クラーケン撃破後、一般観光客が避難して静かになった砂浜近くに建てられた『暁火隊』簡易拠点の天幕の中の雰囲気は、緊張と消沈が半々ほどであった。
後方支援部隊もほとんどが或斗の捜索に駆り出されており、天幕の中に居る人員は少ない。
茂部は砂浜に引き上げられたクラーケンの死体を調査し、今回の襲撃に人為的な関与がなかったか確認している。
栞羽は天幕の中に広げたノートパソコンと持ち運び式電波受信アンテナを弄る手を止め、眉を下げて背後の日明へ報告する。
「ダメです。周辺100km圏内の陸地、海上共に電波信号確認出来ません」
「そうか……」
日明が重々しく呟く。
そこへ、天幕の入口を乱暴に開け、足音荒くずぶ濡れの普が入ってくる。
「今すぐ潜水装備出せ」
低く獰猛な、獣の唸り声のようだった。
普は居残っている後方支援部隊の1人へ、睨み殺しそうな目で詰め寄る。
「普ちゃん、潜るにしても一旦範囲を絞って計画を立ててからにしないと、酸素がもちません」
栞羽が窘めるのに合わせて、高楽が明るい声を出して普を止める。
「そーそー、怖いっすよ普パイセン。或斗くんって悪運強そうだし、全然無事かもしれないじゃないすか」
燃えるような眼光が高楽へ向く。
「じゃあお前が溺死するまで海の底舐めて探してこい能天気ゴミカス野郎今すぐ海底に沈めて殺すぞ」
日本最強と謳われる男の本気の殺気をぶつけられ、流石の高楽も顔を引き攣らせた。
「落ち着きなさい、普」
そこへ日明が努めて落ち着いた声を発し、普を宥めた。
日明にまでは向けられない殺気は行き場を失い、燃え立つような怒気に変わる。
「栞羽のGPS装置の反応が無いということは、故障したか地形の問題かのどちらかだ。前者はどうしようもないが、後者なら可能性もある。すぐに県警に協力要請を出し、魔術的アプローチと人海戦術を組み合わせて周辺区域の地形探索をかける。焦っても怒っても意味がないことは分かっているだろう。一歩ずつだ」
普は誰にも顔を見せないよう下を向いて、小さく頷いた。
天幕の中、後方支援部隊の手伝いをしているミクリは手を止め、胸の前で手を組んで呟く。
「或斗くん、どうか無事で……」
小さな明かりで洞窟内を進む或斗とミラビリスは、常に精神的な緊張を強いられていた。
というのも、この洞窟はやはりダンジョンであり、そしてモンスターの出現方法がかなり特殊であったからだ。
まず、ダンジョンの床はくるぶしのあたりまで水で満たされている。
モンスターの系統は全て魚類ないし小さな水棲亜竜であり、足下の水の波の反射の中から、液体が固体になるような動きで出現する。
そしてその出現場所は常に或斗かミラビリスの死角となるポイントなのだ。
幸いにも2人居るため、死角が極力少なくなるよう動くことが出来る。
また死角にモンスターが出現しても、ミラビリスがすぐに気配を察知して風の魔法で倒してくれるため、ここまで2人ともに負傷はなかった。
改めて、ミラビリスの戦闘能力の高さには驚かされるばかりだ。
「そういえば、ここまでの道で行き止まりとかありませんでしたね」
或斗が不思議そうに首を傾げた。
洞窟内での進行方向は明かりを持っているミラビリスに一任しているのだが、これまでの道のりで通れなかったり同じ場所を何度も回ったりした感覚はない。
「『わたしは道であり、真理であり、命である』。まあ、風の吹いてくる方向を目指しているだけさ。あとは勘だね。こういうのは得意なんだ」
「初対面で迷子になってましたけど……」
ふふんと笑ってみせたミラビリスに或斗が悪気なく的確なツッコミを入れてしまう。
「閉鎖空間と外の世界は違うものだと思わないかい……?」
情けなく眉を下げたミラビリスに、或斗はすみませんと苦笑する。
否応なしに精神を削られるダンジョンではあるが、ミラビリスが適度に緊張のガス抜きをしてくれていた。
あらゆる意味で、1人でなくて良かったと思う。
やがて2人はミラビリスの持つ炎の光だけではない、ほの明るい空間へ辿り着いた。
明るさはこの先に進むほど強くなっていくようである。
足下を見ると、水の上にいつか旧新宿ダンジョンで普と見た魔結晶が生えている。
