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02 その目で見る本当

或斗が、自分の目で見たもの以外、"本当"ではないと気づいたのはこの日である。




ダンジョン社会でダンジョン適性の低い孤児の立場がいかに悪いかという話はもはや耳タコだろう。


そんなわけでと結ぶのはいささか乱暴ではあるが、大体の孤児は警察が嫌いである。


それは孤児院から小金をかっぱらっていったこすい窃盗犯の捜査が適当だからであったり、知らない適当な空き家でダンジョンネズミを捕まえているのが見つかったら厳重注意を受けるからであったり、19時以降の出歩きに職質めをつけられたらダンジョン攻略者証明書を出してもしばらく解放されないからであったり、様々な要因がある。


ダンジョン社会ではダンジョン攻略者であれば18歳以下でも22時までの外出が認められているのだ。


こちらはどこからどうみても正当なモグリの恰好をしているというのに、見た目が少々幼いからとかガタイが良くないから(大きなお世話である)とか難癖つけられてダンジョン攻略者証明書の提示をいちいち求められるのは非常に遺憾である。


コイツら全員暇なのかと疑う。


つまり遠川 或斗16歳孤児も例にもれず、警察のことは嫌いである。


だからといって、放課後アポなしで家に押しかけて来た警察の捜査員を横柄に追い返せるわけはないのが問題だ。


まあ或斗は個人的な通信手段を持っていないので、アポなし訪問はやむを得ないのだが。


ともかく或斗は警察の捜査員を名乗り警察手帳を見せてきた2人組を、使っていない客間っぽい汚い部屋にあげ、客用なんて概念は或斗の家に存在しないため、適当な100均のコップに水を入れて出した。


