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第108話 心の余裕

 篤也の場合、遠出するからといって、改めて用意しなければならないものはない。

 金色の回転鋸バトルソーを除けば戦闘に必要な道具一式は常に隠し持っており、緊急用の医薬品や包帯の類いは車のトランクに入れてある。

 それでも念のためにトランクのカバンを開けて、不備がないかをチェックしてみた。


「問題はなさそうだな」


 つぶやいた後、ふいに顔を強ばらせる。


「いや、私としたことが大事な物を忘れていた。エロ本だ」


 口にした途端、背後で希美の声が響く。


「いらないだろ、思いっきり! 何をしに行くと思ってるんだ!?」


 まったく驚くことなく振り向くと、篤也はやや意地の悪い笑みを浮かべた。

 それを見て希美も気づく。


「気がついていたのか……」

「私のかつての職業を忘れてもらっては困るな」

「暗殺者……か」

「いや、痴漢だ」


 真顔で告げると、希美は突然振り向いて声をあげた。


「おまわりさーーーん!」

「待て、冗談だ」


 慌てて背後からその口を塞ぐ。


「むぐぅぅっ」


 思わず羽交い締めにしてしまったため、むしろ本物の痴漢のようになってしまったが、そもそもここは校内の駐車場なので警察官が来る心配はなかった気がする。


「とにかく冗談だから騒ぐな。いいな?」


 言い聞かせると、希美は涙目でうなずいた。

 とりあえず解放すると、彼女は猛ダッシュして、じゅうぶんに距離を取ってからふり返って身構える。


「今のはシャレになってない!」

「そんなに遠くに行かれると、よく聞こえんのだが」


 篤也が告げると、それが聞こえたのか聞こえてないのかはともかくとして、やはり会話に不都合があると感じたらしく元の場所まで戻ってくる。


「思ったより平然としてるじゃないか。心配して損した」


 視線は合わせず、口を尖らせてつぶやく。

 それで篤也も希美がここに来た理由が分かった。


「やはり、お前も気がついていたのだな」

「前に話を聞いたからな」


 未来が作りだした結界の中で、篤也がトラウマに直面させられた時の話だ。そこで篤也は彼の妹――雪菜の身に起きた悲劇について語って聞かせた。

 特殊な体質を持つ彼女は、負の性質を帯びたアイテールの影響によって、いずれはマリスに変異してしまう運命にあった。

 しかし、専門家の見立てよりも遙かに早くその時が訪れ、篤也は妹に懇願されて、自らの手でその命を奪った。


「当時から不思議だったのだ。どうして変異が加速したのか」

「もし、ハルメニウスがその頃から、あの村に潜んでいたとしたら……」


 痛ましげに目を伏せる希美。


「西御寺家による調査では何も見つからなかったが、あれは他のマリスと違い、怖ろしく狡猾で慎重だ。巧妙に息を殺してやり過ごした可能性はある」

「だとしたらハルメニウスは先生の妹の……」


 希美が言わんとすることは、もちろん篤也にも分かっている。

 実際部室では少しばかり頭に血が上りかけた。


「心配するな、雨夜。今の私は生真面目な昔の私でも、暗殺者だった頃の私でもない。今はの私は――」


 篤也は、わだかまりを捨てて、その職責に相応しい笑みを浮かべる。確かな誇りを胸に明瞭な声で告げた。


「お前たちの教師だ」

「…………」


 希美は意外な言葉を聞いたかのように、少しだけ驚いた顔をした。それがすぐに嬉しそうなものに変わる。


「先生は本当に変わったんだな。昔とは全然違う」

「だとしたら、私を変えたのはお前だ」

「わたし?」


 きょとんとする希美。


「過去を悔い、生き方を変えてはみても、私の時間は結局あの吹雪の中で凍りついていた」


 結界の中で改めて目にした凍えるような冬の嵐。それはどこまでも凍てついた悲しいだけの記憶のはずだった。

 しかし、


「あの冷たい記憶をお前が変えてくれたのだ」


 瞼を閉じて、その日のことを思い返せば、自然とそれに重なるように希美の姿が浮かんでくる。

 つらく悲しい記憶に、温かな思い出が、ごく自然に重なるのだ。


「だから心配するな。復讐などに拘りはしない。聖を助け出して必ずみんなで戻って来よう」

「う、うん。けど、わたしは大したことはしてないぞ」


 照れて頬を赤らめる希美。相変わらず感謝されたり、褒められたりすることに慣れていないようだ。それでも篤也は言ってやりたかった。


「いや、お前は大した奴だ。いつも感心させられてばかりだ」

「な、なんでそんなに褒めるんだ。おだてたってなんにも出ないぞ。お尻もさわらせないからな!」


 日頃の行いのせいか、余計な一言を付け加えてくる。篤也は面白がって悪ノリした。


「ああ、さわるのは胸でいい」

「誰がさわらせるか??!」


 大声で叫ぶと、長い黒髪を振り乱しながら走り去っていった。

 それを笑顔で見送っていると、突然背後にどす黒い気配が生まれる。


「バカな!」


 背後を取られたことに少なからず動揺して振り向くが、そこで篤也はさらに動揺する羽目になった。


「よっぽどあの娘のことがお気に入りなのね」


 朝日向耀である。

 顔中に脂汗をかきながら篤也が答える。


「い、いや、それは誤解だ。彼女は教え子の一人にすぎない」

「つまり、女子高生みんなが好きなのね」

「そ、その好きは何かニュアンスが違う気がするが」

「いいわよ! どうせわたしなんて見た目だけのロリババァだものね!」


 今一つ意味の分からない捨て台詞を残して、耀も走り去っていく。

 取り残された篤也は思わず天を仰いだ。


「やはりもう少し真面目なキャラ付けをしたほうがいい気がするな……」


 もっとも、こんなおかしなキャラを演じているからこそ、こんな状況下でも心の平静を保てている気がする。

 少なくとも以前の篤也ならば、ハルメニウスへの復讐心に呑まれて暴走していたはずだ。

 それを思うと、変人を演じろという秋塚千里のアドバイスは実に的確だった。

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