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幕間 -甘い口づけ-

 木之下絹子は陽楠市の公立高校に通う二年生だ。

 以前、ザンキに襲われて、教団の者からハルメニウス教団のペンダントを受け取ったひとりで、屋上での召還の儀式にも参加していた。

 しかし、そのすべてを今は完全に忘れている。

 円卓の決定によって、魔術師による一般人の記憶消去が実施されたためだ。

 そのため周囲の人々から、一時期様子がおかしかったとか、奇妙な宗教にかぶれていたなどと言われることがあるが、本人にはまったく身に覚えがなく、変な勘違いをされているていどにしか考えていなかった。

 ただ、時々奇妙な感覚に襲われることがある。

 何かを忘れているのに、それを思い出せないという、もどかしい思いがこみ上げてくるのだ。

 とはいえ、それも一過性のもので、普段はごく普通の高校生活を謳歌している。とくに最近は部活に精を出しており、物思いにふけっているほど暇ではなかった。

 その日も練習でくたくたになって帰宅し、やや大げさに足を引きずるようにしながらマンションのエレベータに乗り込んだ。


「もうこんな時間か……」


 絹子はいつもの習慣で腕時計の針を確認する。誕生日プレゼントに父からもらったお気に入りのアナログ時計は、ちょうど午後六時を指していた。


「お疲れのようですわね」


 突然声をかけられて驚く。慌てて視線を向けると、そこに見覚えのない美しい娘が立っていた。

 年の頃は絹子と同じくらいに見えるが、どこか大人びた印象があって、推測するのが難しい。


「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったのですが」


 謝罪されて、絹子はやや慌てた。


「い、いえ、こちらこそ」


 言いながら何が「こちらこそ」なのかと首を傾げる思いだったが、出した言葉は取り消しようもない。もっとも相手は気にしなかったようで、やさしく微笑むと、綺麗な瞳で真っ直ぐに絹子の目を覗き込んできた。

 なんだか吸い込まれそうな、不思議な気分にさせられたが決して不快ではない。


「ふふ……可愛いですね、あなた」

「そんなことは……」


 謙遜を口にするが、ほとんど反射的に出た言葉で、すでにまともにものを考えることができなくなっている。

 目の前の女は瞳に妖しい光を灯すと、そのままそっと絹子を抱き寄せて、小さな唇を奪った。

 絹子は自分が何をされているのかも分からず、ただぼんやりと心地良い唇の感触に身を任せる。

 頭の片隅で本能的な警鐘が響いていたが、最後まで抗うことはできなかった。

 うっとりと瞼を閉じて、そのまま身を任せる。

 もっとも相手はそれ以上は何もしてくることはなく、唇を重ねたまま、そっと絹子の頭を撫で続けていた。



 エレベータが目的の階に止まったところで絹子はふと我に返る。


「あれ? 立ったまま寝てた?」


 絹子は小首を傾げながらエレベータから降りた。

 誰かに出会った気がして振り向くが、自分以外には誰も乗っていない。

 まさかずっと寝てたのではあるまいなと腕時計を確認したものの、マンションの前に着いてから、さして時間は経っていなかった。


「いかんなぁ。頑張りすぎだなぁ、わたし」


 冗談めかして口にしながら歩き出す。

 たぶん、疲れているのだ。そう結論づけて、それ以上深くは考えなかったが、奇妙に甘い感じが唇に残っていて、それだけは少し気になっていた。

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