当然出したコップは捜査員たちが帰るまで一度も触れられることは無かった。


さて、訪問時の文句はお決まりの「ちょっとお話伺いたいのですが」である。


或斗がまず疑ったのは1週間少し前に買取に出した傷んだ竜牙茸3本のことだった。


やっぱり盗品だと思われて通報されたのだろうか。


その場合は非常にまずい。


盗んだ証明は簡単だが、盗んでいない証明は非常に難しい。


悪魔の証明だ。


そう何度も通っていないダンジョンのどこで何を採取したかなんて1週間以上も覚えているわけがなし、ちょっとどうしたものかと頭を悩ませた。


しかし、捜査員が切り出したのは或斗が予想だにしない人物の話だった。



親留 未零ちかどめ みれいさんをご存じですよね」



ちかどめ、親留。


確かに未零はそんな苗字をしていたと思う。


ここで首を横に振る意味は何もない、或斗は素直に頷いた。



「彼女とのご関係は?」


「関係と言われても……同じ孤児院出身の、子供です。もしかすると、他より少し親しかったかもしれませんが……」



もしかすると、というか実際にそうだった。


未零は本当に奇妙な話だが、或斗以外の子供と交流こそあれ、友達と呼べるほど親しく話したりはしていない少女だった。


ここで少し、捜査員の話しぶりは不可解ではないかと気が付く。


未零は亡くなった人間だ。それも5年も前に。


或斗との関係性なんて、少し調べたら分かることで、亡くなった人物なのだからそれ以降に関係性が更新されることもない。


捜査員は、まるで――



「親留 未零さんと、この5年間お会いになったことは?」


「……は?」



まるで、未零が生きているかのような口ぶりで言う。



「あるわけないじゃないですか、しん……死んだんですよ。5年前に」



或斗の口から未零が死んだという事実を言葉にするのは初めてだった。


そのせいで少し詰まって、捜査員はその間を怪しんだようだった。



「本当に? 何か隠していませんか?」


「何を……何を隠すっていうんだ、死んだ人間と会えるわけない、何なんですか、未零の幽霊でも出たって言うんですか」



怒りか、困惑か、かさぶたを弄られる痛みだろうか、声が上ずって震える。


捜査員の年配の方がじっくりと或斗の表情を観察しながら、年若い方に合図する。


すると年若い方の捜査員がタブレット端末を出して、1つの映像を或斗に見せた。


それはどこかの監視カメラか、ドローンの映像のようで、画面の右下に「2050.05.12」と日付があるが、最近のものにしては画質が荒い。


戦闘の映像のようだった、銃弾と魔法が画面の端から端へ飛び交っている。


何人もの人間が画面の中で吹き飛んだり、千切れ飛んだりしている。


顔を顰めながら映像を見ていると、炎系の魔法攻撃だろうか、突然画面にカッと白熱した光が満ち、しばらく煙で何も見えなくなる。


しばらくして煙が一瞬途切れたとき、煙の合間に人影が見えた。


桃色の髪に緑の目、荒い映像でも分かるほどに整った顔。



「……未零?」



その辺のモグリよりは上等そうな、しかし彼女の美貌には似つかわしくない黒いローブを羽織った人物の顔は、映像の荒さを理由に否定できないほどには、未零その人であった。


数秒映ったその人物はそのまま画面外へ立ち去ってしまった。



「これは友好国内で起こったテロの際の監視カメラの映像です」



間抜けに口をポカンと開けている或斗を見て疑いを解いたのか、年配の方の捜査員がそのように告げた。



「親留 未零さんはテロ組織に所属している疑いがあります」


「そ、んな馬鹿な!」



思わず或斗は立ち上がる。



「何かの間違い……合成映像なんじゃないですか!? だって、未零はとっくに」



死んでいるんだから。


そう主張する前に、年配の捜査員が口を開く。



「5年前、親留 未零さんの遺体は見つかっていません」



ひゅ、と或斗が息を呑み込む音が部屋に響いた。

まさか、未零が生きている? しかしそれなら何故――或斗は頭がグラグラと揺れる感覚にふらついた。



「当時の状況判断で、亡くなったとされたとのことです」



或斗を見上げる捜査員の目は、そんなことも知らないのならコイツはシロだな、とそんな風に言っているようだった。






或斗は夕飯時に、元居た孤児院を訪れていた。


というのは警察の話がどうにも信じられず、墓にでも参れば未零の死を、未零が犯罪組織に加担しているかもしれないなんて話が突飛な妄言であることを確認できるのではないかと考えたからだ。


そこで未零の墓の場所を知らないことに気付いた。


さすがに愕然とした。


自分がどれだけ未零の死を避け続けていたのか、墓参りにすら来ない幼馴染を未零はどう思うだろうか、未だ整理のつかない頭でぼんやり考えながら、1年前まで自分の居場所だった施設へ来たのだった。


最低ランクの孤児院にインターホンなんて上等なものは無いため、門を素通りして勝手知ったる元我が家へ入る。


食堂の裏の調理場を尋ねてみると、予想通り職員が交代で遅めの夕食を取っているところだった。


職員たちは或斗を見るなり、ものすごく迷惑そうな顔をした。


第一声はお金は無いわよ、だろうな。或斗は確信した。



「お金は無いわよ」



或斗の脳内をなぞるようにピッタリ同じ言葉を発した職員へ、或斗は首を横に振って答える。



「金の無心じゃない。相変わらずのボロい裏庭に、金の臭いなんて少しもしないしな。今日は未零の……親留 未零の墓の場所が知りたくて」



そう言うと職員は困惑顔で、「未零ちゃんのお墓?」と繰り返した。


職員たちは顔を突き合わせていくらか話し合っていたが、やがて気味の悪いものを見る目で職員の一人が言った。



「未零ちゃんのお墓の場所なんて、うちには何も話は来てないわよ。もう出てった子だったし、あの『暁火隊ぎょうかたい』に入ってたんだから、そっちで立派なのが作られたんじゃない?」



『暁火隊』、確かにそのパーティに入っていった記憶がないでもない。


『暁火隊』は9年ほど前からある有名パーティで、噂で聞いたところによると動画配信などはあまりやっておらず、しかし実力派で国から仕事を任されることも多いとか、なんとか。


無論、そんな社会的に力のある有力パーティに連絡を取る方法など、或斗が持っているわけもない。


スマホすらないのだから。


そしてこの職員が或斗のために『暁火隊』に連絡をとってくれることもないだろう。


土下座したって一銭にもならないそんな面倒ごとは引き受けない。


そもそも連絡がとれるかどうかから怪しいところだ、最低ランクの孤児院の職員の社会的立場なんて、孤児より少しマシなくらいなのだから。


或斗は当てが外れて内心途方に暮れたが、そろそろやっぱり金の無心なんじゃないかと疑ってこちらを睨み始めた職員の顔を見ているのも嫌になり、会釈だけして去ることにした。


