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13.5 梅雨の妖精


或斗は昔から、梅雨が大嫌いだった。


普の家での下宿を初めておよそ1ヶ月弱という頃の話だ。


日本列島、関東地方の上空には、見事な梅雨前線が広がっていた。


梅雨は雨が多く、湿気が多い。


これが何を起こすかというと、大怪獣普の理不尽な苛立ちである。


もちろん普の家、超高級マンションの一室は、全室空調は完璧、除湿機能を備えた空気清浄機も完備されている。


そういった文明の利器でも解決出来ないことはこの世にある。


部屋干ししていた洗濯物に「部屋干し臭い」「湿気が残っている気がする」と怒っては或斗に八つ当たりし、外から帰ってきたかと思えば「足下が濡れた」「ジメジメしていてムカつく」と怒って或斗に八つ当たりする。


暴虐、この一言に尽きる。


というか梅雨という季節は或斗が家に転がり込む前にも存在していたはずなのだが、その間普はどうしていたのだろうか。


或斗と会う前は『暁火隊』にもそんなに顔を出していなかったようだし、高楽のような八つ当たり相手は居なかったはずだが。


もしかすると今まで溜めこんでいた鬱憤を或斗で晴らしているのかもしれない、超高級マンションの家賃として高いのか安いのか、怪しいところだ。


そんな梅雨のある夕方、或斗はコンビニの前で、土砂降りの雨の前に立ち尽くしていた。


バル=ケリムの一件以降、或斗本人の力に対する「カージャー」側の警戒が上がり、迂闊に手を出せない相手となったことが情報部の調べで分かったため、最近の或斗は普の家から徒歩1分のコンビニ程度なら1人で行くことを許されている。


基本的には必要なものの買い出しを含めて普と共に行動しているので、コンビニに所用が発生することもないのだが、今日は或斗のウッカリ忘れで卵が切れてしまっているのに夕方気が付いたのである。


1ヶ月弱の共同生活によって、普が朝食には卵を必ず使う派閥に在籍していることは分かっている。


明朝卵が切れていたら、梅雨の苛立ちを合わせて存分に或斗がいびられる。


既に「抜け作ボケネズミ」「買い物くらいまともにこなせ」等々の罵倒を散々浴びてから外出したのであるが、その先でも或斗は災難に遭った。


或斗は外に出る時点で雨が降り出しそうな空を確認していたため、キチンと傘を持参してコンビニに入ったわけだが……コンビニで買い物をしているほんの少しの間で、雨が降り出し、或斗が店前の傘立てに立てておいた傘は無事盗まれていた。


卵を買うだけのつもりで出てきたので、コンビニへ戻って傘を買う金はない。


目の前には土砂降りの道路。


マンションまで徒歩1分程度の距離である、走って帰れないことは決してないが、その間にびしょ濡れにはなるだろう。


そんな恰好で普の部屋に入ったら、文字通り"濡れネズミ"である或斗は「乾くまで部屋に入ってくるな」といった横暴に晒されそうな気がする。


それで風邪を引いたら「体調管理くらいまともにしろボケ」と罵られるだろうことまで読める。


よく考えると、雨のせいと普のせいが半々な気もするが、ともかく或斗は雨に困らされていた。


梅雨はロクなことがない。


或斗は昔から、梅雨が大嫌いだった。






梅雨という季節と過去の或斗の立場を掛け算して出てくる結論は、梅雨は最悪、それに尽きる。


或斗が平素から隠れ家的な逃げ場として利用していた雑草だらけの裏庭には、屋根などという上等なものはついていなかった。


流石にしとしとと降り続く雨の中、ずぶ濡れでダンジョンネズミを炙って食べることは出来ない。


そもそも職員からパクった安いライターの火も、雨で消えてしまう。


必然、雨が降ると或斗は他の子供たちも居る室内へ避難することになる。


そうなると普段に輪をかけて、食事として配布されるレーションは奪われやすくなる。


その上他の子供たちも雨によって室内待機せざるを得ない状況に不満を持っているため、鬱屈の吐き出し口に或斗はピッタリであった。


早い話が陰湿なイジメが梅雨は特に酷くなるのだった。


暴力のような分かりやすいイジメは、職員の目の届く範囲であれば一応職員が面倒くさそうに止めてくれるし、職員の目の届かないところで振るわれる暴力には未零が気が付いて、さりげなく助け舟を出してくれる。


