白い、白い、どこまでも白い世界。
冷たい結晶は木々も大地も、すべてを白く染め上げて、なおも満足することなく舞い降りてくる。
正直、雪は好きではない。ふれれば冷たく、見るからに寒そうで、降り積もればどこへ行くにも難儀する。おまけに溶け出せば滑り、跳ねた泥水で衣服を汚されことも少なくない。
それでも、白一面の世界で嬉しそうに、はしゃぐ妹の姿を眺めていると、雪もそう悪いものではないように思えてくる。
(俺も存外現金な奴だ)
苦笑する篤也の視線の先で、妹は傘を手に躍るようにクルクル回ると、ふり返って爽やかな笑みを浮かべた。
「どうですか、お兄様? このお洋服は」
普段は和服ばかり着ている妹だが、この日はめずらしく洋服姿だ。
「ああ、綺麗だ。よく似合ってるよ、雪菜」
率直な感想を口にすると、彼女はもう一度くるりと回ってから、眩しいほどの笑みを浮かべる。
「やっぱり、お兄様はお洋服の方がお好みだったんですね」
「いや、とくに拘りがあるわけではないが……」
「嘘ばっかり」
くすくす笑うと、雪菜はどこかイタズラめいた顔をしてみせる。
「だって、お兄様の恋人はいつだって、綺麗なお洋服をお召しではありませんか」
篤也はギョッとして雪菜を見つめ返した。自分に恋人ができたことなど一度も話していないのだ。それなのに、この村を出られない彼女がどうやってそれを知ったのだろうか。
「お兄様、浮気がバレた殿方のような顔をしていますわよ」
「か、からかうな」
なんとか言い返しはしたが自分が赤面していることには気づいていて、どうにも決まりが悪い。
「だが、どうして知っているんだ?」
気になって問いかけると意外にアッサリ答えが返ってくる。
「星史郎お兄様が教えてくれたんです」
それは篤也の兄、西御寺家次男の名前だったが、実のところ、ほとんど顔を合わせたこともない。噂では篤也が毛嫌いしている父親――西御寺
「やっぱり、お兄様方のこともお嫌いなのですね」
雪菜はとくに悲しげではなく、面白がるような口調だ。だから篤也も安心して本音を返す。
「好きではないな。しかし、そもそもろくに面識もないから、毛嫌いすることさえできていないが」
「それで良いと思います。お兄様は家のことなど気にせず、ご自分の信じた道を歩み続けて下さい」
「……雪菜?」
ここに来て篤也は、ようやく違和感を感じた。
いつもは家から出たがらない雪菜が、どうして雪の降りしきるこんな日に自分を外へと連れ出したのか。どうして今日に限って洋服など着ておめかししているのか。
答えを導き出せずに戸惑っていると、雪菜は急に大人びた顔で篤也を見つめた。
「ごめんなさい、お兄様。これは雪菜のワガママです」
「何の話だ?」
意味が分からずに問う。
「こんなことをお兄様にお願いするのは酷だと分かってはいるんです。でも……」
「雪菜?」
ひどく嫌な予感を抱いて妹に駆け寄ると、篤也はその肩に触れた。
「なっ……?」
熱い。それも病気による発熱とは異質な熱さだ。見れば舞い散る雪が彼女の身体に触れるなり溶けて消えていく。傘を差していたため、すぐには気づかなかったが、明らかに異常だった。
「雪菜!?」
愕然として呼びかけると、雪菜はようやく苦しそうな息づかいを見せる。どうやら、ずっと無理をしていたらしい。
「ごめんなさい、お兄様。もう少しの間は、ご一緒できると思っていたのですけど……残念です」
「何を言っている、雪菜? 屋敷に戻ろう、ひどい熱だ」
「わかっているはずです、お兄様。雪菜はもう戻れません」
か細い囁くような声。口元には笑みこそ浮かべていたが、ひどく淋しげな笑顔だ。
「そんなはずあるか! 何か、何かまだ、何か手があるはずだ!」
妹に、あるいは自分に言い聞かせるように繰り返すが、篤也の中にはなんの妙案も存在しない。雪菜の症状は母のそれと同じだ。治療法など世界のどこにも存在しない。それは裏社会における常識でさえあった。
「お願いします。お兄様の手で、雪菜をお母様のところへ送って下さい……」
「雪菜……」
絞り出すかのような声で愛しい妹の名を呼ぶ。その手は隠しようもないほどに震えていた。
生まれながらにしてアイテールを際限なく取り込む体質を持った雪菜は、必然的に負の力を帯びた歪んだアイテールまで吸収してしまう。
ただでさえ、それは様々な怪異を生み出して人々に災いを為す力だ。そんなものを取り込めば生命として変質していくのは必然であり、最後にはマリスと呼ばれる怪物どもと同種の存在に変わってしまうだろう。
そうならないように俗世から隔絶された、こんな辺鄙な場所で暮らしていたというのに、いったいなぜこんなにも早く限界を迎えてしまったのか。施術師と呼ばれる、神秘に通じた医者の見立てでは、まだ十数年は持つとの話だったのに。
だが、それでも十数年だ。いずれはこんな日が来るのだと覚悟しなければならなかったが、篤也にはまだ覚悟の準備すらできていなかった。
今日の今日まで無意識に考えないようにしてきたのだ。
「お願いです、お兄様。雪菜はお兄様がいいんです……他の人の手で眠るのはイヤ……」
うわごとのようにつぶやく雪菜。か細い身体は今にも頽れそうに見えた。