或斗が去るときの職員の顔といったら、塩でも撒きそうな様子であった。


塩にもお金がかかっているので、実際に撒くことはないだろうが。


或斗は孤児院を出て、自宅へ帰る道すがらため息を吐く。


自分に言う資格は全くないが、孤児院の誰も、未零の墓参りさえしようと思わなかったのだ。


未零が居る間、有名パーティに入って出て行くとき、あんなにも祭り上げていたというのに。


もし未零が幽霊にでもなっているとして、誰も来ない、あんなに構いつけてやった或斗だって一度も顔を出さない墓をどう思っただろう。


孤児院の人間を、いや、或斗の薄情さを恨んだろうか。


その考えに答えるようにして、或斗の行く道の先から低い男性の声がかけられた。



「よう、薄情で頓馬な、幼馴染くん」



通りに他の人影はなく、明らかに或斗へ向けて放たれた言葉は、しかし或斗には見覚えの無い人物からのものだった。


街灯の下、180cm以上はありそうな背の高い、海と似た青髪に不思議な色の瞳の、シンプルだが造りの良い服を着こなした容姿端麗な男性が立っている。


男性の瞳は暗い青紫に明るい赤の入った、暁闇と言い表すのが似合っている、そんな色をしていた。


髪は首筋にかからない程度の短さで、夜の闇の中では顔に青みのある影を落として、ほの暗い印象を受ける。


そんな印象は、彼がその双眸からハッキリと、目の前の或斗を侮蔑しているのが分かるからだろうか。



「誰だ? ってツラしてるな。そりゃそうか、幼馴染の墓が無いことすら、今日知ったような間抜けならな」



クク、と喉を鳴らして、男性は長い足を踏み出してゆっくりと或斗に近づいて来た。



「遠川 或斗、16歳、男、親は無しで孤児院出身、顔はパッとしない不幸面の抜け作、ダンジョン適性はパッとしないどころか無しときた、運にも天にも見放されたみそっかす」



1mもないような近距離から、男性は或斗を見下して嗤った。


けれどいつも或斗が学校で受けているのとは、侮蔑の種類が違う。


男性は何か、或斗の適性が云々と言いながらも、そんな浅い部分でないところで、或斗を蔑んでいるように見える。


初対面、なのに。



「初対面なのに何だ? って顔か? 今度は。ちょっと調べれば、お前みたいなグズのモグリもどきの情報ですら簡単に手に入る。それで? お前は何も知らないわけだ」


「この『暁火隊』元エース攻略者、此結 普しゆい あまねの名前も顔も、なあんにも」



『暁火隊』。


今或斗が最もコンタクトを取りたい相手が、何故か向こうからやってきた。


なんだか初対面から悪し様に貶されているが、まあ或斗は罵倒に蔑視は慣れている。



「あの……墓が無いって、未零の? 暁火隊の方でも作っていないってことですか」


「死体もねえ、生きてるか死んでるかもわからねえ、ついでに墓参りを希望する縁者もいねえと来たら、そりゃ無くて当然だろ」



普と名乗った男性は鼻で笑って、根は笑っていない冷たい目で或斗を見下ろす。


或斗は薄っすらと感じ取った、この男は……怒っている?



「ま、作らなくて正解だったな。何せ一番可愛がってやってた弟分は、死人が生きてるかもしれねえって言われて初めて墓の場所なんか探し始める恩知らずのクソ野郎だ。作るだけ土地と石材の無駄だったに違いない」


