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第139話 明日香希美

 頭の中に響いた声はテレパシーのようなもので、発信源は特定できない。

 だが、この場にいるのは希美以外には目の前のニワトリだけだ。


「コカトリス……お前なのか?」


 恐る恐る訊ねると、そいつはもう一度心の声を響かせた。


『私はかつて、お前に喚ばれてこの地に降り立ったものだ』

「お前は……」


 畏怖すら感じながらつぶやく。相手の言葉が意味するものはひとつしかない。


「神獣……なのか」

『奇妙な縁だな、小夜楢未来』


 どこか面白がるように、そいつは古い名前で希美を呼んだ。

 青ざめた顔で息を呑む。もちろんそいつのことはハッキリと覚えている。忘れられるはずもない。かつて、すべてに絶望した希美が世界を終わらせるために、高月由布子を依り代にして呼び出した究極の神秘的存在だ。

 本来であれば人心が荒廃し、世界が穢れきった時に現れ、すべてを滅するとされているが、どちらにせよそいつは昴と由布子に追い払われて、何処へともなく去ったはずだった。それがどうしてこんなところにいるのか。

 怯える希美に気を使ったのか、そいつは小首を傾げるようにして告げてくる。


『安心しろ、私はただ世界を観察しているだけだ』

「観察……?」


 オウム返しに問うと、人間のように首を縦に振ってうなずいた。


『そうだ、未来。私はお前を見ていた。お前が篤也に殺されたあと、何が起きたのかも知っている』

「…………」


 希美は黙って見つめ返したあと、下を向いて弱々しくつぶやく。


「できれば、その呼び名はやめて欲しい……あいつと区別が付かないから」

『ふむ、まあ良かろう』


 尊大にうなずくニワトリの前で、希美は瞼を閉じると、その日のことを思い返した。

 もうひとりの未来は気がついていなかったが、彼女の邸宅で結界に閉じ込められたとき、希美が突きつけられたトラウマは篤也に殺された時のものだ。

 素早く術式を解体したために一瞬ですべてが崩れ去ったが、もしあのまま続けていれば、呪黒四尖槍カースドパイルを手にした篤也の幻が現れていたことだろう。

 希美は彼が投擲したその槍から、由布子を守るために自分の身を盾にして、その命を散らした。

 それが死の記憶なのか、今際の際に見た夢なのかは定かではないが、暗く冷たい闇の中へとどこまでも沈んでいく感覚は今でもハッキリと覚えている。

 悲しみも絶望も含めて人生で培った何もかもが自分の身体から剥離し、無に近づいていく中で、恐怖すら感じられなくなった希美の手を、ふいに誰かの温かな手がつかんだのだ。

 気がつけば希美は金色の光の中にいて、目の前では見たこともない美しい人が微笑んでいた。


「これは魔法よ。大事な大事なあの子のために、わたしが世界にかけた魔法」


 噂には聞いたことがあった。すでに命を落とした稀代の魔女が、世界そのものになんらかの魔法をかけたと。


「あの子が望んでいるわ。だから、あなたは生きなさい」


 とてもやさしい声で彼女がそう告げると、淡い光が世界を満たし、そして――


『お前はそれが誰なのか、もちろん分かっているはずだ』


 希美の意識を覗いていたのか、そいつはそこで口を挟んできた。

 瞼を開けて答えを返す。


「……星見咲梨」


 それは昴が姉と呼んで慕い続けた最愛の人の名前だ。正しくは従姉だが、彼女もまた昴のことを弟と呼んで溺愛していたという。

 おそらく彼女が世界にかけた魔法は、目の前で希美を失った昴の慟哭に応える形で発動したのだろう。

 人類史上最高とも謳われる彼女の魔法は不可逆を覆し、希美を世界へと呼び戻した。

 しかし、次に希美が目覚めたのは、その時点より九年前で、さらには記憶を持たない赤子に戻されていたのだ。


『なるほど、絶対不可逆の死を覆すために時間を巻き戻したものの、必要以上に時間が巻き戻ってしまったのだな。いや、あるいは死の運命から切り離すためには、それだけの時間が必要だったのかもしれん』