「出口じゃなくて、ダンジョンコアの方向へ向かってきてた……みたいですね」
「ダンジョン内の気候の法則性は未だ謎だからねえ。これもまた導きというものさ。どちらにせよ、ダンジョンコアを掌握してしまえばここから出られることには変わりない」
出入り可能か分からない通気口に行きつくより良かったかもしれないよ、とミラビリスは或斗を安心させるように言った。
或斗はその意図を理解して頷き、おそらくダンジョンコアがあるだろう更に明るい洞窟の奥の方へ進もうとして、明かりに照らされた壁に何かが刻まれているのに気が付く。
壁には或斗の見たことのない、漢字やアルファベットにも似たところがない、奇妙な……文字なのだろうか、そういった紋様が刻まれていた。
「これは……?」
「ダンジョン語だね」
或斗が壁全体を見上げると、隣にミラビリスが立ち、解説してくれた。
「ダンジョン語とはその名の通り、ごく稀にダンジョン内で発見される統一性ある文字群のことだ。非常に不思議なことだが、ダンジョン適性の高い者ほど正確な意味を理解し、適性の低い者は全く理解出来ない言語と言われている。過去、ダンジョン適性の低い著名な言語学者がダンジョン語を体系化して誰にでも読めるようにしようと研究したこともあったが、ただ理解が出来ない、それだけで失敗に終わっている。高適性者に協力をあおいでみても、高適性者は文字を認識して読んでいるのではなく、ただ漠然と意味を認識出来るという状態にあるため、ダンジョン語の学術的な研究はほとんど進んでいない状態なんだ」
「へえ~……」
辞書のようなミラビリスの説明に、或斗は感嘆の声をあげる。
「あ、じゃあビリーさんはここに何て書いてあるか読めるんですか?」
「うん、読んでみようか。どれ…………ふむ。このダンジョンの成り立ちには"神の欠片"なるものが深く関わっているらしいね……封じられし力、番人…………意味合い的にはそんな感じのことが書いてあるっぽいよ」
「ぽいよって……」
「言っただろう? 高適性者も漠然とした意味の認識しか出来ないって」
そう言われると、或斗ももっと分かりやすい情報を、とは言えない。
"神の欠片"という単語と入口にあった古びた「カージャー」のマーク、その謎の答えが書いてあればと思ったが、或斗には異様な図形の連続にしか見えない文字群だ。
ミラビリスの翻訳に頼るしかない。
そもそもここまでの道中だって、或斗は魔法が使えないし気配の察知も甘い、ほとんどミラビリスにおんぶにだっこ状態で、その上文字まで読めないという劣等生ぶりだ。
普はあの暴力性含めて理不尽の塊であったためあまり気にならなかったが、ミラビリスと2人で行動することで、或斗は久々にダンジョン適性無しという自身の無才さを思い出してしまった。
「何ていうか、すみません。戦闘でも俺、ほとんど役に立てていないのに、文字すら読めなくて……」
良くないと思いながらも、口から卑屈がついて出る。
ミラビリスは気にも留めていないだろうことに劣等感を覚えている自分の小ささが嫌で、或斗は俯いた。
するとミラビリスは「顔を上げたまえ、或斗少年」と、珍しく明朗な口調で言った。
緊張の面持ちで顔を上げた或斗の前で、ミラビリスは預言を読み上げるように朗々と語った。
「人とは、その人自身の
「それは……?」
「引用ではなく、私の言葉だよ。或斗少年は頑張っているさ、ということだね」
「あ、ありがとうございます」
ミラビリスは不思議な人だ。
言動が奇妙奇天烈という意味でもあるけれども、何故か或斗の心の隙にすいと入り込んでくるような、それでいて嫌な感じはしない、不思議な親しみがある。
あるいは、ミラビリスが或斗へ親しみを持ってくれているから、そう感じるのだろうか。
或斗にはミラビリスの言葉の意味はやっぱり半分も分からなかったが、みじめに感じることのない慰め方をされたのだとは分かる。
「さあ、奥へ進もう。いい加減に、足先がふやけてしまって気持ちが悪いからね」
「ふふ、そうですね」
先ほどの会話のお陰で、ミラビリスの先導にも、卑屈さを感じず自然とついていける。