「生きてるかもって……アンタもあの映像を見たのか!?」



次の瞬間パン、と音がして、或斗の頭にキーンと耳鳴りが走り、次いで左頬がジンジンと熱い痛みを発した。


平手で打たれたらしいと気づくのに3秒ほどかかった。



「誰がタメで話して良いって言った、ゴミ虫」



普は本当に害虫でも叩き潰したときのような不快感を滲ませた不機嫌な声音でそう言って、ついでとばかりに右の頬も打った。


打擲の勢いに、思わず或斗は道に倒れる。


目の奥がチカチカと光って、口の中が切れたらしく血の味が広がった。



「そもそも何で今更墓がどうのと気にするんだよ、5年も放って、無かったことにしていた分際で」


「……そ、れは」


「口きいて良いとも言ってねえよ」



ドス、と今度は腹を蹴られた。


或斗はせり上がった胃液を吐いたが、その飛沫が普の靴を汚したと、もう一度今度はあばらに近い場所を蹴られる。


吹き飛ばすのではなく、確実に体内にダメージを残す陰湿な攻撃である。


おそらく痣になっているだろう蹴られた場所が鈍く重い痛みを発し、或斗の思考を邪魔する。


普はもう不機嫌を取り繕いもしなくなった刺々しい声音でゆっくりと或斗を詰った。



「ウスノロで、無能でどうしようもない社会不適合者。そのくせ恩まで忘れる犬以下のドブネズミ。親留 未零が生きてるかもしれないから何だよ、お前にはもう関係ない相手だろ」



普は腹を押さえて蹲る或斗の髪を持って無理やり頭を上げさせ、視線を合わせた。


ブチブチと髪の抜ける音と痛みがある。


普の温度を殺した冷淡な目と、或斗の暴力への怯えの滲んだ目が合う。


普は或斗の目に不快感を露にして、舌打ちと共に今度は拳で或斗の顔面を殴った。


勢いで千切れた髪の痛みを忘れるほど強烈な、肉の抉れるような痛み、鼻から垂れる血の不快さ、倒れこんだ時に打ち付けた体の各所の打撲からのじんわりした痛覚の浸食。



「弱っちいネズミの目だ」



普は1mほど転げた或斗へ歩み寄ってきて、頭をガンと踏みつける。



「何か、勘違いをしているよな。自分がこの世で一番不幸だとか、そんな馬鹿げた被害妄想を患ってる、卑怯者の目」



或斗の頭を襲う暴力は止まない。


ガン、ガンと何度も踏みつけられて、何か反論しようにも声すら上げられない。


この暴力を警察が見たらどうなるだろうか。


きっとどうにもならない。


通行人は居ない。通報も期待できない。


そもそもが、見るからにダンジョン適性の高そうな男がそうでない少年を嬲っていても、ほとんどの人間は見て見ぬふりをするだろう。


殴られている方が悪いことをしたのだろうと、大抵の人間はそう片付けて自分の立場を守る。


誰だって自分がかわいい、傷つきたくない、当たり前だ。


世の中クソだと思っていた。


でも、それって或斗がこの5年間、未零にしていたことと大きく違うことだろうか?



「5年間、何の連絡もなかった。いくら社会のゴミでも、死ぬ気でやれば俺たちと連絡くらいとれる。何もしなかった。お前は未零のことを捨てた。自分の心可愛さに」



その通りだ。


或斗は愕然とした、あの未零を、或斗が捨てたのだ、捨てられたのではなく。


自分が可愛くて、傷つきたくないから。



「恩があったはずだろ、情があったはずだろ、死んでいてほしくなかったはずだろ。お前今まで何してたんだ?」


「ネズミ食って、学校なんてどうでもいい場所で時間潰して、立派なモグリとして何にもならない時間を誤魔化して生きてただけ」



普は或斗の体の各所を踏みつけて痣を増やしながら、或斗のこの5年の生活を言い当ててみせる。



「生きる理由もないくせに、死にたくもなくてクソみたいな人生に甘んじる」



生きる理由もないのに、餓死は怖くてネズミを捕まえて食べる毎日、死んだって誰も悲しまないと分かっているのに、自分可愛さにダンジョンでコソコソとモンスターから逃げて小金を稼ぐ毎日。


