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第136話 冬の終わり

 実際のところ、ハルメニウスにはもう満足に飛行術式を維持する力はなかった。あの状態で飛んで見せただけでも驚きだ。

 篤也たちからじゅうぶんに遠ざかったところで、失速して、そのまま墜落していく。


「くっそ、間に合え!」


 希美は魔力を振り絞って加速すると、なんとか手を伸ばして、その身体を抱き留める。

 それでも受け止めるのが精一杯で、体勢を立て直すことはできずに、雪の上を滑るようにして軟着陸した。

 全身雪塗れになって気持ち悪いが、そんなことを気にしている場合ではない。口の中に入った雪を吐き出しながら身を起こすと、すぐ傍らで突っ伏している深天ソックリの少女を抱き起こす。


「おいっ、しっかりしろ!」


 身体を揺すりながら呼びかける。


「雪菜!」


 繰り返し、何度かその名で呼ぶと、彼女はようやくうっすらと目を開けた。

 希美の顔を見て、弱々しく、か細い声でつぶやく。


「ごめん……なさい……わたし……なんてことを……」

「負のアイテールは人の心を狂わせる。その中でむしろ、本来の人格を維持していたことの方が奇跡的だ」


 希美が告げるとハルメニウス――いや、雪菜は弱々しく微笑んだ。


「あの日……わたしは愛するお兄様の手にかかって、満足して死んだはずでした……」


 遠い目をして雪菜は語る。


「でも、その時点ですでにマリスと化していたわたしは、肉体が死んでも消えることなく、そこにお兄様の思念が流れ込んできたのです……」



 きっと、夢を見ていたのだ。

 長い間、幸せな夢だけを見ていたのだ。

 しかし、それはもう終わりだ。

 目覚めの時が来た。

 これが現実だ。

 やさしさは、何も救いはしない。

 だから、私はそれをここに捨てていこう。

 未だ夢を見続けている人々のために。



「それは決意の形を借りたお兄様の絶望でした。わたしのあまりにも身勝手な願いは、わたしの最愛の人を壊してしまった……」


 潤んだ瞳から涙がこぼれ、白い頬を伝い落ちていく。


「鎮のこともそうです……あの子はわたしを取り戻す計画に参加するために、自分の身体まで造り変えてしまったのに……マリスとしての悪意に呑まれたわたしは、それに気づきもしないで……」