光の強い方向へ進んでいくと、予想通り六角形の虹色に光るダンジョンコアがあった。
ただ、以前旧新宿ダンジョンで見たときよりもダンジョンコアの部屋が随分広いように感じる。
やはりダンジョンコアの部屋も、床には5cm強の高さの浸水があった。
ダンジョンコアの部屋にモンスターが出ることはないと普から聞いていた或斗は無警戒に足を踏み出す。
すると、ポチャン、と水の跳ねる音がして、「或斗少年!」というミラビリスの声と共に横に突き飛ばされる。
或斗の居た場所に、その死角となる斜め後ろから、水かきのついた手、鋭い爪が振り下ろされるのを見た。
ポチャンという音がもう一度鳴ったかと思うと、今までこのダンジョンで出てきた敵と似た風に、水の中から液体が取り出され、固体へと変わってぐにゃりと人型に盛り上がる。
ダンジョンコアの部屋全体に、2mほどの体躯をした魚人型のモンスターが10体以上同時に現れる。
その魚人型モンスターたちは背丈、鱗の配置、ヒレの形に至るまで、すべてが全く同じ形をしていて、見分けがつかない。
「ザっと数えて……18体だね。まさかここでイレギュラー発生とは」
「特殊なダンジョンだということでしょうか。やっぱり『カージャー』が関わっている……?」
「考察は後にしよう、或斗少年。私が魔法で倒していくから、キミはあの不思議な力で後方から支援を頼むよ」
「はい!」
或斗が虹眼で動きを止めながら、ミラビリスが風の魔法を使い、圧倒的な力で魚人を倒していく。
しかし魚人たちは、明らかに致命傷を負って倒されたもの、怪我を負ったものも、すぐにポチャンという水音と共に形を崩して足元の水と同化したかと思うと、またポチャンと盛り上がって怪我を負う前、初めの姿に戻って襲いかかってくる。
「再生能力を持つ、のかな」
「俺の力でどうにか出来るかもしれません、ビリーさん、俺が見た個体を倒してください!」
或斗は虹眼で見た魚人の再生能力を否定する。
ビリーは或斗の視線の先の魚人の首を風の刃で断つが、その個体もまた水音と共に復活して、或斗たちへ向かってくる。
「そんな、再生能力は否定したはずなのに……!」
「ふむ、中々厳しいねえ」
魚人の対処は困難を極めた。
再生能力ももちろんだが、倒した個体は水音と共に、或斗たちの死角となる場所で再生して襲いかかってくるのだ。
或斗は後方支援を、と言われたものの、魚人たちは関係なく後方にいる或斗の死角を縫ってかぎ爪を振り下ろしてくる。
ミラビリスのメイン攻撃手段が激しい動きを伴わない魔法であることもあり、気づけば或斗とミラビリスは固まって動き、敵の襲撃へ備えるようになっていた。
魚人モンスターの厄介なところはその外見にもある。
18体全ての姿かたちが常に寸分の差もなく同じであるため、視線で追っていた個体がどこに行ったのかすぐに見失ってしまう。
敵を視界に入れなければならない或斗にとっては非常に厳しい相手であった。
「まったく同じ、か」
「ビリーさん?」
「この敵は18体それぞれが別に動きながらも、18体全てが同一性を持つのかもしれない」
「それってどういう、うわ!」
或斗へ襲いかかった魚人をミラビリスが風で吹き飛ばす。
「この敵の攻略には、全ての個体を同時に倒すという条件が必要なのではないかということだ」
「全ての敵を? ビリーさんの風の魔法を大規模にしたら、可能でしょうか」
「いやあ、この閉鎖空間でそんなことをしたら、確実に私たちもミンチだね。それにこの魚くんたちには再生能力もある」
「再生能力を封じるには、俺が目で見て否定する必要が……でも、毎回死角から出てくる奴らを全部同時に見るなんてこと……!」
「全方位を同時に見る必要がある、か。人間業では不可能だね」
話しながらも敵への対処を怠らない2人であったが、10分も攻防を続けていると、次第に或斗の息が上がってくる。
ただでさえこの部屋に着くまで、死角を突くモンスターたちに精神力を削られながら移動していたのだ。
足下の水が、水深は浅いながらも確実に動きを阻害し、体力を奪っていた。
そのときも、或斗は水に足をとられてフラついた。
「うっ!」