クソみたいな人生、それを上等だとは或斗は一欠けらだって思っていなかった。



「お前には未零以外に何もなかったはずだ。それなのに未零を忘れようと逃げた。卑怯くせえ、ドブ水みてえな腐った根性だ」


「そのドブカス野郎が、未零が生きているかもしれないと聞いて、真っ先にやったのが墓探し」


「呆れるね、死んでてくれたら今までの自分の逃避が正当化されるとでも思ったか?」



死んでてくれたら……そんな希望が自分にあるわけがないと、反駁することが出来ない。


だって或斗はまず墓を探したから、生きている未零の映像の撮影された場所を尋ねるのではなく、死の証を探したのだ。


この普という男は、それを見越してこの孤児院から或斗の家までの帰り道にいたのだろうか。


どうして或斗の行動パターンまで読めるのだろうか、どうしてここにいるのだろうか、分からない。


或斗はこの男のことを何も知らない。


普の言う通り、調べたこともなかったから。



「弱すぎる。こんな暴力ごときに負けて、反論も出来ない。お前は何も出来ない」



念入りに踏みつけられた頭が割れるように痛む。おそらく血も出ているだろう。


何か、何かを言おうと口を開くも、言われていることはその通りだから何も言えない。



「ダンジョン適性が無いから? 装備が無いから? 社会的地位が低いから? 違うね、お前が弱いのは、心の根が腐ってるからだ」


「自分で閉じこもっておいて、ああ誰も助けてくれません、王子様でもいないかしら~、ってか?」


「お前みたいな、どうしようもないクズを見ると苛々して殺したくなる」



そう言う普の瞳には苛立ちというより、煮詰まった怒りのようなものが見える。


この男は何に怒っているのだろう、どうして格下の或斗相手にこんなにも執拗な暴力を加えるのだろう。


本当にただ苛々してのことだったら、それはあまりにも理不尽だと思う。


だがたとえそうだとしても、或斗は何も言い返せない。


自分の弱さを突き付けられて、自分の不誠実を噛みしめさせられて、何より痛みなんかに負けて、何も言えない。


いつ死んだって構わない、死ぬときは死ぬ、そのくらいに考えていたはずだった。


死ぬほどの暴力を浴びている今は、それが恐ろしくて口も聞けない。


どうしようもなく弱者だ。


普の言う通りに、ダンジョン適性がどうこうじゃなく、社会的立場がどうこうじゃなく、或斗は心根が弱者だった。


ようやく頭への踏みつけが途切れたかと思えば、制服の襟を掴まれて、また無理やり視線を合わせられる。


怒れる火を宿した目。


今度は明確に、或斗の視線が下がった。


普の強い言葉と力に反駁する意志を持てない黒い目は、自然と夜明け色から逃げて下を向いた。


負けだ。


或斗は今までの人生と同じように、また負けることを選んだ。


普はため息を吐くと、或斗の襟ぐりを掴んだまま腹を何度も殴った。


散々に出た胃液が、地面と或斗の顔を汚す。



「惰弱な負け犬。何もできないお前が、未零の何かを知っても意味がない」



何かとは何だろう、普は或斗の知らない未零の何を知っているというのだろう。


知りたいと思った、同時に、その資格が或斗にはないこともここまでの暴力で十分に理解させられていた。


普の声音に、一瞬怒り以外の、失望だろうか、火のような感情とは別の発露があったのを感じ取る。


普が或斗を完全に見限ったのだと、分かった。



「もういい、お前の勘違い不幸ヅラを見てると反吐が出る」


「死ね」



感情の籠っていない普の声。


もう一発、或斗の腹に膝蹴りが入る。


拘束されていた襟が放されて、或斗は嘔吐きながらその場に崩れ落ちた。


胃液と涎と生理的な涙と鼻血に塗れた顔をぐしゃぐしゃにして、或斗は辛うじて普を見上げる。


普はもう、或斗に対して怒りを抱くことすら放棄したようで、道端のゴミを見下ろすような無感情な顔で、或斗の頭を踏みつけようと足を上げた。


ダンジョン適性の高い者が、低い者を殺すのは簡単だ。


手加減しない、それだけで殺せる。


今までの普の攻撃はきっと、十分に手加減されたものだった。


血反吐を吐くくらい痛くて酷な攻撃でも、死なないように手加減されていた。


でもおそらく次の踏みつけは違う。


普はこれで或斗の頭が砕けても良いと思って足を振り下ろしている。


コンマ数秒、それだけの時間。


血の味と臭いに満ちた味覚と嗅覚、打たれすぎてぼやけた視界、耳鳴りが止まない聴覚、痛みで麻痺した身体中の触覚。


これが死か、と思った。


そしてこれと同じものを未零が味わったのかもしれない事実を思って、恐ろしくて、情けなくて、死んでしまいたいほど苦しくなった。


5年ぶりに、泣きたくなった。


未零ととても釣り合わない自分と向き合いたくなかった。


未零に何もしてやれなかった現実と向き合いたくなかった。


未零が、たった一人自分に期待してくれた人が、もうどこにもいないのだという事実に向き合いたくなかった。


あの強くて美しい未零が、こんな思いをしたのかもしれないとは考えたくなかった。


だから逃げた。


気味が悪いと自分の能力から、未零の遺した知識から、未零の居ない将来から、目をそらし続けた。


普の言うことは何も間違っていない。


例え未零が生きていようと、合わせる顔はなく、何より会いに行く手段も居場所を知る術さえ何もない。


或斗は弱くて、何も出来ない。


今ここで、殺してもらうのが一番良い。


この世界から無能が一人消えるだけ。


朦朧とした意識で、ぼうっと普の足が振り下ろされるのを見ていた。


――本当に?