 考察するコカトリスの声はどこか愉しげだ。


「当然ながら、その時代には本来のわたし――つまり、今の未来もいたんだけどな」


 投げやりに告げると、コカトリスはその答えも口にする。


『だからお前は記憶を失ったのだ。もうひとりの自分に干渉できぬようにな。だが、それは咲梨の魔法の効果ではなく、パラドックスに対する世界の自衛作用によるものだろう』

「なるほど。それで、本来のわたしが命を落としたその瞬間に、わたしは記憶を取り戻したんだな。もはやパラドックスの心配はなくなったから」

『うむ、世界というものは実に良くできたものだな』

「そうでもないだろ」

『うん?』

「未来のことだ。結局、わたしはふたりに増えてしまっている」

『それは細胞分裂で説明がつく』

「え……?」

『冗談だ』

「神獣って、冗談が言えるのか……」


 やや唖然としていると、今度は真面目な声で語りかけてきた。


『まず説明しておくが、彼女が生き延びることになったのは、本来は死んでいるはずのお前がデッドラインを越えたことで、明日香希美という存在が死の運命から逃れたためだ』

「え……?」

『つまり、咲梨が何もしなければ、お前も彼女も未来を得ることはできなかった』

「そういうものなのか……?」

『それが世界の摂理というものだ、魔術師よ』

「そうか……わたしがいたからか……」


 希美はうつむき、寂しげに笑う。


「なら、あの人がしてくれたことは無駄じゃなかったんだ」


 自分が小夜楢未来だと知っていた希美は、当初もうひとりの未来を偽者だと考えていた。

 しかし、そうでないことが分かると、当然ながら疑問を持つ。

 自分を救ってくれた咲梨の魔法は、本来必要のないものだったのではないかと。

 だとすれば貴重な魔法を無駄に使わせてしまったことになると思ったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。


『どちらにせよ、それによって今やお前と彼女は別人として世界に認知されている。どちらの記憶にも補正がかからないのがその証拠だ』

「かかっていたら、それこそ大変だ」


 肩をすくめる希美。

 コカトリスはその瞳を真っ直ぐに覗き込んでくる。


『だが、彼女が本物であるように、お前もまた本物の小夜楢未来だ。人格の齟齬は一時期記憶を失くしたお前が、以前とは異なる環境で十年近い年月を送ったことによるものだ。だが、それも表層的なもので本質的には何も変わっていない。隠す必要がどこにある?』

「しかたがないだろ」


 希美は諦観を感じさせる笑みで応じた。


「死を覆す手段があることも、時を遡る力があることも、人間が知っていいことじゃない。もしその実在を知れば、人間はいかなる手段を用いてでもそれを手にしようとするだろうからな」

『どういうことだ』

「死者は生き返らない。過去は変えられない――それは絶望だけど、それがあるからこそ人間は目の前にある世界を受け入れて、明日に希望を抱くことができるんだ。それなのに、もしその絶望が覆されれば――不可能が可能になると知れば、人間は今の世界を拒絶し、未来を否定してしまう。誰しも大切な人はあきらめられず、忌まわしい過去があればそれを消し去りたい願うものだからな」


 言い終えてから、希美は淋しげに笑った。

 神妙な顔をするコカトリス。


『世界は絶望によって守られているというわけか』

「ああ。皮肉な話だけど、人間にはそれが必要なんだ」

『世界を守るために孤独を受け入れるというのか』

「今のわたしは孤独じゃない。仲間もいるし、友達もできた」

『そのどちらもが、明日には捨て去る関係だ』


 コカトリスの射抜くような眼差しの前で希美は表情を消していた。

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