そう、未零である。


未零は孤児院では一等人気のある子供で、男子も女子も、未零に憧れていない子供は居なかった。


美しくて、ダンジョン適性が高そうで、誰にでも優しい。


一種崇拝のような空気さえあったと思う。


そんな未零が表立って或斗へのイジメを止めたり、あろうことか或斗を特別扱いしているのを他の子供たちの前で見せたりなんかした日には、この上なくやっかみを買って、細々とした嫌がらせがかわいいものに思えるほどの暴行を受けるだろうことは想像に難くない。


さすがの未零も男子トイレにまではついて来られないし、ダンジョン適性が有望な子供ということで他のこどもたちとは別のカリキュラムを受けていたため、常に或斗の様子を見ておくことは出来ない。


或斗にも分かることを、未零が分からないはずもなく、暴力的なイジメを止める際もさりげなくであったし、他の子供たちの目がある間は、或斗と未零はまるで住む世界が分かたれているかのように距離をおくしかなかった。


或斗は陰湿なイジメ、例えば孤児院のトイレに出てきたカマドウマを生で食べさせられるとか、囲まれて暴力未満の小突きで地面に転ばされるとか、靴や服を泥水だらけにされるとか――最後のものは職員の手を煩わせることに繋がって、何故か或斗が叱られた――そういったものに黙って耐えるしかない。


梅雨の季節はいつも、ザアザアと孤児院の屋根を叩く雨音の中、部屋の隅で蹲って空腹を我慢しながらじっとして、騒がしい他の子供たちの目につかないよう黙って、嵐が去るのを待つようにただ時間を過ごしていた。


これは梅雨の季節に限った話でもなかったが、或斗は孤児院に居ながら、寝る場所に困ることさえあった。


或斗の居た孤児院は孤児院の中でも最低ランクで、時には子供の数に寝具が足りないこともあるほど、貧乏で雑な環境だった。


当然子供1人1人に個室が与えられるようなことはなく、寝るときは大部屋に布団を敷いて、雑魚寝をするのが普通であった。


未零のような特別な子供は、特別扱いの一環として個室をもらっていたが、職員の部屋にも近く、或斗が出入りできるような場所ではなかった。


それで或斗が何故寝る場所を失うことがあったのかというと、これもまたイジメである。


孤児院の他の子供たちはとにかく或斗を見下していたし、いくつかある大部屋の中でも或斗と一緒の部屋になることを罰ゲームのように嫌がる子供がいるくらいで、例えるなら旧時代にもあったというばい菌扱いを受けていたようなものだ。