「君が15歳になったら迎えに来るから、二人で大冒険をしようよ」



記憶の中の未零が笑う。


花園みたいな髪を風に揺らして、慈愛の籠った緑の目で或斗を真っ直ぐ見つめていた。


変な少女だった。


適性Aのエリートだったくせに、ダンジョン適性の無い或斗なんか捕まえて、一緒にパーティを組もうと言った。


或斗はそれに期待したくなくて、信じなかった。


有名パーティに入って、強い仲間が出来たら、きっと或斗のことなんか忘れてしまうだろうと思っていた。


でも、本当にそうなら、どうして普が或斗のことを知っているのだろう。


どうしてわざわざ或斗なんかのことを調べて、会いにまで来たのだろう。


どうして普は、こんなにも怒っているのだろう。


先ほど浮かべた失望は、何かの期待の裏返しだったのでは。


未零はずっと或斗を信じていたのではないか。


誰も、或斗自身さえも信じていなかった或斗の可能性を、未来を、彼女は信じていたのではないか。


どうしてそんなことが出来たのだろう。


或斗には何もない。


ダンジョン適性も、後ろ盾も、強い心根だって、何ひとつ。



「君の瞳はたまに虹色に光るだろう、それがとても綺麗なんだよ」



1つだけ。


1つだけ、或斗に出来ること。


他の誰にも出来ないこと。


彼女の信じた綺麗なもの、綺麗な力。


或斗だって信じたい。


未零が生きていることを、決して犯罪などに与する人ではないことを、未零の信じた或斗の未来を、信じたい。


或斗はその"虹色"の目を開いた。



「……何?」



或斗の瞳が虹色の輝きを宿して、普の振り下ろした足を見つめる。


普の足は、本人の意志に反して止まっていた。


或斗が止めていた。


どうしてこんなことが出来たのか不思議だった。


目の力は見た対象に何かの力を付与する、というものであるはずで、では今普の足を止めたのは、引力だろうか、重力だろうか、何かが根本的に違う気がする。


だけど普の暴力に抗うことが出来ていた、普から目をそらさずにいた、それだけが本当だった。



「お前、ダンジョン適性は無しって……いや、魔法じゃねえな、これは……」



或斗は痛みに縺れた舌で、しかしハッキリ宣言した。



「俺の力だ」


「俺だけの力だ。俺は、弱い。弱いけど、戦える」



虹色を解いて普の足を解放する。


もう暴力に怯える心は無かった。


普は変わらず或斗を見下ろしている。


けれどその夜明けの瞳、或斗の目を覚まさせる暁闇の色に今、侮蔑は宿っていなかった。



「……親留 未零が本当にテロ組織に所属していたら?」


「そんなことはあり得ない。あり得ないと証明する」


「その力があったって、お前は弱い。ダンジョン適性無しの、出来損ないのクソカスだ」


「それでも未零を探しに行く。俺のこの目で見たことだけが、未零の本当だから」


「具体的には? 何をどうするつもりでいる」


「アンタに手伝ってもらう。此結 普。アンタだって5年足踏みしてる。もっと力がほしいはずだ。俺の力は、有用だろ?」



或斗はボコボコに腫れた顔面で普を見上げる。


普は黒に戻った或斗の目を値踏みするように睨みつけると、フンと息を吐いて背を向けた。



「せいぜい便利に使わせてもらう。お前は今日から俺の道具だ。今のところは、靴底以下のクソ期待値だが」


「構わない」



当たり前に普は或斗が立ち上がるのに手を貸してくれたりはしなかったので、或斗はフラつきながら何とか自力で立ち上がった。


すると、思い出したように普が振り向いた。


そしてせっかく立ち上がれた或斗を蹴り倒し、もう一度這いつくばらせる。



「おい靴底に貼り付いたガム以下のクソ道具、道具だっていうなら手始めに使われてみせろ」



或斗は自分が怪訝な顔をしたのを自覚した、凹凸の酷い顔が疑問で歪み、痛む。



「まずはそうだな……地面でも舐めてみろ、すぐそこで良いぞ」



普はそう言って、或斗の胃液が散々飛び散った地面を指さしてみせる。


或斗は戸惑いと、そしてそんなものが自分にまだあったのかと驚くほどの人としての矜持めいた感覚で、しばし呆然とした。


地面を、舐める、自分から?



