい。

 それで朽ちるとしても、いっそ本望だ。

 深く息を吸い込んで、セインにその想いを告げようとして、しかしエイダは思いとどまった。

 彼自身がたった今口にした言葉が、それを思いとどまらせた。


“生まれてきた意味すら失ってしまう"


 それは彼の偽らざる気持ちなのだろう。

 結局どちらかが傷つくしかない。

 自分か、最愛の人か。

 あまりにも残酷な二律背反。

 エイダは、そのどちらかを選ばねばならなかった。

 心を空にして自分に言い聞かせる。


(このセインはニセモノだ。わたしの記憶から引き出された虚像に過ぎない。でも……)


 きっと本物であっても同じことをエイダに願うだろう。

 セインはそういう人だ。

 残酷な運命を受け入れて、エイダは静かに腰の剣に手を伸ばした。


(これは、ただのつまらない幻影……)


 感情を排して冷徹になろうと試みるが、柄を握る手が汗ですべる。

 それを握り直して剣を抜くと、エイダは正眼に構えた。


(そんなに器用にできるわけがない)


 人は感情の生き物だ。湧き上がる痛みからも悲しみからも逃げることはできない。

 それを感じなくなることがあるとすれば、それは心のどこかが壊れた時だ。

 認めつつ、それでもエイダはゆっくりと剣を振り上げた。

 もはや溢れる涙を抑えることはせず顔をくしゃくしゃにしながら、それでも真っ直ぐにセインを見つめる。滲む視界の中ではセインが穏やかな笑みが浮かべていた。

 たとえ幻であっても、彼を斬れば心に癒えることのない傷を抱え込むことになるだろう。それこそ心のどこかが壊れるかもしれない。

 それが分かっていても、もはやエイダは止まれなかった。

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