子供たちはとにかく、或斗を自分たちのコミュニティ、寝室からも追い出したがった。


梅雨と冬以外の季節であれば、或斗も裏庭でコッソリ寝るという荒業でしのいでいたのだが、前述の2つの季節となると、流石に死の危険がある。


そこで或斗が行きついたのが、孤児院の建物の中で使われず放置されていた屋根裏部屋だ。


屋根裏部屋に入るためには、ほとんど壁と同化している小さな木の扉をくぐって、古びていつ砕けるかわかったものでない木製の階段を慎重に登ってゆく必要があった。


たまに或斗以外の子供が道を見つけて入り込むことがあったが、秘密基地にするにはあまりにみすぼらしく汚い空間にすぐに嫌気がさして、興味を失うのが常だった。


遠い昔には使用人が寝起きするのに使われていたという屋根裏部屋には、小さな家具や机が壊れたままで置きざりにされていた。


狭苦しい小さな空間は長い間掃除もされておらず埃塗れで、埃臭い場所に慣れている或斗でもたまに咳き込むほどの不衛生さだった。


おまけに屋根から僅かに雨漏りもしており、場所を選ばなければ濡れてしまって、埃塗れになる甲斐もないという、劣悪な環境。


旧時代以降もしぶとく生き残っている黒い害虫だってたくさん出るし、どこぞにダンジョンネズミが巣食ってチウチウと鳴いている。


大部屋から持ち込んだシーツに包まって寝ている間に、ダンジョンネズミに齧られることもあった。


そんなとき、或斗は自分がダンジョンネズミ以下の存在だと知らしめられて、酷くみじめになるものだった。


梅雨は雨漏りの音で眠りが浅くなり、冬は隙間風の寒さでガタガタと震える、孤児院の屋根裏部屋はそういう、屋外よりは僅かにマシ程度の場所である。


長年の雨漏りで腐った床の腐敗臭とカビ臭さ、埃臭さに満ちていて、ダンジョンネズミが我が物顔で跋扈している。


そんな屋根裏部屋で、音を殺し布団もどきの布を被って蹲って眠る、或斗の少年時代は悲惨なものだった。


その日々に耐えられたのは、やはり未零の存在故だった。


孤児院が寝静まると、未零はコッソリと自室を抜け出して、或斗の居る屋根裏部屋へやってきて、イタズラを完遂した子供のように茶目っ気たっぷりに笑ってみせる。



「やあ、あしながお姉さんの登場だよ」



と妙なことを言いながら、未零はいつも、或斗へ孤児院では定番の食事であったレーションを差し出してくれた。


冬は自分用の毛布をわざと破いて使えなくしたものをコッソリと屋根裏部屋に持ち込んで、或斗を包んだ。


実際のところ、未零が居なかったら或斗はそのうち屋根裏部屋で餓死か凍死していた可能性が高いと思う。


そして死体が腐り果てるまで、誰にも見つからなかったに違いない。


毎日風呂に入れて、清潔な部屋で眠ることが出来る未零をこんな汚らしい場所へ来させるのが申し訳なくて、無理に来なくていいと強がったこともある。


そう言うと、未零は或斗の強がりを見透かしているように笑って埃塗れの或斗の隣に座り、



「君の居るところが私にとっての楽園だよ」



などとやっぱりよく分からない、或斗だったらとても真面目には言えないようなセリフで返してくるものだった。


冬の夜は眠気が来るのが早くて、すぐに寝入った或斗だったが、梅雨の夜は雨音がうるさくて中々寝付けなかった。


未零は梅雨の夜、寝つきの悪い或斗へ、色々な話を聞かせてくれたものだった。


話の内訳は、特別カリキュラムで聞きかじったダンジョンの話であることもあったが、主には未零の読んだことのある絵本の内容だった。


幼いうちは絵本の話も興味深く聞いていたものだが、流石に10歳にも近くなってくると或斗ももうそんな子供ではない、という意識が芽生え、絵本以外の話はないのかと生意気にも要求したことがあった。