悟らざる得ない。たとえそれがどんなに悲痛なことでも、この世には変えられない運命があるのだ。
篤也は自分の右手を開き、それをじっと見つめた。これからこの手で妹の命を奪わなければならない。
耐えがたいことだったが、もしここで篤也が雪菜の願いを拒んだとしても、彼女は別の誰かによって始末されることになる。それも、おそらくは兄である星史郎に。
きっと今もどこかでふたりを監視しているのだろう。おそらくは西御寺家の精鋭を引き連れて。
それでも……。
「ダメだ、雪菜。ふたりで逃げよう。そして探すんだ。お前を助ける方法を――」
「いけません。お兄様にはお判りのはずです。たとえ、ここから逃れたとしても、下界に降りれば雪菜は、さらに濃いアイテールに曝されます。そうなれば雪菜はバケモノと化して人を殺めるようになってしまう……」
「しかし……」
「大丈夫です、お兄様」
雪菜は精一杯の笑みを浮かべて見せた。そのやさしさすら、今は悲しい。
「お兄様なら乗り越えられます。だって、お兄様は雪菜のお兄様ですもの。こんなにも凜々しい……本当に……本当は……雪菜は……」
何かを言いかけて雪菜は取りやめたようだった。
ふいに篤也から身を離すと両手を広げて目を瞑る。覚悟を決めているのが篤也にも理解できた。
一瞬、吹きすさんだ風が視界を真っ白に染める。風はますます勢いを増して、雪はいつしか吹雪に変わろうとしていた。
篤也は、その風が目の前の現実を吹き飛ばしてくれれるように、雪がこの悪夢を埋め尽くしてくれるようにと願う。
しかし、そんな奇跡は起こらない。
雪菜は変わらず、そこに立っている。目を閉じてはいるが、彼女は自らの運命を真っ直ぐに見つめているのだろう。目の前の現実にさえ目を背けようとしている篤也と違って。
それでも、できないことはできない。情けなく胸の裡で繰り返す一方で、彼の理性は冷徹に告げていた。このまま長引かせれば長引かせた分だけ、雪菜は苦しむのだ。彼女の願いを叶えてやることこそが兄の務めなのだと。
篤也は黙したまま顔を上げると、妹の白い顔を見つめる。真っ白な雪よりも美しく穢れのない白。それは彼女の儚い人生のようにも思えた。
ここで逃げ出せば妹殺しの罪からは逃れられても、彼女の願いを踏みにじった罪を永遠に背負うことになる。
決断するまでもない。選択肢など最初からありはしないのだ。
「赦せ、雪菜……」
ようやく口を開くと、雪菜は瞼を閉じたまま嬉しそうに微笑んだ。まるで白い園に咲いた一輪の花のように美しく。
篤也は悲しみも愛情も罪悪感も――己の感情の一切を押し殺して指先に魔力を集める。
術師の常として武器は隠し持っていたが、それを使うつもりはない。そんなものに任せるわけにはいかない。
「さらばだ、雪菜」
愛情を脱ぎ捨てた冷たい声で告げた。
「さようなら、お兄さま」
愛情に満ちあふれたやさしい声が篤也の鼓膜を振るわせる。
それが彼女がこの世で発した最後の声となった。
瞬間、唸りを上げていた風が、一時その勢いを和らげた。時が止まったかのような白く冷たい静寂の中で、仄かな光を纏った雪だけが、たゆまなく舞い降りてくる。
やがて――永劫にも感じられた数瞬の時を超え、篤也の手が真っ直ぐに突き出された。
白一色だった世界に別の色が生まれ、少女の身体がゆっくりと雪の上に投げ出される。
篤也は声を発することすらなかった。
きっと、夢を見ていたのだ。
長い間、幸せな夢だけを見ていたのだ。
しかし、それはもう終わりだ。
目覚めの時が来た。
これが現実だ。
やさしさは、何も救いはしない。
だから、私はそれをここに捨てていこう。
未だ夢を見続けている人々のために。
篤也が事を為し遂げたあと、現れた星史郎は篤也に告げた。
「よくやった――と、言ってやりたいが、どうにも気持ちの整理がつかん。雪菜を殺めたお前が恨めしくもあり、選ばれたお前が羨ましくもある」
「些細なことですよ、兄さん」
微笑すら浮かべて篤也が答える。だが、それは愛情の一切が欠如した冷たい笑みだった。
「篤也?」
「こんなことは、この世には掃いて捨てるほどある。だからこそ、我々は冷徹にその芽を摘み取らなければならない。そうでしょう、兄さん?」
「あ、ああ……」
星史郎は曖昧にうなずいたが、その瞳はどこか篤也を慮っているようだった。
どうやら思っていたよりも、ずいぶんと甘い男のようだ。嘲弄にも似た想いが込み上げてくる。
それでも彼には感謝する必要があるだろう。
篤也が西御寺家に帰参する旨を告げると、率先して気むずかしい父の説得を引き受けてくれたのだから。
この日から篤也は、世界に災いを為すあらゆる存在を憎み、危険な存在とあらば、西御寺家の名の下に女子供でも容赦なく抹殺していった。
そんな篤也を耀は非難したが、聞く耳を持たずに任務に精励し、やがて彼女は黙って篤也の元から去って行った。
気がついた時には他の仲間も彼には寄りつかなくなっており、訪れる者など誰もいなくなった空虚な家で、篤也はひとりレコードを聴きながら、ぼんやりと思う。
朝日向耀は自分にとっての光だった。
そしてその光を遮ったのは、他ならぬ篤也自身だったのだと。
乾いた笑いが自然と込み上げて止められなくなるが、それは泣き顔のようにも見えた。