「…………」



或斗の沈黙に、普は苛立ちを滲ませて続ける。



「不良品か? 地面くらい、靴底様はいつも舐めてるだろうが」



それはそうかもしれないが、或斗は一応人間である、そのはずだ。


靴底以下というのは比喩であって、いくらさっき散々地面を転がされたとて、ここで地面を舐める必要性は全くない。



「愚図、はやくしろ」



普は高い位置から非情に命じてみせる。


或斗の覚悟が、試されている。



「……せめて、靴を舐めるとかじゃないのか?」



別に靴なら舐めたいというわけでは全くないけれども、僅かばかりの抵抗として或斗は尋ねてみた。


すると普は舌打ちして或斗の顎先を蹴る。


歯がガチりとぶつかって痛み、舌を嚙み千切りかけた勢いにゾッとする。



「舐めるとかじゃないんですか、だろうが。お前の汚い唾液で靴磨く趣味はねえよ」



或斗の顎先を蹴ったつま先を、汚れたとばかりにアスファルトに擦りつける普。



「それで? 道具くんは使われる意志があるのか、ないのか。無いなら死ね」



普はもう一度地面を指した。


あまりに理不尽な要求に、或斗は逡巡する。



「未零、未零って口だけか? まだ自分が可愛くて仕方がないか?」



普の声音に込められた温度が下がってきたのを感じる。


口だけのつもりはない、未零の本当を探る、そのためにこの男に使われる、覚悟はあるはずだ。


或斗は汚れた地面へ視線を下げ、少しだけ頭を下げる。


そもそも這いつくばらされて、地面についた両手も散らばった自分の胃液まみれで汚いことはこの上なかったが、どうしても命じられた通りにそのまま頭を下げていくことが出来ない。


地面と睨み合いでもするかのように固まった或斗へ、普は再び苛立ちを顔に浮かべると、無慈悲に或斗の頭を足で地面に叩きつけた。



「っんぶ!」


「踏ん切りもつけられないノロマを手伝ってやった。感謝しろよ」



あと少し勢いが強かったら、前歯が折れていたかもしれない。


グリグリと髪の毛で靴底を拭くように地面に擦りつけられ、或斗は強制的に地面を舐めさせられることになった。


自分から出た胃液の生臭い酸っぱさ、土埃の臭いと砂利の感触を思い知らされる。


ごつごつとしたアスファルトで、口の中がズタズタに切れる。


押し付けられた勢いで潰れた鼻のせいで、呼吸も上手く出来ない。



「お前は靴底以下の道具、俺はそれを使ってやる人間様、分かったかゲロ舐め野郎」



普の声は平坦であり、この暴虐に躊躇の1つもしていないようであった。


さすがに或斗の心にも僅かな反骨心と、敵愾心が生まれる。


しかし或斗は抵抗も出来ない。


未零の真相を追うためには、この無理やり地面を味わわせる非道な足にだって縋らなくては何も出来ない。


或斗はダンジョン適性無しの、底辺だから。


しばらく或斗の後頭部を踏みつけ、或斗が抵抗する様子のないことを確認すると、普は或斗から長い足を下ろした。


或斗がボロボロの顔を上げ、ゼイゼイと息を取り戻す。


その胃液と血と鼻水などの体液まみれの顔を見て、普は世にも汚らわしそうに言い放った。



「次にそんな汚いツラを見せたら殺す。道具として清潔は保てよ、ボロ雑巾以下の不潔賤劣せんれつドブネズミ」



或斗を、汚いツラに、させたのは、この男本人である!


或斗は、この此結普という男のこと警察とかよりもっとずっと根本的に嫌いだな、と痛感した。



こうして、遠川 或斗は未零の真実を追うため、毒舌暴力男である此結 普と共闘関係を結ぶに至ったのだった。


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