「もういい。お前は残酷な運命に翻弄されただけだ。自分を責める必要なんてないんだ」


 希美が告げると、雪菜の表情は少しだけ和らいだ。どこか眩しいものを見るような目をして口を開く。


「おやさしいのですね」

「やさしい人に憧れて、その真似をしているだけだ」

「あなたがやさしい人に憧れるのは、あなた自身がやさしい人だからです。わたしも、あなたみたいに生きたかった……」

「雪菜……」


 衝動的に気休めを口にしたくなるが、希美には分かっていた。

 雪菜は助からない。仮に助ける方法があったとしても、力が戻れば再びマリスとしての性質に翻弄されて正気を失うことになる。それでは結局、なんの意味もない。

 人間としての彼女はとっくに死んでいて、その事実を消すことなど何人にもできないのだ。

 冷徹にして普遍の摂理。それを前にしたとき、いかなる人間も絶望する以外に道はない。

 もし、それを覆す方法が見つかれば、人は世界を壊してでも、それを実現しようとするだろう。


「あなたのお名前を教えてくれませんか……?」


 雪菜に問われて、希美は少しだけ逡巡するが、すぐに答えを返した。


「明日香希美だ」


 その名を噛みしめるような顔で雪菜がうなずく。


「ああ……とても素敵なお名前ですね。未来あしたに向かって希望を抱けるような……」


 囁くようなか細い声だった。その未来あしたも、そこにかける希望も彼女には残されていないのだ。

 悲しみを押し殺して希美は笑みを浮かべる。


「雪菜だって、いい名前じゃないか。白くて清らかで、お前によく似合ってる」

「ありがとうございます。わたしも……気に入っているんです」


 愛する人に呼ばれた名前は誰にとっても特別なものだ。小夜楢未来が「希美」ではなく「未来」の名を選んだのも、それが理由だろう。

 消え入りそうな声で礼を口にすると、雪菜は視線を空に向けた。

 吹雪も消えて、そこには果てなき蒼穹が広がっている。


「もう……夏なんですね」

「ああ」

「あの時、わたしは二度と、春を目にすることはないのだと覚悟を決めたのに……おかしな話です……」


 苦笑する雪菜。彼女が宿るその器から、小さな光がゆっくりと立ち上り始める。マリスとしての彼女が限界を迎えたのだ。


「雪菜……」


 囁きながら手を握ると、彼女もまた弱々しくはあったが希美の手を握り返してきた。


「お兄様をお願いします」


 雪菜の願いに希美は務めて明るい笑みを浮かべた。


「先生なら大丈夫だ。いろいろあったけど、あの人は絶望だって、ちゃんと乗り越えたし、恋人だって戻ってきた」

「そうですか……わたしは壮大な取り越し苦労をしていたようですね」


 苦笑気味につぶやくが、その表情は穏やかで、安堵しているのが見て取れた。

 雪菜の視線を追うようにして、希美もまた遠い空を見つめる。一面の白い大地と悠久を感じさせる蒼穹のコントラストは掛け値なしに美しい。

 あの日、篤也のトラウマの中で見たのは凍てつくような冬の景色だったが、雪菜が最期に目にするのは、この青の世界こそが相応しいように思えた。


「ありがとうございます、希美さん」


 身体から立ち上る光が目に見えて薄れていく。

 瞼を閉じてそのまま眠りに就こうとする雪菜に、希美はあえて言葉を返した。


「雪菜、たとえどんな形であっても、わたしはお前に会えて良かった」


 雪菜は少しだけ驚いたようにもう一度目を開けた。その顔をやさしく見つめる希美に、涙でくしゃくしゃになった笑顔を向ける。


「はい、わたしもです」


 それを最後に彼女の身体から最後の光が立ち上って消えた。時が止まったかのような白い世界に静寂が訪れる。

 これにてハルメニウスにまつわる事件は終わりだ。戦いには勝利したが、意外な形で失うものもあった。

 希美は金色の鎌プレアデスに目を落として、ぼんやりと考える。

 六年前の陽楠学園で、この武器を手に篤也や神獣と戦った昴も、同じような痛みを味わったのだろうか。救おうとしていた少女を救いきれずに永遠に失ったと知って……。

 頭を振って感傷を振り払うと、希美はイブ・ゼロスリーの顔を覗き込んだ。

 声をかけるまでもなく、ゆっくりと瞼を開いた彼女は神妙な顔をしてつぶやく。


「結局、あれは人間だったんだな」

「記憶があるのか?」


 希美が訊くとイブ・ゼロスリーは無言でうなずいてから、ゆっくりと上体を起こした。そのまま雪菜が光となって消えた跡をたどるように視線を空に向ける。


「ハルメニウスがわたしの中に入ってきてから、わたしはずっとその冷たさと刺々しさに怯えていた……だけど最後に感じたのは、泣きたくなるような愛おしさとぬくもりだった」


 空っぽの両手に目を落として淋しげにつぶやく。


「彼女はどこに消えてしまったんだろう……」

「さあな」


 曖昧に答えてから、希美は空を見上げて言い直した。


「あの光は空に上っていったんだから、たぶん天国だろ」

「天国か……」


 希美につられるように空を見上げると、イブ・ゼロスリーはやわらかな笑みを浮かべた。


「そうか……そうだといいな」


 朋子から聞かされた話によれば、イブ・ゼロスリーの気質は、以前敵対した他の人造生命体ホムンクルスと同様の好戦的なものとのことだったが、雪菜の心にふれたことで心境の変化が生じたようだ。


「彼女のことは誰にも言うなよ」


 念のために釘を刺すと、イブ・ゼロスリーは肩をすくめた。


「言えるわけないだろ」


 結局、あれは雪菜ではなく彼女に取り憑いたマリスでしかなかった。

 彼女のためにも、篤也にはそう告げるしかない。

 聡明な彼は察してしまうかもしれないが、それでも真相を追究しようとはしないだろう。それこそ妹の気持ちを慮るがゆえに。

 希美はイブ・ゼロスリーに手を貸して立ち上がらせると、仲間たちが待つであろう方角に視線を向けた。

 どこかで鳥が鳴き、それを合図にしたかのように、ゆるやかな風が吹き始める。

 長い黒髪を揺らしながら、希美はゆっくりと歩き始めた。

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