その隙を見逃さず、魚人の1体が或斗の腕をかぎ爪で抉った。
主要な血管を傷つけるほどの深さではないようだったが、或斗の腕からボタボタと血が流れ、足下の水に溶けていく。
それを見たミラビリスが或斗の限界を察し、1つの提案をする。
「このままでは埒が明かないね。私が道を作る。或斗少年、キミがダンジョンコアに触れてこのダンジョンを掌握し、このモンスターたちを消してくれ」
「ダンジョンコアに……」
或斗は旧新宿ダンジョンでの出来事を思い出す。
あのときダンジョンコアに触れた或斗はバチバチという音を発するダンジョンコアと虹眼をコントロール出来ず気絶してしまった。
ダンジョンの掌握が、或斗に可能だろうか。
しかし、或斗には自分の身を守りながらダンジョンコアまでの道を作るほどの力が無い。
ここに来てやはり自分の無力を痛感し、苦く思うも、他に手が無いのは確かだ。
ミラビリスの提案は或斗の限界を察し、或斗を危地から救うためのものであることも理解できる。
やるしかない。
「やってみます……!」
或斗が頷くと、ミラビリスはわざと死角を多く作って魚人たちを引き付け、そしてダンジョンコアまでの道に居る全ての魚人を魔法で吹き飛ばしてみせた。
「今だ、或斗少年」
「はい!」
或斗は足下の水を蹴り飛ばしながら駆け、ダンジョンコアへ向かう。
そしてその手が、虹色に光る六角形に触れた。
バチッ、バチバチ。
あの時と同じ、何か爆ぜるような音がダンジョンコアから、或斗の虹眼から発され、思わず或斗は目を閉じる。
瞼を閉じても虹色の光が消えない。
ずっとずっと遠いところから、同時に或斗の内側から、声が、情報がなだれ込む。
怒りを孕んだ声、しかし前回とは声の語る内容が違うようだった。
『器よ』
『解放せし者よ』
『満たし、満ちよ』
或斗は自分がどこかの中空に浮いているかのごとき感覚を味わう。
闇の中で浮かんでいる或斗の意識は、虹色に光る六芒星の中心にあった。
意識が収束する。
パチリ、現実世界で或斗が"虹眼"を開く。
その虹色の瞳孔には、今までと違い、同じく虹色に輝く六芒星が浮かび上がっていた。
或斗の視界は奇妙な状態にあった。
目の前が、自分の背後が、離れた場所のミラビリスの周囲が、見たいと思ったこの部屋の中、360度すべてが見える。
昆虫の複眼ともまた違う、形容しがたいのだが、ただ"同時に見えている"状態を脳が認識している。
道を作った際に倒した魚人モンスターたちが一斉に再生し、ミラビリスと或斗へ、全方位から同時に迫る。
「みえる」
「俺は"全てを視る"、全てを否定し、全てを潰す」
或斗はそう呟いて、全てが視える視界の中に居る18体の魚人モンスター全部の再生能力を同時に否定、重力でそれら全ての体を押し潰した。
同時に押し潰され、弾けた魚人モンスターたちは、ポチャンという水音ではなく、カシャンと錠前の外れたような音を立てて水へ返り、今度はもう再生されることはなかった。
ダンジョンコアの部屋に沈黙が戻る。
しかし直後、虹色に光って周囲を照らしていたダンジョンコアは光を失い、消滅した。
「えっ?」
或斗の困惑を他所に、洞窟ダンジョンは地鳴りのような音を立て、ボロボロとその岩の壁を崩していく。
「ダンジョンが崩れる、或斗少年、脱出だ!」
或斗は遮二無二ミラビリスの持つ明かりの方へ走り、伸ばされたミラビリスの手を取る。
そこから地上の光を見るまでのことを或斗はよく覚えていない、ただ落ちてくる岩を避けつつ、必死にミラビリスの後を追っていただけだった。
階段状に砕けている岩を何とか踏み越えて駆け上がり、或斗とミラビリスは海の見える切り立った崖の上へ出た。
眼下に、崖と海の間にあった洞窟の出口が崩れ落ちていくのが見える。
「いやあ、出口が存在していて良かった。あるいは、ダンジョンが崩壊することで出口が出来たのかな」
ミラビリスは小さく息をつく程度であったが、或斗は崖の上で四つん這いになり、ゼエハアと全身で息を整えていた。
これがダンジョン適性という身体能力の格差である。
ミラビリスが手を引いてくれていなければ、或斗は脱出出来ず今頃ペシャンコだっただろう。