未零はそんな或斗の成長を喜んでもいるようだったが、それでも要求は吞まなかった。


分かっていないなとばかりに人差し指を振って見せると、未零はこのように話した。



「或斗には絶対に必要で、かつ足りていないものがある」


「栄養? 教養? ダンジョン適性?」



或斗には、残念ながら思いつくものが多すぎた。


そう言われると未零は綺麗な顔を渋くしかめて「そういうのもまあ、あるけども」と気まずげに答えた。



「絵本にはあって、現実の話には無いものだ。それを人は夢と言うんだよ」



気を取り直して続けた未零に、或斗は白けた目を向けた。



「夢で腹は膨れないし、金も稼げない」


「そういうところ、そういうところだから。君には絶対に、夢が必要だ」



未零は珍しく真剣な顔で言って、その日もやはり絵本の話をした。


なんだかんだと文句を言う或斗も、未零の透き通った声が響く屋根裏部屋で、隣に未零の気配と温かさを感じながらであれば、穏やかに眠りにつくことができた。


或斗にとって夢と言われれば、それは未零の存在そのものだったように思う。


キラキラ輝いていて、温かくて、大切なもの。


だからやっぱり絵本の話である必要はないように思っていたけれども、未零の語る絵本の話の中には、或斗の気に入りの物語もあった。


特別好きだと未零に教えたことはないはずなのに、どうしてか未零は或斗の好みを察して、よくその話をしてくれたものだった。


それは雨の日に現れる、葉っぱの妖精の話。


ある雨の日、傘をなくして家に帰れず、泣いて困っている子供がいる。


土砂降りの雨音はそんな子供の泣き声も隠してしまって、誰も助けに来てくれない。


一生家に帰れないのではないか、温かい場所に戻れないのではないかと不安でやっぱり泣くこどもの前に、1匹の妖精が現れる。


その妖精はとても大きな葉っぱを傘にして、雨をしのいでいた。


妖精は泣いている子供に手を差し伸べて、大きな葉っぱの傘の中へ入れてくれ、家まで送ってくれるのだ。


家に帰り着いて、雨が止んだ頃にはもう妖精は居ない。


雨の日にだけ現れる、不思議で優しい、葉っぱの妖精のお話。



「君の元にも、雨の日には葉っぱの妖精が現れて助けてくれるかもしれないね。はい、おしまい」



たったそれだけの話なのだが、或斗は未零の語る話でこれを一番好んでいた。


妖精の姿は物語の中で詳しく描かれていない。


だから或斗の頭の中の葉っぱの妖精は、未零の姿をしていた。


或斗が困っていて、泣いてもどうしようもないことが分かっているから泣けもしなくて、沈んでいるとき、未零はどうしてかいつもそれを察して、或斗の傍に居てくれる。


或斗は、或斗だったら、雨は止まなくても良いと思った。


雨が止まなくて、ずっと暗く冷たい場所でも構わないから、葉っぱの妖精がずっと傍に居てくれる方が嬉しい。


暗く冷たい雨の中で、差し出された葉っぱの大きさの安心感の元、温かい未零の隣で微睡んでいたい。


けれども、他の子供たちや職員にバレないよう、或斗が寝入ったら未零は自室へ帰ってしまう。


それに、或斗が10歳に近づく頃、未零の15歳時ダンジョン適性診断も近づいていて、未零が孤児院を出て行く日は刻々と迫っていた。


未零は「或斗が15歳になったら迎えに来る」と無邪気に笑って約束してくれたが、或斗はそんな未来は来ないだろうと思っていた。


或斗だけの葉っぱの妖精は広い世界へ出て行って、広い世界にはこの孤児院に響く雨音なんか比べ物にならないくらい沢山の音が鳴っていて、未零も或斗の声の無い泣き声に気付いてくれることはなくなるだろう。


未零に縋る気持ちと、それを良しとしない保身の心、それから薄っすらとした絶望。


未零の隣で眠るときだけ、或斗はそんなどうしようもない自分の心を宥めることが出来た。


或斗は梅雨が大嫌いだったが、梅雨の夜は好きだった。


少しもロマンチックでない、夢なんか一欠けらも無い汚らしい屋根裏部屋でも、夢の人に包まれて、その温もりを感じながら眠ることが出来たから。






土砂降りの雨を眺めていたら、あの梅雨の夜の、未零の声と語ってくれた物語を鮮明に思い出せた。


或斗はもう16歳で、子供でもないし、泣いてもいない。


色々事情があったとはいえ、やっぱり未零は迎えに来てはくれなかった。


それどころか、今は或斗が未零を助け出しに行く側となっている。


あの絵本の物語のように、雨に困っているところを助けてくれる、葉っぱの妖精はもう居ない。


雨はしばらく止みそうになかった。


雨足が弱まる気配もなく、これはもう、ずぶ濡れ覚悟で移動した方が良いだろう。


フッと小さくため息をついて、或斗は雨の中に足を踏み出そうとした。


そこで、黒いシックな造りの傘を差した長身の男性が足早に近づいてきているのが見え、思わず足を止める。


普だ。


不機嫌を顔いっぱいに表して、普が或斗へ向かって歩いてきている。



「卵1パック買いに行くだけにどれだけ時間かけてんだこのノロマカス。間抜けにもまた『カージャー』に捕まったかと思ったわ」



そう言って普は濡れる寸前だった或斗の頭を手刀で小突くと、「傘は?」と訊いた。



「すみません、盗られちゃって……」


「これだから抜け作は。誰の傘だと思ってやがる」



普のである。


みすみす盗まれてしまったのは或斗の責任でもあるので、「すみません」と謝っておく。



「まあそんなことだろうと思ったが。ほら、さっさと帰るぞドブネズミ」



普は傘を差しているのとは逆の手に持っていた傘を、或斗へ差し出す。


或斗は思わず一瞬呆けてしまった。



「? 何だ、まさかずぶ濡れで帰りたいとでも言うのか? その場合乾くまで部屋に入ってくるなよ」



予想通り過ぎる普の言動に、或斗は思わず笑った。


普は或斗の妙な挙動を訝しんで、眉をひそめている。


或斗は顔を上げて、差し出されたままだった傘を普の手から受け取る。



「迎えに来てくれて、ありがとうございます」



或斗はしみじみと、手に取った傘を見つめた。


今の或斗の隣に未零の温かさはない。


けれども、普の持ってきてくれた傘の柄は普の体温で温んでいて、それがどうしようもなく嬉しかった。



「盗まれた傘代36700円、借金につけとくからな。いざとなったらマグロ漁船に乗せるぞ」



……言動には全く夢も慈悲も容赦もないが、16歳になった或斗を、傘を手に迎えに来てくれる人。


さっさと帰るぞと或斗を置いて歩きだした普の長身は、あの日夢見た葉っぱの妖精とはかけ離れていたけれど、それで良いのだと思えた。


雨の音がしても或斗はもう1人で眠れるし、葉っぱの妖精が居なくても連れ帰ってくれる人がある。


あの屋根裏部屋で思い浮かべたのとは全く違う未来を歩いている。


或斗は梅雨が大嫌いだが、同じくらい梅雨を嫌っている大人げない人が傍に居る。


梅雨の雨音を疎む暇がないくらいに振り回されて、でも今の或斗はそれなり幸福だ。


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