或斗の息がようやく整って立ち上がった頃、地鳴りの音を聞きつけたらしき警察が大人数で駆けてくる。
或斗はその中に、普やミクリ、『暁火隊』の面々の顔を見つけた。
「或斗くん、無事だったか!」
「日明さん……!」
或斗は安堵を浮かべた日明の顔を見て、安心感でその場に座り込みそうになった。
そんな或斗へミクリが涙を浮かべて駆け寄ってくる。
「或斗くん、生きててよかった……! 心配したんだよ、ねえ、怪我はない?」
怪我、その言葉に反応して、或斗は咄嗟に魚人から抉られた方の腕を後ろに回して隠す。
もう血は止まっていて、抉られた痕が赤黒く痛々しいだけだったが、あまりミクリに見せたいものではなかった。
そして或斗はミクリの向こう側に、不機嫌を顔中で表現している普の姿を見つける、見つけてしまう。
そんな顔をしていても不細工にならないあたり、世の中の理不尽を感じる。
普は感情の読めない目で、或斗を手招きしていた。
これを無視する選択肢は、或斗には初めから与えられていない。
ミクリへ「大丈夫、心配かけてごめん」と短く謝ると、或斗は恐る恐る普へ近づいていった。
5歩くらいの距離まで近づいたところで、普は無言で或斗の胸倉を掴み引き寄せ、次の瞬間には或斗の視界に星が飛ぶ。
こうなると思った! 或斗は投げやりに思った。
一拍遅れてジンジンと熱を持った両頬を、もう一度ずつ衝撃が襲う。
最後にもう1発、合計5発或斗の頬を打ってから、普はようやく口を開く。
「ヘマしたら殺すって言っただろうがこのド間抜けクソボケドブネズミが」
普との長くもないが短くもない付き合いの中でもそうは聞かないほど怒りの籠った、低い声だ。
「すみません」
口答えせず謝った或斗の頬をもう一周打とうと手を上げる普を、流石に日明が止めてくれた。
普はふてくされた様子で或斗の胸倉を離すと、少し離れたところに立っているミラビリスを見る。
まさかミラビリスにも当たる気じゃあるまいなと危惧した或斗の心配は一旦杞憂に終わり、普は気に入らなさそうに鼻を鳴らしてミラビリスに言い捨てた。
「飯代分くらいは働いたと思っておいてやる」
「『日々の糧』とはすなわち偉大なる主の恩恵そのもの。お財布くんの感謝は確かに受け取ったよ」
「ぶち殺すぞお前」
お財布呼ばわりを止めないミラビリスへ喧嘩を売りに行く普を、或斗は数発ぶん殴られながら必死に止めた。
そこからしばらく県警による現場検証が行われ、或斗も事情をかいつまんで『暁火隊』の面々に話す。
「なるほど、無事だったことにはクロニア氏の助力が大きいと」
「はい。ビリーさん、本当にありがとうございました。何かお礼をさせてください」
といっても或斗にはお金も社会的地位も無いので、出来るお礼といえば普や日明へ土下座して実行してもらうことか、純粋な肉体労働くらいになるのだが。
そんな或斗のお財布事情を話したわけでもないのに、ミラビリスは微笑んで首を横に振り、或斗の申し出を断る。
「『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます』……良い冒険が出来たよ。ではまたいつか、或斗少年」
「えっ、ビリーさん?」
ミラビリスは或斗の声に振り返ることなく、颯爽と立ち去っていった。
「いや、事情聴取のために居てもらいたかったんだが」
「自由人ですねぇ……」
日明と栞羽も呆気にとられた様子で、ミラビリスの背を見送った。
ロクに礼も出来ず、きちんと別れの挨拶も交わせなかったが、或斗は根拠はなくともミラビリスが「またいつか」と言った通り、そのうちまた会えるような気がしていた。
潮のベタつきの無い風を受けて淡い亜麻色の髪をなびかせながら、整備された道路をミラビリスは1人歩く。
ミラビリスの行く先には、深い空色に高々とそびえる入道雲が広がった、開放的な空がある。
「"Polymorphous"――多型的、多態な――多視とでも呼ぶべきか」
常人には面でしか捉えられないこの広い空の風景は、あの虹色の眼にどう見えるのだろうか。
「宝探しは順調だねえ」
ぽつりと呟くその声を聞く者は誰も居なかった。